夏目漱石がまだ若かった久米正雄と芥川龍之介にあてた手紙がある。
大正5年8月21日(月)に書いたものだ。
今の若い人に参考になるかもしれない。
馬ではなく、牛のように図々しく進んでいきなさいと言ってます。
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あなたがたから端書がきたから奮發して此手紙を上げます。
僕は不相變「明暗」を午前中書いてゐます。
心持は苦痛、快樂、器械的、此三つをかねてゐます。
存外凉しいのが何より仕合せです。
夫でも毎日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三四日前から午後の日課として漢詩を作ります。
日に一つ位です。
さうして七言律です。
中々出來ません。
厭になればすぐ已めるのだからいくつ出來るか分りません。
あなた方の手紙を見たら石印云々とあつたので一つ作りたくなつてそれを七言絶句に纏めましたから夫を披露します。
久米君は丸で興味がないかも知れませんが芥川君は詩を作るといふ話だからこゝへ書きます。
尋仙未向碧山行
住在人間足道情
明暗雙雙三萬字
撫摩石印自由成
一の宮といふ所に志田といふ博士がゐます。
山を安く買つてそこに住んでゐます。
景色の好い所ですが、どうせ隱遁するならあの位ぢや不充分です。
もつと景色がよくなけりや田舎へ引込む甲斐はありません。
勉強をしますか。
何か書きますか。
君方は新時代の作家になる積でせう。
僕も其積であなた方の將來を見てゐます。
どうぞ偉くなつて下さい。
然し無暗にあせつては不可ません。
たゞ牛のやうに圖々しく進んで行くのが大事です。
文壇にもつと心持の好い愉快な空氣を輸入したいと思ひます。
それから無暗にカタカナに平伏する癖をやめさせてやりたいと思ひます。
是は兩君とも御同感だらうと思ひます。
今日からつくつく法師が鳴き出しました。
もう秋が近づいて來たのでせう。
私はこんな長い手紙をたゞ書くのです。
永い日が何時迄もつゞいて何うしても日が暮れないといふ證據に書くのです。
さういふ心持の中に入つてゐる自分を君等に紹介する爲に書くのです。
夫からさういふ心持でゐる事を自分で味つて見るために書くのです。
日は長いのです。
四方は蝉の聲で埋つてゐます。
以上
夏目金之助
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八月二十四日には、別の手紙を出している。
牛になる事はどうしても必要です。
吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。
僕のやうな老獪なものでも、只今牛と馬とつがつて孕める事ある相の子位な程度のものです。
あせつては不可せん。
頭を惡くしては不可せん。
根氣づくでお出でなさい。
世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。
うんうん死ぬ迄押すのです。
それ丈です。
决して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。
相手はいくらでも後から後からと出て來ます。
さうして吾々を惱ませます。
牛は超然として押して行くのです。
何を押すかと聞くなら申します。
人間を押すのです。
文士を押すのではありません。
夏目金之助