4月15日午後7時42分、お袋が亡くなった。
文字通り「無くなって」しまった。
もう存在しないんだから、2度と会うことはできない。
今年の1月9日、夜中の2時ころにトイレで倒れて、山形市立済生館病院に救急車で運ばれ、入院に。それから約3カ月の入院生活だった。
当初は、血便したということもあり、「大腸癌かも、検査を」とすすめられたが、「90歳の高齢で、癌だとしても手術しないし、癌が急速に進むこともないから、検査で苦しめたくない」と検査を断った。医者も「血液検査の結果では特に問題ない」となり、点滴と酸素吸入で1か月を過ごした。
意識はあったが、ほとんど何も食べず、みるみる痩せていった。
医者は「食べないのが問題で、このままだと1週間くらいで衰弱して死んでしまう」と、胃に穴を開けて流動食を流し込む「胃ろう」の手術をすすめた。
「食べるようにさえなれば、元気になる」と、強く胃ろうの手術をすすめた。
残念だったし、悔いが残るのは、自分の勉強不足のために、胃ろうの手術に強く反対しきれなかったこと。
お袋が「ボケてる」と言っても、話は半分くらい分かっていたし、意思を表現することもできていたのに、「ボケた年寄り」と見て、胃ろうの手術のことをお袋に説明しないままの手術になってしまったこと。
胃ろうの手術後、約1カ月、表面的には体力が回復したようで、済生館の担当医師から「これ以上、治療する必要はない」。「胃から流動食を流し込むだけで、家族でもできる」と、退院を強制された。
2月28日、やむを得ず、山形市のはずれにある山形厚生病院に転院した。
病気というよりも「痴呆がひどい」ことを理由の入院だった。
ところが、転院先の入院前検査で、「肺に水が溜まっていて、相当に危ない」と医師から告げられた!
肺は半分以上、真っ白だった。
医師は「済生館は、なんで、こんな患者を退院させたんだ!」と激怒し、「すぐ戻せ!」とどなった。
胃ろうの手術後には、流動食が逆流し、肺や心臓に水が溜まりやすいのだそうだ。
そんな危険についての何の説明もなく、胃ろうの手術から転院へと振り回された自分たちが情けない!
悪いのは自分だ! だめなのは自分だ!
お袋のもがく姿は見るに堪えなかった。
酸素マスクに、点滴、点滴の管を刺すところも無くなったと。両手は拘束されて、時には、下痢からお尻が爛れてしまい、廊下中に聞こえる大声で「痛いー痛いー」と叫んでいた。
お袋にとっての人生の最後を、人間として我慢できないものにしてしまった!
4月8日ころから、容態は目に見えて弱っていき、尿が出ないために浮腫みがひどくなってきた。
「手は、先週は揉んでほぐせたのに、パンパンに腫れ上がり、揉むこともできない」(4月8日)
「お医者さんから呼び出しがあった。容態が悪いと。今週はもたないかも、と。感覚や意識が鈍くなってきているので、それほど苦しみを感じてないのではとも言われて、なぜか、少しほっとした」、「親の緩慢な死を見つめ続けなければならないのは苦しい」(4月11日)
「Sさん、Nさんと一緒に行った。手はグローブのようにパンパンに腫れていた。顔色も、昨日よりも黒ずんできているように思った」。「酸素マスクをしながら、ぜーぜーと息苦しそうに口を開けていた。眼にはうっすらと涙がにじんでいるようだった」。「看護婦さんに頼んで痰をとってもらったら、楽になったのか、眼を半分くらいまで開けて、自分たちのほうを見た」。(4月12日)
「夕方、東京から、息子と、娘は1歳の子を連れて来てくれた。すぐに病院に行った。手はますます腫れていたが、顔は腫れていない。きれいなままなのにはびっくりする(お袋は、生まれ故郷の白岩で「白岩小町」とも言われた美人だったらしい)」。
「眼は5ミリくらいしか開かない。それでも『正賢だよ』、『美世だよ』、『結菜も来たんだよ』と言うと、少し分かるらしく眼を少し大きく開けたり、なんか『うんうん』とうなずいているみたいな様子をする。」
「『お袋ー、90年もよく働いたなあー。頑張ってきたねー、だから子どもも孫もひ孫もみんな元気に育ってるんだよー』
離れがたかったが、30分ほど居て帰ってきた。」(4月13日)
「仕事が溜まっていて、夜の8時近くになった。正賢(息子)や妻たちは、親父も誘って、昼過ぎに病院へ。
夜遅かったからか、眼は1~2ミリくらいしか開かなかった。声をかけても反応は分からない程度。それでも、自分が来たのは分かってるみたいだ。
手は相変わらずパンパンに腫れているが、冷たくなってきている。尿が出ないので、その水分が溜まっているからかもしれないが、額も冷えてきているのを併せ考えると、体内の活力というか生きる力が、徐々に下がってきているのかもしれない。
『お袋ー、頑張ったねー。少し休んでいいんだよー。ゆっくり寝ていいんだよー』。
最近、小学生のころ、お袋に頭を刈ってもらったことを思い出す。バリカンが良くなかったのか、腕が悪かったのか、髪の毛が引っ張られて痛かったなあ。」
「もう1日か2日くらいでずっとお別れかも・・・」 (4月14日)
4月15日夜、いつものように病院に向かっている時、兄から「医者から危ないと連絡があった」と電話が入った。
19時40分ころ、病室に入ったら、お医者さんが付いていた。
脈拍は20~21だった。
かあちゃーん、ありがどさまー! おかげでみんな元気に育ったんだよー! もうゆっくり休んでけろよー!
そして、みるみる脈拍0に。
19時42分。
苦しい顔をせず、とても90歳とは見えないきれいな顔だった。
20時5分、お医者さんが、家族がそろったところで死を宣告した。
私が聞いたお袋の最後の言葉は、「おれは幸せだったあ・・・」という一言だった。
2011年4月24日 記
追記:
4月17日、お袋の葬儀を行った。身内だけの質素な葬儀にと思ったが、若い人中心に、40人を超える参列者となった。子、孫、ひ孫の数を数えたら、子ども夫婦が8人、孫とその配偶者が21人、ひ孫が7人、さらに参列していたお腹の子どもが3人、合計39人にのぼっていた。子どもたちのために、お袋と親父が、どんなにがんばってきたことか。