1891年(明治24年)に書かれた、日本の近代童話の嚆矢と言われている作品です。
作者は、童話(そのころはお伽噺と呼ばれていました)の創作や全国を回っての口演(読み聞かせの大掛かりなもの)で日本中の子どもたちに慕われ、日本おとぎばなしの父と呼ばれています。
解説の鳥越信によると、この作品はゲーテの「きつねの裁判」と滝沢馬琴の「里見八犬伝」をヒントにして書いた言われているそうですが、今回読み直してみると、もっと広範な昔話、御伽草子、講談などを巧みに取り入れて書いた作品のように思えます。
ざっと見ただけで、桃太郎、カチカチ山、講談の仇討ち物、フランス寓話の狐物語(その記事を参照してください。ゲーテの作品はこれの流れをくむものです)、水滸伝(その記事を参照してください。「南総里見八犬伝」はこの影響を受けています)などの要素が見受けられます。
現在の観点で言えば、封建的だったり、帝国主義的だったり、男尊女卑だったり、残酷すぎたり、差別的だったり、子どもに適さない表現だったりする点が多く見られますが、面白いストーリー(現在ならばエンターテインメント作品)の中に、教育的な要素(ここでは、明治時代らしく教育勅語の影響が見られ、孝(ここでは親の敵をうつ)や忠(国や支配者(ここでは庄屋)に従う)や礼(目上の者に礼儀を尽くす))を加味する、日本的な児童文学の形を作り出したと言えるでしょう。
作者がこの作品を書いたのは弱冠21歳の時ですから、その知識と才能には素晴らしいものがあります。
なお、この作品は発表当時文語体で書かれていたのですが、「三十年目書き直しこがね丸」(その記事を参照してください)として自ら口語体に書き直して、1921年(大正10年)に出版されました。
私が読んだこの本は、もちろんこの口語体の方です。
私が初めてこの作品を読んだのは、小学校ニ年の1962年(昭和37年)でした(他の記事にも書きましたが、特殊な幼少時代を過ごしたので読書に関しては異様に早熟でした)が、ここに書かれている内容にはさほど違和感は感じませんでした。
そのころは、少年サンデーなどの漫画週刊誌にも、時代物(「伊賀の影丸」、「カムイ伝](その記事を参照してください。実際に私が読んだのは「カムイ外伝」の方です)、「弓道士魂」(この影響を受けて、高校の時に弓道部に入りました))や戦記物(「紫電改の鷹」や[ゼロ戦ハヤト]など)が連載されていましたし、テレビでも時代劇(大河ドラマの「赤穂浪士]は、小学校でも大人気でした)はたくさん放送されていました。
また、この作品は、1963年に公開された東映動画のアニメーション映画「わんわん忠臣蔵」に、大きな影響を与えています。
東映動画ではオリジナルと称していますが、手塚治虫による原案の「森の忠臣蔵」とは大きく変わっていて、誰が見ても(私は、すでに「こがね丸]を読んでいましたので、すぐに分かりました)「こがね丸」の翻案(忠臣蔵の要素を入れて、時代を現代にしています)だということは分かります。
誤解をまねかないように書き添えれば、子どもの時(実は今でもそうなのですが)は、「こがね丸」より「わんわん忠臣蔵」の方が好きでした。
特に、ラストで主人公のロック(大石内蔵助の石のストーンではかっこ悪いので岩にしたのでしょう)が敵役の虎のキラー(吉良上野介と殺し屋をかけたのでしょう)が、ローラーコースターで対決するシーンはハラハラしたことを覚えていますし、恥ずかしながら「すすーめ、すすーめや、しっぽを上げて]で始まるテーマ曲の「わんわんマーチ」は今でも歌うことができます。
ここで言いたいのは、当時の日本の大人たち(特に男性)の心の中に、いかに「こがね丸」が深く根ざしていたかということと、それだからこそオリジナルに敬意を払って欲しかったということです。
作者は、童話(そのころはお伽噺と呼ばれていました)の創作や全国を回っての口演(読み聞かせの大掛かりなもの)で日本中の子どもたちに慕われ、日本おとぎばなしの父と呼ばれています。
解説の鳥越信によると、この作品はゲーテの「きつねの裁判」と滝沢馬琴の「里見八犬伝」をヒントにして書いた言われているそうですが、今回読み直してみると、もっと広範な昔話、御伽草子、講談などを巧みに取り入れて書いた作品のように思えます。
ざっと見ただけで、桃太郎、カチカチ山、講談の仇討ち物、フランス寓話の狐物語(その記事を参照してください。ゲーテの作品はこれの流れをくむものです)、水滸伝(その記事を参照してください。「南総里見八犬伝」はこの影響を受けています)などの要素が見受けられます。
現在の観点で言えば、封建的だったり、帝国主義的だったり、男尊女卑だったり、残酷すぎたり、差別的だったり、子どもに適さない表現だったりする点が多く見られますが、面白いストーリー(現在ならばエンターテインメント作品)の中に、教育的な要素(ここでは、明治時代らしく教育勅語の影響が見られ、孝(ここでは親の敵をうつ)や忠(国や支配者(ここでは庄屋)に従う)や礼(目上の者に礼儀を尽くす))を加味する、日本的な児童文学の形を作り出したと言えるでしょう。
作者がこの作品を書いたのは弱冠21歳の時ですから、その知識と才能には素晴らしいものがあります。
なお、この作品は発表当時文語体で書かれていたのですが、「三十年目書き直しこがね丸」(その記事を参照してください)として自ら口語体に書き直して、1921年(大正10年)に出版されました。
私が読んだこの本は、もちろんこの口語体の方です。
私が初めてこの作品を読んだのは、小学校ニ年の1962年(昭和37年)でした(他の記事にも書きましたが、特殊な幼少時代を過ごしたので読書に関しては異様に早熟でした)が、ここに書かれている内容にはさほど違和感は感じませんでした。
そのころは、少年サンデーなどの漫画週刊誌にも、時代物(「伊賀の影丸」、「カムイ伝](その記事を参照してください。実際に私が読んだのは「カムイ外伝」の方です)、「弓道士魂」(この影響を受けて、高校の時に弓道部に入りました))や戦記物(「紫電改の鷹」や[ゼロ戦ハヤト]など)が連載されていましたし、テレビでも時代劇(大河ドラマの「赤穂浪士]は、小学校でも大人気でした)はたくさん放送されていました。
また、この作品は、1963年に公開された東映動画のアニメーション映画「わんわん忠臣蔵」に、大きな影響を与えています。
東映動画ではオリジナルと称していますが、手塚治虫による原案の「森の忠臣蔵」とは大きく変わっていて、誰が見ても(私は、すでに「こがね丸]を読んでいましたので、すぐに分かりました)「こがね丸」の翻案(忠臣蔵の要素を入れて、時代を現代にしています)だということは分かります。
誤解をまねかないように書き添えれば、子どもの時(実は今でもそうなのですが)は、「こがね丸」より「わんわん忠臣蔵」の方が好きでした。
特に、ラストで主人公のロック(大石内蔵助の石のストーンではかっこ悪いので岩にしたのでしょう)が敵役の虎のキラー(吉良上野介と殺し屋をかけたのでしょう)が、ローラーコースターで対決するシーンはハラハラしたことを覚えていますし、恥ずかしながら「すすーめ、すすーめや、しっぽを上げて]で始まるテーマ曲の「わんわんマーチ」は今でも歌うことができます。
ここで言いたいのは、当時の日本の大人たち(特に男性)の心の中に、いかに「こがね丸」が深く根ざしていたかということと、それだからこそオリジナルに敬意を払って欲しかったということです。