1000作以上あると言われる作者の代表作の一つです。
題名からしてすでにそうなのですが、「黒んぼ」「めくら」「こじき」などが、使われていますが、100年近く前の1921年(大正10年)に書かれた作品なので、割り引いて考える必要があります。
港で芸を見せて生活している10才(数え年です)くらいのよわよわしい弟と、十六、七才くらいの美しい姉が、わずかな行き違いから、一生離れ離れになる様子を、非常に叙情的に美しく描いています。
未明自身は、大人たちから搾取されているこうした子どもたちに、非常に同情的な立場で創作していますが、その表現法が象徴的で、将来への具体性を持たなかったことが、このブログの表題でもある「現代児童文学」者たちから、激しく批判されました(関連する記事を参照してください)。
こうした近代童話批判の議論は1950年代に行われ、その成果が佐藤さとる「だれも知らない小さな国」やいぬいとみこ「木かげの家の小人たち」といった長編ファンタジーに結実した1959年を現代児童文学の出発点とするのが一般的です(私自身は、それより早い1953年とする立場ですが、詳しくは関連する記事を参照してください)。
この本(講談社版少年少女世界文学全集49現代日本童話集)は1962年の発行され、未明はその前年にお亡くなりになっているのですが、当時の未明作品の日本の児童文学界におけるポジションはまだ大きかったようです。
この本に作品が二編収録されているのは、宮沢賢治、浜田廣介、坪田譲治、酒井朝彦の四名だけです。
勉強不足で酒井朝彦についてはあまり知らないのですが、ご存知のように、他の三人のうち賢治については言うまでもありませんが、他の二人も未明と並んで「三種の神器」と呼ばれていた大家です。
そして、三編収録されているのは、未明ただ一人です。
あの「子どもと文学」(関連する記事を参照してください)で、「三種の神器」よりも高く評価された千葉省三も、新美南吉も、収録されたのは一編だけなのです。
しかし、収録された作品は、より象徴性の高い作品である「赤いろうそくと人魚」や「牛女」や金の輪」などと比べると、まだ現代児童文学に近い作品なので、そのあたりにはある種の妥協があったのかもしれません。
さて、この作品は、その叙情性ばかりではなく、作品の舞台や登場人物が無国籍風であることや、表現が形容詞を多用した美しいがオリジナリティには乏しい点など、一見、児童文学創作の初心者(私自身も学生時代に同様の作品を書いたことがあります)が書いた作品のようです。
しかし、じっくり読み直してみると、その一見没個性に見える平易な文章で紡ぎあげられた作品全体の美しさや格調の高さは、やはり凡人には真似のできないものです。
それらは、他の記事にも繰り返し書いた「童話的資質」に、未明は非常に恵まれていたとしか言いようがありません。
こうした作品を、六十年近く前に小学校低学年だった私が読み取れるはずもなく、ほとんど印象に残らなかったことを告白せざるを得ません。
しかし、弁明させてもらえば、それは私だけではなかったのです。
この本には、巻末に読書指導のページがあるのですが、そこでの人気投票(小学校六年生による)でも、未明の作品はベスト10に一編も入っていません。
第一位は宮沢賢治の「注文の多い料理店」(その記事を参照してください)で、巌谷小波も新美南吉も千葉省三もベスト10に入っているのに、未明だけでなく浜田廣介も坪田譲治も一編も入っていないのが象徴的です。
やはり、未明の象徴童話は、子ども読者には難しすぎるのかもしれません。
このブログで繰り返し述べているように、現在の児童文学は大人も含めた女性向けの文学(いわゆるL文学)に変貌しているので、センスのいい女性編集者が優れた女性イラストレーターと組んでプロデュースすれば、未明童話は復権するかもしれません。
題名からしてすでにそうなのですが、「黒んぼ」「めくら」「こじき」などが、使われていますが、100年近く前の1921年(大正10年)に書かれた作品なので、割り引いて考える必要があります。
港で芸を見せて生活している10才(数え年です)くらいのよわよわしい弟と、十六、七才くらいの美しい姉が、わずかな行き違いから、一生離れ離れになる様子を、非常に叙情的に美しく描いています。
未明自身は、大人たちから搾取されているこうした子どもたちに、非常に同情的な立場で創作していますが、その表現法が象徴的で、将来への具体性を持たなかったことが、このブログの表題でもある「現代児童文学」者たちから、激しく批判されました(関連する記事を参照してください)。
こうした近代童話批判の議論は1950年代に行われ、その成果が佐藤さとる「だれも知らない小さな国」やいぬいとみこ「木かげの家の小人たち」といった長編ファンタジーに結実した1959年を現代児童文学の出発点とするのが一般的です(私自身は、それより早い1953年とする立場ですが、詳しくは関連する記事を参照してください)。
この本(講談社版少年少女世界文学全集49現代日本童話集)は1962年の発行され、未明はその前年にお亡くなりになっているのですが、当時の未明作品の日本の児童文学界におけるポジションはまだ大きかったようです。
この本に作品が二編収録されているのは、宮沢賢治、浜田廣介、坪田譲治、酒井朝彦の四名だけです。
勉強不足で酒井朝彦についてはあまり知らないのですが、ご存知のように、他の三人のうち賢治については言うまでもありませんが、他の二人も未明と並んで「三種の神器」と呼ばれていた大家です。
そして、三編収録されているのは、未明ただ一人です。
あの「子どもと文学」(関連する記事を参照してください)で、「三種の神器」よりも高く評価された千葉省三も、新美南吉も、収録されたのは一編だけなのです。
しかし、収録された作品は、より象徴性の高い作品である「赤いろうそくと人魚」や「牛女」や金の輪」などと比べると、まだ現代児童文学に近い作品なので、そのあたりにはある種の妥協があったのかもしれません。
さて、この作品は、その叙情性ばかりではなく、作品の舞台や登場人物が無国籍風であることや、表現が形容詞を多用した美しいがオリジナリティには乏しい点など、一見、児童文学創作の初心者(私自身も学生時代に同様の作品を書いたことがあります)が書いた作品のようです。
しかし、じっくり読み直してみると、その一見没個性に見える平易な文章で紡ぎあげられた作品全体の美しさや格調の高さは、やはり凡人には真似のできないものです。
それらは、他の記事にも繰り返し書いた「童話的資質」に、未明は非常に恵まれていたとしか言いようがありません。
こうした作品を、六十年近く前に小学校低学年だった私が読み取れるはずもなく、ほとんど印象に残らなかったことを告白せざるを得ません。
しかし、弁明させてもらえば、それは私だけではなかったのです。
この本には、巻末に読書指導のページがあるのですが、そこでの人気投票(小学校六年生による)でも、未明の作品はベスト10に一編も入っていません。
第一位は宮沢賢治の「注文の多い料理店」(その記事を参照してください)で、巌谷小波も新美南吉も千葉省三もベスト10に入っているのに、未明だけでなく浜田廣介も坪田譲治も一編も入っていないのが象徴的です。
やはり、未明の象徴童話は、子ども読者には難しすぎるのかもしれません。
このブログで繰り返し述べているように、現在の児童文学は大人も含めた女性向けの文学(いわゆるL文学)に変貌しているので、センスのいい女性編集者が優れた女性イラストレーターと組んでプロデュースすれば、未明童話は復権するかもしれません。