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怒れる中年

あなたは怒ることを忘れていませんか?  ①なんで借金しなければ勉強できないの! ②働きたいのに預ける保育園が無い、えっ!

河北新報社編 『私が見た大津波』

2013年04月29日 | 東日本大震災…山形から

この本のカバーに次のように書いてあります。

「大津波の現場は被災者の数だけあるーーー。

発生からひと月を経て開始された『河北新報』の連載企画『私が見た大津波』を書籍化。

大津波の被災体験を絵に描き、伝え残す。

宮城県から75編、『心の現場』の再現記録。」と。

    

被災者の生の声を聞きたいとの思いから、この本を手にしたのでした。

あれほどの苦難や絶望に打ちのめされながらも、被災者おひとりおひとりの文と絵は、予想よりもずっと落ち着いているように思えました。

しかし読み進むうちに、この静かな叫びこそが、言い表しようのない被災者本人の訴えなのだと気づかされたのです。

Photo    

石巻市の女性は書いています。

「門脇小に通う長男(9歳)、長女(8歳)と、次女(5歳)は避難して無事でした。でも、夫は子どもたちの避難を確認した後、仕事で油まみれの作業着を着替えようと家に戻ったまま、行方不明です。」

一見、たんたんとした語り口の中に、どきりとするのです。

生き残った人も、紙一重で生き残ったのでした。

東松島市の女性は書いています。

「思えば、津波に襲われる30分ほど前に(避難していた小学校から)『もう帰ろう』との声も出ましたが、『あと30分待とう』と呼び掛け、学校に踏みとどまったことで、私自身も命拾いしました。あのとき、車で帰っていたら、どうなっていたか分かりません。」

みんなが、必死で助け合ったことも教えられます。

女川町の男性は書いています。

「水が役場の4階ベランダに迫ったため、はしごを登って塔屋に避難しました。お年寄りを引っ張り上げ、車いすの女性は消防ホースでつり上げました。」

・・・・・・・・・・

ぜひ読んでみて下さい。そして感じたことなどを教えて下さい。

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3.11 石巻の大川小学校跡に立ちすくむ(その2) ・・・ 惨禍を繰り返さないために 

2013年03月14日 | 東日本大震災…山形から

Ⅰ) なぜ河川敷に小学校を建てたのか?

2度と同じような悲劇を繰り返さないために、はっきりと言わせていただきますが、大川小学校跡を歩きまわって、私が一番に強く思ったことは「津波は天災であっても、その被害がこんなにも大きくなったのは人災だ」ということです。

    

大川小学校は北上川の河川敷にありました。町があり、その中心に小学校がありました。集落や学校が建っていた地域は海抜1mから2m。北上川の流れとは3メートル程の高さの堤防で仕切られていただけでした。

   

一番不思議に思うのは、「なぜ、こんなところに学校をつくったのか!」ということです。そして、その危険なところの小学校が「地域の避難所」になっていたことです。

私が通っていた山形県寒河江市の白岩小学校と白岩中学校は山の上にありました。町は寒河江川の川沿いに発達していたのですが、学校だけは町の中ではなく山の上に造られていました。

毎日、学校まで10分~15分ほど登り、自宅からは30分近くかかったと思います。グラウンドは小・中共用で、野球のボールなどが崖下の墓地に落ちていったものです。

そんな私の経験からすれば、川沿いに、それも津波の危険を考慮すべき地域で海抜1~2mの所に小学校を建てる! あり得ないことです。なぜ山の上に建て、そこを避難所としなかったのか?

   

「なぜすぐに逃げなかったのか?」 「どうして裏の山に逃げずに、川の方へ避難したのか?」・・・など、いくつもの疑問があるでしょう。

しかし、まずはハード面で、なぜあんな低い所に学校を建てたのかが問題です。

そして、ソフト面では、当日の避難行動の疑問点や津波に備えた防災対策の欠如が問題になります。

     

危険な場所にありながら、その無防備ぶりは驚くほどです。

これらは大川小学校だけの問題と言うよりも、現代日本人が巨大リスクに眼を塞いでいるのではないかという根本的な疑問につながります。

先人たち、少なくとも第二次大戦直後までの日本人は「万一」に対する恐れを持っていたと思うのです。白岩小学校の例だけでなく、社会のすみずみに見受けられるのです。貧しかったが子どもたちの安全を大切にしてきたのではなかったでしょうか?

   

Ⅱ) 第2、第3の大川小学校の危機が全国各地にある!? 

3.11大災害から2年、この間、被災地など各地をまわりました。

特にダムを調べてまわりました。

   

あなたはご存じでしたか?

3.11大地震で福島の藤沼ダムが決壊し、7人の生命が奪われ、1才の男の子が今も行方不明だということを。

「えー! 地震でダムが決壊するの?」 

驚きでした。

決壊現場を、自分の目で確かめようと足を運びました。総貯水容量150万トン の比較的に小さな灌漑用ダムなのに、ダム津波となって流れた濁流は凄まじい力で襲いかかってきました。

    

福島だけではありませんでした。

5年前の岩手・宮城内陸地震(マグ二チュード7.2)でも、荒砥沢ダム(総貯水容量1413万トン)のすぐ上で日本で最大規模の山の大崩落が起き、危うくダムが決壊するところだったのです。ダム管理事務所の人の話では「流れ込んだ土砂によって6mのダム津波が起きた」「危なかった」ということでした。

   

あなたの町ではダム決壊の心配はありませんか?

海岸線では津波が危険です。

しかし内陸部では、山とダムの多い日本、ダム決壊の危険が大きいのです。

「第2、第3の大川小学校の危険」と私が言うのはこのことです。

それぞれに自分の足元を見つめ、巨大リスクから逃げず直視し、子どもたちをはじめ多くの人たちのあんしん・安全を考えていく。それが苦しみもがきながら、尊い生命を奪われていったこどもたちへの償いではないでしょうか。

  

「想定外」という言葉の虚しさ、そんなことを、あの大川小学校の子どもたちに語れるでしょうか?

   

私の住む山形県の村山地方には多くのダムがあります。

最大は月山の中腹に造られた寒河江ダムです。総貯水容量は1億900万トン。

この真下と言っても良い西川町に、昨年、5つの小学校を統合した西川小学校が完成しました。

驚くことに、この小学校は寒河江川の川沿いに造られました。外観だけは立派ですが、肝心の子どもたちの安全はどうなっているのでしょうか?

地震でダムが決壊したらひとたまりもないでしょう。大川小学校を上回る悲劇が起きるのでは・・・と心配でなりません。

     

ここだけではありません。寒河江市の醍醐小学校も寒河江川の川沿いです。立派な建物が造られ、集落の避難所になっているそうです。

山形市の東沢小学校は、蔵王山系の麓にある蔵王ダム(総貯水容量730万トン)の真下、馬見ケ崎川の川沿いです。

    

どうしてこんなにも安易に小学校や中学校が海沿いや川沿いにつくられているのでしょうか?

安全性よりも経済性が優先になっている? そんなことがあってはなりません。

こんな現実に眼をふさいでいませんか?

もう一度、亡くなった大川小学校の子どもたちのために、自分たちの足元から巨大リスクを見つめなおしていきませんか? 

   ・・・・・ 3.11に思ったこと (リスクコンサル・ネット会員) 東海林正弘

 

    

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3.11 石巻の大川小学校跡に立ちすくむ(その1) ・・・ どんなにか怖かった!

2013年03月12日 | 東日本大震災…山形から

昨年訪ねたときは、惨禍としか言いようのない事実に圧倒され、周りを見ることもできませんでした。今回は、少し見渡せました。

   

慰霊碑の前に佇みました。大川小学校の跡地をまわり歩きました。唯一の避難路だったかもしれない裏山も間近に見ました。北上川の上流や下流も車で走ってみました。

    

しかし、ご遺族の方の苦しみを到底理解できたわけではありません。

ただ、一番に思ったのは、亡くなった子どもたちの心情です。

水の中は、さぞ冷たかったに違いありません。

奔流となったどす黒い水にふりまわされ、どんなにか怖かったことでしょう。

何かに叩きつけられ、打ちのめされたかもしれません。

「おかあさーん!」と叫びつづけたかもしれません。

でも、声をあげることすらできなかったに違いないのです。

   

あなた方を救う力が、私にはなんにも無いのです。

私は無力です。

大人として恥ずかしい。

    

私にできることは、第2、第3の大川小学校の凄惨を起こさないように、全力を挙げて取り組むことです。

あなた方の激しい身体と心の痛みを、もう2度と繰り返してはならない。

それが、3.11地震前には何もできなかった愚かな大人の償いに違いないのです。

 ・・・・・ 3.11に思ったこと   (リスクコンサル・ネット会員) 東海林正弘

             (当日の写真などは後日、掲載します)

    

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3・11に石巻の大川小学校跡に行きませんか・・・あそこは私の原点になりそうです

2013年03月07日 | 東日本大震災…山形から

昨年は亘理町の慰霊祭に参加させてもらいました。

この2年間、被災地を何箇所かまわってきて、これからの自分の立ち位置というか、原点になりそうなのが大川小学校の跡地でした。

あそこに立っていると、「リスクコンサルタント」を自称してきた自分たち損保業界の者が如何に無力であったか、如何にリスクを直視していなかったか、悔まれてなりません。

そして、自分たちの足元を見つめてみると、大川小学校と同じような現実があちこちにあるのです。

第2、第3の大川小学校の子どもたちを出してはならない!

そう痛感するのです。

   

今年の「3.11」は石巻の大川小学校跡に行くことにしました。

どなたか一緒に行きませんか?

    

◆ 当日の予定は、

 ① 12時~13時30分、

   大川小学校跡地で慰霊(式典があるかは分かりませんが、)

 ② 14時30分~16時、

   石巻市の犠牲者追悼式に参加、献花の予定です。河北総合センター。

    

※ 急ですが「一緒に行こうかな」という方はご連絡ください。

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小さき旗揚げ; リスクコンサル・ネット(準)の呼びかけ

2012年06月16日 | 東日本大震災…山形から

3.11以降、ずうっと考え続け、実際に現地を調べてまわって思いました。

自分たちは身近にある巨大リスクを見逃していたのではなかったか?

とりわけ「リスク・コンサルタント」を自認している保険代理店や保険会社などの関係者は、痛烈に自らの責任として、この大災害、大被害に立ち向かわなければならないのではないか?

福島の原発事故すら収束していないにもかかわらず、野田政権は福井県の大飯原発を再稼働させようとしています。そんな動きが強まっている今だからこそなおのこと、私たち一人ひとりが自分の足元を見つめなおし、できることをしていかなければならないと思うのです。

6月5日の朝日新聞「声」欄に「福島置き去り 大飯再稼働か」と題した福島県の女性の投書が載っていました。

「福島県の人たちは皆本当に我慢強く、静かです。でも心の底に『原発はもう二度と動かさないで』という強い気持ちを持っているのです。」

     

小さき旗揚げとして、「リスクコンサル・ネット(準)」を立ち上げました。全国のみなさんの参加やご協力をお待ちしています。詳しくは添付の「呼びかけ」をご覧ください。

その一部を転載します。

     

「3.11で多くのことが問われています。日本の良いものを活かしつつも、『3.11以降、日本は変わらなければならない!』と痛感します。

それは甚大な被害に対する人類の一員としての痛切な責任と反省を共有するからです。

明らかになった巨大リスクの具体的な事実を直視し、被害を最小限まで少なくするために、多くの人々の努力にまなび、手をつなごうと考えたのです。」

    

「私たちは3.11で教えられました。人間にとって最も大切なのは愛するものの生命だということを。そして、大切なものを守るためにこそ巨大リスクを見過ごしてはならないという事実です。

あの大災害を二度と繰り返さないために、自分たちの足元から巨大リスクを見つめなおしていきましょう。」

「risukonnnettoyobikake.docx」をダウンロード

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石巻:大川小学校跡に立ちすくむ…自分たちの愚かさに痛恨の想い(その2)⇒自分の足元から見直そう

2012年05月14日 | 東日本大震災…山形から

(1) 大川小学校の「悲劇」に向かい合う

今は2012年5月14日午前1時35分。なぜこんな時間になったかと言いますと…。

昨日は日曜でしたが、日中は白岩義民の374回忌の慰霊祭があり、このテーマに向かったのは夜になってからでした。これまでにも何回もチェックしたインターネット関係の情報でしたが、大川小学校のことを書くにあたっては、やはり再度のチェックをしないではいられませんでした。

遺族の方々の言い表しようのない無念さ、当日の状況、3.11大震災までの防災対策は・・・などを読み直し、考え、ようやく書き始めたところなのです。

とりわけ、亡くなった子どもたちや教職員の方々の痛み、苦しみ、恐怖、悶え、そして無念さ…を思うとき、簡単には1文字も書けないのです。

     

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津波というこの巨大な力の下で、まだあどけない小学1年生から6年生の子どもたちが、私たち大人の愚かさのために多くの生命を奪われたのです。

「怖かったろう」「痛かったろう」「ごめんよ」「ごめんよ」

私たち大人が、もっともっと考えて対策していれば、いっぱいのいのちを助けられたのに。

悔んでもくやみきれません。

    

「この犠牲を二度と繰り返してはならない!」

それが残された私たち大人の使命ではないでしょうか。

「真実」とは、事故の真相だけではないと思います。

一人ひとりの人間の尊厳に向かい合いつつ、今日の事態を考えることなのではないでしょうか。

その意味で、3.11大災害の全国の死者:15,857人(現在までに把握された人数ー5月14日の復興庁ホームページより。以下も同じ)、行方不明者:3,057人(届け出のあった人数)は、とてつもない重さです。

そしてこの「悲劇」(本当は、人災による悪事ではないのか!)の最も典型的な「悲劇」が大川小学校ではないでしょうか。

校庭に避難していた児童108人中70人が死亡、4人が行方不明(2012年1月23日現在)、校内にいた教職員11人中9人が死亡、1人が行方不明(2011年4月9日現在)・・・いずれも『ウィキぺディア』より。

私たちは、この尊い犠牲に、どう立ち向かえばよいのでしょうか?

      

(2) 人災の責任は誰に? 

今回の大川小の犠牲について、ほとんどのマスコミ記事やインターネット情報は、当日の先生方の避難誘導と、普段からの防災訓練などを問題にしています。

それも問題でしょう。しかし、果たしてそれだけでしょうか?

中には、行政や学校側の津波等に対する危機意識の無さを問題にしている意見もあります。

だが、しかし、そうでしょうか?

もし津波等に対する危機意識があったなら、あんな北上川の河川敷とも言える川沿いに小学校を建てたでしょうか?

高さ5メートル程度の堤防で子どもたちを守れると思っていたとすれば、それは大人たちの愚かさではないでしょうか。

こう言えば、「広い土地を確保するにはあそこしかなかった」との反論もあるでしょう。最近、全国各地で、小・中学校の統廃合が進んでいますが、広く安く学校用地を確保するために、河川敷や海岸近くに学校が建ってきているのではないでしょうか。大川小学校もその一つだったのでは・・・、これは私の考えすぎでしょうか? 

安全よりも学校の大型化に走っていないのか?

   

今回の大災害で、とりわけ重大な責任があると思うのは、本来リスクコンサルティングを担うべき保険業界だと思います。

これは私自身が保険代理店という立場にあるからこそ強く思うのかもしれませんが、地震や津波から学校や地域は安全か、普段の安全訓練はどうか…など、リスクの専門家としてアドバイスする社会的責務があるのではないでしょうか。

はっきり言って、こういう視点で、私自身はまったく考えていませんでした。まず「保険商品ありき」だったのです。たとえば地震保険、これを売るために「地震の危険も大きいよ」と話していたのです。

そうではなくて、地域や個人の生活が、どんな危険にさらされているかを、普段にチェックし、減災のための提言をしていく・・・これは保険業界に身を置くものの社会的責任ではないのか!

   

例えば、誰かが、安全・安心のコーディネーターとして、「大川小学校の裏山の道を改善しておくべきだ」と提言していれば、今回の犠牲は最小限にできたのではないか!

子どもたちを守れたのではないのか!

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残念ながら、保険会社からも保険代理店からも、こうした反省は聞かれません。保険業界に身を置くものの一人として、自分自身の愚かさも含めて、恥ずかしい。

      

(3) 自分たちの足元から見つめなおそう・・・「第2第3の大川小」を出さないために

身近なところに危険が放置されています。

「そんなことは起りっこない」と。

そして、もし大災害が発生すれば「想定外だから仕方ない、誰も責任がない」となるのです。「そんなことは起りっこない」と言った舌を隠してしまい、別の舌を出してくるのです。「2枚舌」とはこのことでした!

    

3.11後、私が最も心配しているのは、私の周囲(山形県寒河江市周辺)を見る限り、蔵王ダム(総貯水容量730万トン)や寒河江ダム(総貯水容量1億900万トン)の決壊です。

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月山の麓、国道112号沿いにある寒河江ダム(4月29日撮影)

        

3.11地震で福島県の藤沼ダム(須賀川市)が決壊し、7人が亡くなり、今なお1人が行方不明だということは意外と知られていません。

「寒河江ダムが決壊したら?」と話すと、「えーっ?」と驚く人。

「そんなことはあり得ない」と、なぜか断言する人。

「そしたら終わりだよね」とうなずく人。さまざまです。

     

私は地震学者ではありませんから予想をたてることはできません。

しかし、やみくもに「安全だ」「ダムは決壊しない」と断言する気にもなれません。

少なくとも、地震でダムが決壊し、家が流され、人が死んでいることは事実なのです。

さらに、2008年6月14日の岩手・宮城内陸地震(日本最大規模の巨大な直下型地震)で荒砥沢ダム(総貯水容量1500万トン、寒河江ダムと同様のロックフィルダム)が決壊の危機に瀕したこと。これも事実です。

だから、つぎのような光景に愕然となるのです。

     

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(雨で増水した寒河江川と西川小学校、2012年5月4日撮影)

    

写真は山形県西川町の西川小学校です。既存の5つの小学校を統廃合して、新しく4月から開校しました。寒河江ダムが直下型地震に襲われればどうなるのでしょうか?

寒河江川からの高さは10メートルもないでしょう。

寒河江ダムが決壊すれば、真っ先に直撃される場所にあります。

まして寒河江ダム周辺は岩盤が脆く、近辺では崩落などが続いているというのに。

   

まず、「あり得ない」という盲信を払いのけて、自分たちの身の回りを見直してみましょう。

多くの人と情報を交換し合って、自分たちの足元から巨大リスクへの対抗策を考えていきましょう。

そうしなければ子どもたちを守れないのです。 (2012年5月14日 記)

    

[ 追記 ] 2012年4月29日、私たちをとり巻くさまざまのリスクについて情報を交流し、現場に足を運んで勉強し、減災の提言をしていくための組織として「リスクコンサル・ネット準備会」を立ち上げました。まずは山形と仙台の仲間たちで発足しましたが、全国の多くの志を共有する人たちと手をつないでいきたいと願っています。

「自分たちで調べ、考える」のが基本ですが、「しかし、自分たちだけではできない」からです。

地震、原発、ダム、また健康や生活面での癌、金融恐慌…など、課題は山のようにあり、私たちの小さな力で何ができるのかと躊躇してしまいますが、大川小学校のような悲劇(人災)を二度と繰り返さないために頑張る覚悟です。「3.11後、自分たちが変わらなければならない」「日本自身が変わらなければならない」と思うのです。

「リスクコンサル・ネット」について、詳しくは、別途、案内を掲載する予定です。

 

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石巻:大川小学校跡に立ちすくむ…自分たちの愚かさに痛恨の想い(その1)

2012年05月01日 | 東日本大震災…山形から

報告が遅くなりましたが、4月14日に石巻に行ってきました。大震災後、2回目の訪問です。今回は大川小学校跡を訪ねました。

どう書いたらよいのか、「軽々しく書けないなあ」と思い悩んでいたのです。

     

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土曜日ということもあるでしょうが、次々と弔う人たちが続いていました。みなさん、さまざまの想いを持ってのことでしょう。

中には香川県のバスで来られた方たちもおられました。

献花する後ろ姿は万感の思いを伝えているようでした。

ただ、立ちすくむほかありませんでした。

裏山の手前では、7~8人の方たちが、1年経った今もなお、「何か、遺品などを捜しているんだ」とのことでした。 

言葉もでませんでした。

          

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小学校跡です。惨状です。

子どもたちや先生方が、津波に襲われ、どんな思いで瓦礫と一緒に流されていったのか・・・!

避難してきたお年寄りたちも一緒に流されたとのこと・・・

北上川沿いのこの場所が避難所になっていたのです。

     

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子どもたちは、この写真の正面の北上川の橋の左手、ちょっと高くなっている所へ逃げようとしていたとのこと。

そして真正面から津波に襲われたのです。

なんという無残・・・。

どんなにか怖かったでしょう、どんなにか苦しかったでしょう・・・。

さらに痛ましいのは、子どもたちが、こんなときでも列を組んで避難しようとしていたと言われていること。走っていたか、急ぎ足だったかは分かりませんが。

さらにもうひとつ、列の最後尾の先生と生徒たち数人は、津波を見て裏山に逃げ、助かることができたらしいということ。

もっともっと助かった生命があったのかも・・・と、どうしても思ってしまいます。

親御さんたちの無念さは、如何ばかりか・・・。自分が親だったら、多分、先生方を、市や行政を、責めて責めて責めぬくでしょう。

でも、きっと一生諦めきれないでしょう。

     

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これが小学校の裏の山です。正面中央に山道があります。

子どもたちが大地震直後に集まっていた校庭のすぐ裏です。小学生が登れないような急な坂道ではありませんでした。

偶然、「ここの卒業生です」という女の人(この写真の女性)にあったので聞いたところ、「この山道は裏の集落に行ける道なんです」とのことでした。

山の手前に何人かの人たちがいます。この方たちが「遺品などを捜している」人たちです。

どんな思いで、この1年を・・・、

これは自然災害による悲劇なのか、人災による悪事なのか!

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    

(この続きは、また次回に書きますので勘弁して下さい。自分が、この1年考えてきたことをまとめるつもりです。 2014年5月1日 記)

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3.11東日本大震災1周年 亘理町合同追悼式の報告②

2012年03月27日 | 東日本大震災…山形から

追悼式のなんとも言えない辛さは、多くの犠牲者を悼むさまざまな想いと、同時に、復興への現実の重さにあったのではないでしょうか。

昨年7月3日に、初めて亘理町を訪ねました(当時の状況は、7月4日付けのブログに掲載してあります)。

前回は、あぶくま川河口の亘理町荒浜地区をまわりました。津波に破壊しつくされた町の様子と、山と積まれたガレキ、その中の布団や人形に背筋が寒くなったのを覚えています。

今回も荒浜地区に足が向いていました。

ほとんど人の姿も見えず、荒涼とした光景は変わらず、復興は遅々として進んでいないように見えました。津波の危険を考えれば、今後の再建の方向がなかなか決まらないのでは…とも思いました。

しかし、後でよくよく写真を見直してみると、一概にそうも言えないのでは…と感じるものもありました。次に何枚かの写真を掲載します。

       

① 荒涼とした荒浜地区。

「鳥の海都市公園」など、海に開けたニュータウンとして開発がすすんだに違いない荒浜地区、それを思うと、この光景の荒涼さに胸が詰まります。

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② 津波に襲われた荒浜中学校

聞くところでは、この学校に逃げて助かった人もいるとか。屋上に逃げた人は助かったのかもしれません。

最近、地震によるダムの決壊が心配になり、自分の住んでいる山形県の寒河江ダムや蔵王ダムなどを調べているのですが、不思議と小・中学校が川のそばに建っています。

「ダムが決壊したらどうなるんだ!」と叫びたくなるような所に。

荒浜中学校を建てる時、津波のことをどう考えたのか、不思議です。

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③ 海沿いに残る瓦礫の山

昨年7月よりも確実に減ったとはいえ、大変な量です。

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④ 阿武隈川の河口

ここから海が襲いかかってきた?!

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⑤ 復興が始まる?

まだまだでしょうが、半年前よりもずいぶんと片づけられたように思うのは間違いでしょうか。

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⑥ 道路がだいぶ整備されていました。道路の改修は復興の第一歩では。

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⑦ 漁港にも船が・・・

陸地に船が乗り上げていた半年前と比べれば、ものすごい前進です。

あの破壊しつくされた港を、よくここまで。胸が熱くなるものがありました。

漁港の関係者や多くのみなさんの努力や思いが詰まっている港だと。

国の対応の遅れが問題だということに違いはありませんが、しかし、小さな力を合わせたこれら一つひとつの一歩が大きな一歩なのだと教えられます。

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⑧ 建っている家々にほっとしましたが、大丈夫かなあと不安にも。

もっともっと何回も何年もかよって、本当のありのままを知っていかなければと思いました。ただの通りがかりで済ましてはいけないと強く思いました。

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◇ この東日本大震災の教訓を活かすということは、自分の足元を見つめなおし、見落とされているか故意に見落としている巨大リスクと立ち向かうことではないでしょうか。多くの人たちの安心・安全のために努力するとは何かを考えていこうと思っています。

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3.11東日本大震災1周年 亘理町合同追悼式の報告①

2012年03月23日 | 東日本大震災…山形から

なんとも言えない、言い表しようのない、気持ちになりました。

軽々しく被災者の気持ちや現状を語ることはできない…と痛感した一日でもありました。

そして、何の応援もできていない自分を恥ずかしく思った一日でもありました。

被災者のみなさんに少しでも近づければと念じつつ、当日の写真を掲載しますので、何か感じましたらメールなどいただけたら嬉しいです。

    

① 会場となった亘理中学校の体育館です。

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② ストーブはありましたが、広い体育館にビニールを敷いただけですから寒いし、足元から冷えが伝わってきました。でも、誰もが一心に正面の祭壇を見つめていました。

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③ 会場には被災者、家族・縁者、他の市町村からの来賓など…1000人近い列席者が集まりました。

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④ 1年経って傷が癒されたと言えるでしょうか。とてもとても、そんな風には感じられない、かえって静かに深く重く傷ついているのではと思わされた追悼式でした。

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以上、写真中心の報告としました。

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3.11東日本大震災 1周年亘理町合同追悼式に参加しませんか

2012年03月07日 | 東日本大震災…山形から

急ですが、亘理町の追悼式に参加しませんか?

自分の体験でもそうですが、実際に触れてみるのと、テレビや新聞で見るのとでは大違いです。現場に足を運ぶ、心に触れる、それがものごとを考える際のスジだと思うのです。

ましてや、放射能などの肝心な情報を、政府もマスコミも出し渋ってる現状では!

    

被災者でもないのに参加していいのかと、頭から「参加できない」と決め込んでいましたが、ある友人から「3.11にボランティアに参加できないか?」と声がかかり、「それなら追悼式に参加するのがいいのでは…」と調べ始めたのでした。

   

震災後、個人的に訪ねたことのある亘理町にと思い、町役場などに問い合わせてみました。意外にも、「一般の方も参列できます」「献花も用意します」との優しい心遣いをいただくことができました。

   

日程は下記のとおりですが、どうですか、一緒に参加しませんか。

被災地の人たちの悲しみ、苦悩、ぶつけようのない憤り、そして優しさ・・・など、少しでも現地の人たちの心に触れることができればと思うのです。

● 日時:2012年3月11日(日曜日) 午後2時30分から(開場は午後1時30分から)

● 場所:亘理町立亘理中学校 体育館 (亘理町字沼頭1番地)

● 参列者:ご遺族・ご親族、一般の方々

? 詳しくは東海林までご連絡下さい。また、直接に亘理町のホームページで確認することもできます 

亘理町のホームページは、http://www.town.watari.miyagi.jp/

  

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