怒れる中年

あなたは怒ることを忘れていませんか?  ①なんで借金しなければ勉強できないの! ②働きたいのに預ける保育園が無い、えっ!

3.11の余震本番はこれから?!

2021年02月24日 | 東日本大震災…山形から

2月13日の福島、宮城を中心とする地震の後、気象庁は「マグニチュード7.3」「3.11の余震だった」と発表した。

「3.11の余震」??

あなたは驚きませんでしたか❕

もうほとんどの人が「3.11の余震」なんて心配してなかったのでは?

私自身も5年間くらいは、

「世界的にマグニチュード9以上の巨大地震ではマグニチュード8クラス(阪神淡路の何十倍もの規模かな)の余震が何年かのちに必ず来てる」

「3.11も来るに違いない」・・・と叫んでたのに、最近はぼーっとしてた。

そこへ今回の地震。はっと目が覚めました。

そこで思った問題、

「3.11の余震はこれで終わりか?」、

「もっともっと大きいのがこれから来るのか?」

あなたはどう思いますか?

 

気象庁は心配させないためか、またまた問題を小さくして「今回の余震に注意を!」と言っています。

今回の余震なら、今回の地震(マグニチュード7.3、震度6強)より大きいことはないでしょう。

だが、3.11(マグニチュード9.0、最大震度7)の余震なら、マグニチュード8以上は充分考えられるのです。

今回の地震程度で3.11の余震は終わらない。

「今回の余震に注意を」ではなく、「3.11の余震はこれからが本番!」と考えるのが防災の基本ではないでしょうか???

必ず来るだろうと言われる3.11の巨大余震は、これから???

万に一つの来ない場合に期待するのではなく、ほぼ来るであろう巨大余震に備えることを!

プロであるはずの気象庁こそしっかりして!!

ど素人からの一言でした。

 

 

 

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3.11・・・心に響いた記事のいくつか(新聞報道から)

2018年03月11日 | 東日本大震災…山形から

現地を訪ねることができなかったので、今年は新聞報道(「河北新報」と「朝日新聞」の2紙から)で心に響いた記事を紹介します。

河北新報【うたの泉】から

◆「 地獄だと言ひてそののちおとうとの 携帯電話は繋がらざりき  楮原さい子 」(3月11日版)

◆「 三月十日十一日は熱かつたらう 苦しかつたらうと悲しむ日なり  橋本喜典 」(3月10日版)

   ㊟三月十日は今から七十三年前の東京大空襲、十一日は七年前の東日本大震災の日。

 

河北新報3月10日版の記事 「石巻・大川小不明児童の父死去 娘と再会願いかなわず」

リードのみですが紹介します。

「東日本大震災の津波で、石巻市大川小は全校児童108人中、70人が死亡し、今も4人の行方が分からない。不明児童4人のうち、2年生だった女子児童=当時(8)=の父親が昨年夏に他界した。63歳だった。津波は妻=当時(46)=も奪った。空き家となった男性宅には親子3人の遺影が並んでいる。 (大川小事故取材班)」

 

朝日新聞3月11日版の記事 「もう一度 母になりたかった」 「3人が生きた証し 夫婦でいればこそ」(本文は割愛)

 

みなさんは、3.11をどう迎えましたか?

 

 

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今年の3.11は病院の中での黙祷(もくとう)でした、残念です!

2018年03月11日 | 東日本大震災…山形から

毎年、3.11かその前後に被災地にお参りに行ってました。

大人の責任によって未来ある可愛い子どもたちの生命が奪われた石巻市の大川小学校跡には特に。

全校児童108人中70人が死亡し、今も4人の行方が分からないという。

何回か現地を訪ね、裏山にのぼり、学校の周囲を歩き回ってみれば、大人たちの適切な誘導さえあれば多くの生命が助かったと実感できるのではないでしょうか。

大人の一人として、責任を背負い続けるためにも慰霊を欠かせないと思ってきました。

ですが、今年は行けませんでした。

明後日には脳動脈瘤の手術が控えていますから。

 

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 大人たちの責任は消えない! 子どもたちは帰ってこない! 2017/3/11 大川小「痕」 慰霊祭に思う

2017年04月17日 | 東日本大震災…山形から

7年目の慰霊、

宮城県石巻市の大川小学校「痕」(あと、今後、傷痕の意味をこめてこの漢字を使う)、7年目の慰霊が行われた。

毎年この日に大川小学校痕を訪ねているが、今年ブログに報告するのに迷いがあった。

それは子どもたちの生命を守れなかった大人たちの深く、重く、厳しい反省や子どもたちへのお詫び、そして二度と

繰り返さないための決意が伝わらなかったからです。

例年感じてきたことですが、今年はなぜか特に強く思ってしまった。

遺族の方々の中にも、同じような思いの方が多くおられるのではないでしょうか?

行政や教育の関係者は自己保身に走っていないのか?

ご遺族の気持ちを中心にした慰霊祭ができないものか・・・?

 

ご遺族の有志が自発的に造ったといわれる慰霊の祭壇。

大川小学校の廃墟の前にあります。

多くの人が額(ぬか)ずいています。

 

仏教僧たちの読経と被害者ご家族による慰霊・・・。

数年前から大勢の仏教僧が慰霊の読経をしてくれるようになっています。

 

大川小学校の全景。

写真の正面中央付近が、大地震後に生徒たちが待機させられていた校庭。

すぐ右手に慰霊の祭壇。これもボランティア団体などの自主的な努力で造られた。

その右手が「なぜ避難しなかったのか」と問題になっている小高い山。

なぜ、ここに逃げなかったのか、今もって行政も、教育関係者も、真実を語っていません。

実際、津波襲来後にこの山に逃げて助かった生徒4人と1人の教師がいるというのに、です。

 

なぜここに逃げなかったかが問題になっている裏山。

3月、残雪があったとしても教師と生徒が助け合って登れなかったのか!!

 

3.11の当日、山の手前に小さな花が一輪、飾られていました。

このあたりは、激流に吞み込まれた子どもたちが打ち付けられた場所ではないかと、遺体の捜索が行われた場所です。

ご遺族の無念さに、私まで心が締め付けられます。

 

写真の正面右手は津波が逆流してきた北上川に架かる新北上大橋。大川小学校跡地を背にして撮った写真。

橋の左手が小高くなっている「三角地帯」。

生徒たちは津波襲来の直前まで校庭で待機した後、この「三角地帯」へ避難誘導(?)されていたとの説明

があります。そこへ濁流が正面から生徒たちと教職員を襲ってきた…と。ひとたまりもなかったでしょう。

だが、しかし、実は、避難誘導すら行われず、ただいたずらに校庭で待機していたのではないかとの重大

な疑念も出ています。

 

いずれにしても、生徒たち70人が、先生10人が、生命を奪われ、生徒4人が行方不明になっている(2012年10月12日現在、石巻市教委まとめ)という重大な事実 から逃れることはできません。

私が驚いたのは、大川小学校が海抜0~2mの地帯にあったということ。

にもかかわらず、海から離れているという愚かな妄想で普段からの避難訓練も防災対策もしていなかったということ。

関係する行政や教育関係者、大人たちの責任は重い。

もちろん、「リスクコンサルタント」を自称する私たち保険関係者の責任も逃れられないと思うのですが、みなさんはどう思いますか?

 

 

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自分の一生ってなんなんだ?  ・・・・・3.11から教えられたこと

2015年05月31日 | 東日本大震災…山形から

3.11は何を教えているのか?

何度か、このブログにも書いてきたことですが、私は「3.11で自分たちは変わらなければならない」と思うようになりました。特に、あの大川小学校(石巻市)跡に立ちつくすたびに胸をかきむしられます。

なんの罪もない多くの子どもたちが、濁流の中でもがき苦しみながら生命を奪われていったこと、そして大人たちの努力や判断次第では救われたであろう多くの子どもたちの生命・・・。

だがしかし、責任を問われる大人たちとは、他人事ではないと思うのです。

まして普段から「リスク・コンサル」を仕事の柱に据えている保険業界・保険代理店の一員としては、「もっと自分たちにできることがあったんだ!」と責任を痛感せずにはいられません。

このブログのプロフィールにも書きましたが、「亡くなった多くのひと、ひと、ひと・・・の遺志を継ぐとは、自分のまわりにある危機と対峙することだと決意しました」。

 

そんな思いで毎日を過ごしている自分にとって、「これだ!」と共感するものがありましたので、ここに紹介します。

朝日新聞2015年5月28日号の「プロメテウスの罠」という連載記事です。

「たらちねの母(14)・・・砂まみれだって安心」とのタイトルで、沖縄県久米島の福島の子どものための保養施設、NPO法人「沖縄・球美の里」のことが載っています。そこの調理師 Gさんのことが紹介されていました。

Gさん(40)は「岩手県大槌町出身。東京のレストランに勤めていた時に東日本大震災が起きた。翌日バイクで実家に戻ると、がれきの間から遺体がのぞき、まだ生存者もいた。助けたくても助けられなかった。『地獄絵だった』  人生観が一変。自分と家族のためだけでなく生きたいと思うようになる。ネットで調理師募集を知り、昨年6月、久米島に来た。『将来、子どもたちが頑張って生きていくために、少しでも役に立てたら』 」(Gさんのお名前は新聞では報道されているのですが、ここでは匿名にしました。)

短い記事ですが、「3.11は無駄にはなっていない」と強く励まされました。

同じように共感した方も多かったのではないでしょうか。

 

 

 

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20150308大川小跡に立って・・・何を教えられてきたのか?

2015年03月15日 | 東日本大震災…山形から

2015年3月8日、石巻の大川小学校跡に立って子どもたちにお詫びの気持ちを伝えてきました。

大地震が来るぞ!

30年以内に90%の確率だって!

大地震には大津波の危険があるんだ!

・・・何年も前から、なんどもなんども、同じことが叫ばれてきて、それでも君たちを助けられなかった!

巨大津波にそなえる避難訓練もなかったのか?

校庭に隣接してすぐに裏山があったのに、なぜ避難誘導ができなかったのか?

私たち大人の愚かさのために、若い多くの尊い生命を失ってしまった。

(大川小跡の慰霊碑、後ろが小学校の残がい。ここに子どもたちの歓声があった・・・)

 

(小学校の校庭に隣接していた裏山、子どもたちが「先生、山に逃げよう」と叫んだとのこと。どんなにか無念!)

 

毎年、ここに立ちつくすたびに教えられる。

初めは君たちの犠牲の重さに打ちのめされた。

そして裏山の際(きわ)や川の中を捜し続けているご遺族とその友人知人らしき人たちの背中に・・・。

 

私たち大人のふがいなさに胸がかきむしられる思いになった。

だから自分たちの町を見まわしてみた。

内陸部の盆地なので津波はないが、山(月山)の上にある巨大ダム(最大容量1億900万トンの寒河江ダム)の決壊が心配になった。

自分は自分の周りのこの巨大な危険と、これから一生闘い続けることにした。

これは君たちが教えてくれたこと。

 

次かその次の年に、君たちの苦しみをまったく実感できていなかったことにはっとなった。

君たちは海の中で、どんなにもがき、ひどい目にあったことか。

住宅の残がいや車に叩きのめされていたのではなかったか?

「おかあさーん」と叫ぶことすらできずに生命を奪われていったのではなかったか?

 

今年、強く考えさせられたのは、自分が他人のために泣くことができない人間なのではないか・・・ということだった。

君たちのところに来るたびに、いろんなことを教えられる。

頭が下がる。

君たちの死を、決して無駄にはしないことを誓う。

(子どもたちのいない学校だからこそ、静かに、しかし強烈に、子どもたちが訴えてきます)

 

半年ほど前から、朝と夜、「般若心経」を唱えるようになりました。

今年はじめて、あなたたちの霊前に般若心経を捧げました。

来年はお経を見ないで般若心経を捧げられるようになってきます。

             (2015年3月15日 記、東海林正弘 )

 

 

 

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普段から命の話をしよう ・・・6月30日、石巻に一緒に行った仲間の報告

2013年07月29日 | 東日本大震災…山形から

これは同じく「リスクコンサル・ネット」を担っているKさんの報告です。

6月30日、山形から一緒に行きました。働きながら小学生の子どもを育てているガンバリ屋さんです。

彼女が、石巻での交流や大川小学校跡の訪問から感じたことを書いてもらいました。

        

  普段から命の話をしよう

                            

         リスクコンサル・ネット会員:K

    

日々、生活に追われ、あれほどこわい思いをした地震や津波の記憶が薄れています。

特に私は、身のまわりにあの地震や津波でなくなった人もおらず、家が倒壊した、仕事を失った、など普段の生活が継続できなくなったという人もいません。

    

いまだ収まらない原発でさえ、最近では、アベノミクスの経済効果や参院選の話題にかき消され、毎日毎日沸きだしてくる世界の出来事に埋もれてしまっています。

     

今回の、被災地・石巻を訪問する機会は、わたしに、2年前、「決して忘れてはいけない」と思ったこと、それなのに忘れてしまったこと、をはっきりと思い出させてくれました。

             

税理士でもある庄司慈明さんの話は、午前中2時間という短い時間、自らも避難した避難場所の現地対策本部長として活動した中での、その激しく強い記憶と後悔の思い、人の本能に対する驚きと感謝、そしてこれから社会が行うべきこと、自分がその役割を市議会議員として果たしていこうという強い気持ち、をお話いただきました。

     

その話を聞く中で、わたしは、先にも述べた「決して忘れてはいけない」の内容を思い出したのです。

            

普段から、命の話をしよう でした!

      

人間は普段から、現状より悪くなることを想定して生きていない。こんなことあるといいな、と現状より良くなることを祈って生きている。

      

普段はそれでもいいもしれない。しかし災害時には、普段から最悪のことを想定して備えておくこと正しい情報から想像をし、的確に判断する力、が命をつなぐことになる。

    

 ~今回のこの地区で言えば、

    

大きな地震がきたら、以前あったように津波が来るかもしれない。

        

津波がきたとき、みな居場所が離れているかもしれない。

   

そのときそれぞれどこに逃げるか?逃げる場所の判断基準は?

     

そこは安全なのか?まちがいなく海面よりはるかに高いのか?

   

それぞれが判断して避難する。他の家族のことはお互いを信じて助けに行かない。

    

おちついたら○○で会おう。

         

    

・・・ といったことを普段から、家族で話合い、決めておくことが必要だと。

     

自分の命を守ること。それが家族みんなの命をつなぐことになるのだと。

      

               

午後から、大川小学校跡を見学しました。光景は実際に行って見てほしい。

           

わたしも1人の子どもをもつ母親として、震災直後の姿を想像するにあまりにも胸が

    

痛く、改めて「普段から、命の話をしよう」の言葉を心に刻みました。

    

 (2013年6月30日 石巻を訪問して)

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大川小の亡くなった子どもたちは何を訴えているのか? ・・・6月30日、石巻訪問の報告(その2)

2013年07月29日 | 東日本大震災…山形から

大川小学校跡に立つのは3回目でした。

そのたびに、心に訴えかけてくるものが違ってくるのです。不思議です。

初めは、惨状にぼう然とするばかりでした。

2度目は、黒く冷たい濁流に呑み込まれ翻弄されながら、子どもたちは「おかあさーん」と叫ぶこともできずに亡くなったんだと気づきました。そう思うと、それが自分のこどもや孫だったら・・・胸がカキムシラレルヨウデス。

今回の3度目は、亡くなった子どもたちが私たち残されたものに何を訴えているのか、ということでした。

私の胸に響いてきたのは、「みんなを助けてー!」という叫びでした。「自分を助けてー!」という叫びは当然ですが、「子どもたちみんなを助けてー!」と叫んでいるように聞こえるのです。

   

3.11以降、被災地であれ、たまたま被災地でなかったにしろ、残された大人たちの責任は、子どもたちに2度とこのような悲惨、苦しみ、絶望を味わわせてはならない・・・ということではないでしょうか。

あなたは、どう思いますか?

       

次の4枚は当日、撮った写真です。

① これは廃墟となった大川小学校の全景です。濁流は2階建て校舎の屋根付近まできました。鉄筋コンクリートの脚が倒れています。津波の激しさを物語っています。子どもたちは、そんな濁流に呑み込まれていったのです。

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② 大川地区の全景です。小学校を中心に集落がありました。ここでも400人余(今のところ正確には分かりません)が濁流に呑みこまれていったそうです。手前の川が北上川です。右手の山が「あそこに逃げれば助かったのでは」と言われている学校の裏山です。子どもたちは先生に誘導されて右手手前の橋のたもと(周囲から5メートルほど高くなっている)に逃げようとしていました。そこを津波が襲ったのです。

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③ 実際に逃げて助かった子どもたちもいる裏山の登り口周辺。

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④ 学校の前の北上川の堤防です。高さ5メートルほどか? これでも3.11後に補強された堤防です。驚いたことの一つが、大川小学校周辺の海抜は0~2メートル程度だったということです。

どんなに立派な建物でも、そもそもそれが建っている土台や地域が安全でなければ、危険に対して無力だということを教えているのではないでしょうか。

同じような危険は、全国各地にあるのではないでしょうか。

私の住む寒河江市や隣の西川町でも、最大容量1億900万トンもの寒河江ダムという巨大ダムの下に小学校があります。子どもたちは大丈夫? ?

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6月30日、石巻を訪問し被災者の方と交流してきました(その1)

2013年07月02日 | 東日本大震災…山形から

何度目かの石巻訪問でした。でも、今までは大川小学校跡などの被災地をまわり、残された瓦礫を見て、「被災者はどんなだったろう・・・」と想像することが主でした。

今回は、ご自身が被災者で、避難所となった湊小学校の対策本部長の任にもあたった庄司慈明さんの話を伺うことができました。お忙しい中、約2時間半、具体的な出来事や教訓を詳しく話してくれました。人間として如何に生きるかにつうじる意義深いお話であったと思います。

リスクコンサル・ネットの友人、仙台の石塚さんたちと一緒に取りくみました。

仙台からは9人、山形からは私を含めて4人、合計13人の参加でした。

      

庄司さんのお話で印象に残ったことは一杯ありますが、その中から二つを紹介します。

〔1〕 一つは非常時の判断ということ。

避難所となった湊小学校には1500人くらいが、飲まず食わずで居た。

そこへ3日目の晩、おにぎり300個が届いたそうです。しかし配らなかったというのです。

「届いたのはみんなが知っていたのに、誰も怒らなかった」と。

「全員に配れるときにしか配らない」というマニュアルもあったそうですが、しかし簡単にできることではありません。

「ここに300個がきたということは、これからもっと支援が強まるということ」と話しをして300個を配らなかったのだそうです。

    

〔2〕 もう一つは、「昨年の3.11、ろうそくで絵文字をつくった。家族を失った方は悲しみを乗り越えるのは容易ではない。悲しみとともに生きる人、新しく見つけ出したものに生きる人・・・など。何とともに生きるかは人それぞれだが、しかし、何かとともに生きることが大事」と話されました。

“ともに生きる”がテーマになった、と。

そのお話を、より深く考えさせたのは、庄司さんの次の一言でした。

「私は被災はしたが家族を失っていない。だから家族を亡くした人の痛みは分からない。そこからは想像力だと思う。」・・・こうした想いがあるからこそ、“ともに生きる”がテーマになるのだと思うのです。

私も山形で、いろんな人と3.11や大川小学校のことを話しあっていてよく思います。

私たち山形の人間は直接的な被災はしていません。だから庄司さん以上に家族を亡くした人の痛みは分かりません。

でも、できるだけ現場に足を運び、被災者の実状を想像することで、より深く知ることはできると思うのです。

庄司さん、貴重なお話をありがとうございました。(その2に続く予定です)

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6月30日、石巻訪問のお誘い・・・東海林正弘

2013年06月24日 | 東日本大震災…山形から

「現場主義」という考え方がありますね。私はそんな風なものかもしれませんが、「主義」というよりも、できるだけ現場に近づかないと分からないんです。

感覚が鈍いというか、つまり愚かなんですね。

ですから3.11以降、仙台港、亘理町、石巻市と大川小跡、須賀川市の藤沼ダム(3.11でダムが決壊し7人が死亡、1歳の子が今なお行方不明)、5年前の岩手・宮城内陸地震被災地の荒砥沢ダム(複数の山が巨大崩落をおこし、その土砂の一部がダムに流れ込み、ダムに6mのダム津波が発生)、阿武隈川・・・などをまわってきました。

一度行って、よく見れなかったり分からなかった所はまた行きました。

「案内」にも書きましたが、大川小跡に立っても、1回目は、その廃墟に衝撃を受けるだけで、子どもたち1人ひとりの心情というか想いに考えがまわりませんでした。だから、また行きましたし、今回も行くんです。

      

すでに訪ねた方もおられるでしょう。でも、まだの方は一緒に行きませんか?

きっと何かを考えさせてくれるはずです。

それはあまりにも早く逝ってしまった子どもたちの遺言なのではないでしょうか。

こう書きながら疑問が湧いてきました。

「逝ってしまった」でいいのか?

「殺された」ではないのか?

私たち大人こそが考えるべき ことではないでしょうか、だって“大人”なんだもの。

「6.30 石巻訪問のお誘い.doc」をダウンロード

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