現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

桐野夏生「天使に見捨てられた夜」

2020-05-17 09:25:33 | ツイッター
 1994年に刊行された、女性探偵村野ミロが活躍するハードボイルド小説の第二弾です。
 前作の江戸川乱歩賞を受賞した「顔に降りかかる雨」(その記事を参照してください)の続編ですが、残念ながら前作を上回る出来ではないです。
 理由は、出版を急がされたために、取材や執筆にかける時間が不足したからではないでしょうか。
 今作でも、同性愛、アダルト・ビデオ、裏ビデオ、それに対抗するフェミニズム系運動家、チーマー、セレブ系カリスマ主婦、かつての人気歌手など、読者の興味を引く多くの素材をふんだんに持ち込んでいますが、それらへのツッコミが浅く、これらの分野に門外漢の私でも知っているあるいは容易に想像がつく内容ばかりで驚かされません。
 また、今作では、精神的には主人公を満足させる同性愛者のバー経営者と、肉体的には満足させるアダルト・ビデオ制作会社の社長という二人の男性が登場しますが、どちらも作者が思っているほどは魅力的でも個性的でもなく、なぜ主人公がここまで惹かれるのか、説得力を持ちません。
 解説の松浦理英子が指摘しているように、主人公は性愛的な失敗を前作に続いて今作でも犯すのですが、前述したように性愛の対象者が前作に比べて魅力がないので、ストーリーと有機的に結びついていません。
 また、今作に登場する女性たち(養護施設で育った自己破壊的性向(自殺未遂事件を犯したり、自傷したり、レイプまがいのAVに出演したりしています)のある若い女性、官僚の娘でセレブ婚をした若い女性たちの憧れの対象、フェミニズム系の運動家だが実際は自分の運動の存続に躍起になっている独身女性など)も、前作の登場人物にに比べて人物造形がパターン化しています。
 さらに、前作から引き続いて登場している人物たち(主人公、元探偵の父親、父親の友人の弁護士など)も、前作からの人物像の深化はされておらず、読んでいて物足りません。
 それにしても、前作に引き続いて、今作の題名もすごくかっこいいですね(商業的には非常に大大事です)。



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シンドラーのリスト

2020-05-16 10:32:11 | 映画
 1993年に公開されたアメリカ映画です。
 監督のスティーブン・スピルバーグが、念願のアカデミー作品賞と監督賞を受賞しました(他に五部門でも受賞)。
 第二次世界大戦において、アウシュビッツで虐殺される運命だった1100人ものユダヤ人の命を救った、オスカー・シンドラーの実話に基づいています。
 この映画の特に優れている点は、主人公のシンドラーを初めから聖人君子として描かずに、派手好きで好色な俗物が金儲けのためにユダヤ人を自分の工場の労働力(ユダヤ人だと安く使えるため)として利用したとして描いていることでしょう。
 それが、過酷なユダヤ人弾圧(かなり残酷なシーンが頻出します)を目撃して、その過程で彼がユダヤ人に同情するようになる過程を丁寧に描いて、ホロコーストの恐ろしさを糾弾するとともに最後の救出シーンを感動的に演出することに成功しています。
 ただ、終戦後のシンドラーは、あまりにユダヤ人目線で神格化されすぎていて、こうした問題を客観的にしか見られない日本人からすると、ややできすぎなような気もします。
 もっとも、スピルバーグはユダヤ系アメリカ人なので、ラストの描き方(シンドラーに救われたユダヤ人の生存者たちが子どもや孫たちと伴にシンドラーの墓を詣でて、彼らが現在は6000人以上になっていることを告げる)は譲れなかったのかも知れません。
 難役のシンドラーを演じたリーアム・ニーソンと、実質的に工場を差配してシンドラーのユダヤ人観を変えるきっかけを作った役のベン・キングズレー(「ガンジー」(その記事を参照してください)でアカデミー主演男優賞を受賞)の演技も見事でした。






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桐野夏生「顔に降りかかる雨」

2020-05-16 09:40:18 | 参考文献
 1993年に出版された、女流ミステリー作家の第一人者である作者のデビュー作(それ以前に他の名義で多数の著作があるようですが)で、第39回江戸川乱歩賞の受賞作です。 
 思いがけない事から、親友の女性による一億円持ち逃げ事件(しかもヤクザの金)に巻き込まれた女性主人公が、不本意ながら父親の昔の仕事である調査探偵をやる羽目になります。
 殺人、セックス、性倒錯、フェティシズム、死体愛好、バブル崩壊後の新宿、壁崩壊後のベルリン、ネオナチ、ヤクザ、企業舎弟など、スキャンダラスな題材を散りばめて、読者を飽きさせません。
 解説の香山二三郎によると、そのころミステリー界でもL文学化(女性作家による女性を主人公にした女性読者のための文学、詳しくは関連する記事を参照してください)が進んでいたようなので、特にマニッシュな装いと行動をする主人公と、その裏返しのような女性性を武器にしてのし上がった親友の造形は、女性読者には魅力だったことでしょう。
 また、親友の愛人で、主人公とも性的関係を持つ、東大全共闘出身の渋いイケメンも、主人公の相手役として用意されています。
 ただ、ジェットコースターのような二転三転するストーリー展開は、女性読者だけでなく男性読者も十分に楽しませてくれます。
 しかし、最後の事件の種明かしと、それにさらに重ねたどんでん返しは、ほとんどが主人公の長ゼリフによる説明によるもので、かなり強引で性急な感じがしました。
 もしかすると、江戸川乱歩賞の応募規定の枚数に合わせるために端折ったのかも知れませんが、加筆訂正して単行本するときには、もう少し丁寧に手を入れてもらいたかったと思いました。


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桐野夏生「グロテスク 」

2020-05-16 08:59:17 | 参考文献
 2001年から2002年にかけて週刊文春に連載され、2003年に出版された桐野夏生の代表作のひとつです。
 超一流私立大学Qの附属女子高校に入学した四人の少女に待ち受けていた、過酷なまでの階級社会と、そこで生き残るために行った四人それぞれの生き方と、その結果として社会に出てからのより過酷な階層社会で彼女たちが直面したグロテスクな事件を描いています。
 他の三人よりも1歳年少な、ハーフの超絶な美少女のユリコは、成績が達しないのに桁外れの美貌を評価されて帰国子女枠で中等部の三年に編入して、同級の男子生徒を女衒として使って、その美しさを武器に学園内の男たち(大学生や教員も含めて)を虜にして、夜の商売をすることによってサバイブします。
 彼女と対象的に地味な姉は、猛勉強して高等部から入学しますが、驚くほど露骨な階級社会(本当のエリートは小学校から入学した生え抜きの裕福な家庭の子どもたちで、中等部から入った子たちが一番優秀(もちろん彼女たちもそれなりに裕福な家庭の子です)で、高等部から入った子たちはどちらにもあてはまらなくて最下層に位置しています)に絶望し、妹とは逆に目立たないことでサバイブしようとします。
 姉と同様に高等部に入った和恵は、それでも懸命に努力して頑張りますが、みんなの軽蔑といじめの対象になり、一時期拒食症になってしまします。
 中等部から入学したミツルは、圧倒的に優秀で、一見楽々と学年でトップの成績を取り(その裏で壮烈な努力をしています)、東大医学部に合格して、この階級社会をドロップアウトします。
 社会に出てからの四人を待ち受けていたより過酷な社会を、作者は、当時のセンセーショナルな事件である東電OL殺人事件(東京電力に努めていた慶應義塾大学出身のエリート女子社員が、渋谷で夜の女をしていて殺されてしまった事件です)をベースに、オウム真理教の事件も加味して、自在にグロテスク(醜くもあり、美しくもあるとしています)に描き出しています。
 ユリコは歳とともに醜く太ってしまい、モデル、高級クラブのホステス、普通のホステス、熟女専門店のホステス、夜の女と変遷を重ねたあげくに、客の中国人に殺されてします。
 和恵は、一流建設会社に入社しますが、総合職(そのころにはそういう言葉はありませんでしたが)の女性社員としての差別や偏見のために、しだいに精神を病み、再び拒食症になってガリガリに痩せるとともに夜の女になって、ユリコと同様に殺されます(同じ犯人が疑われますが、断定はしていません。そのあたりは、現実の東電OL殺人事件の判決が二転三転していたことが影響していると思われます)。
 ミツルは、東大の医学部で自分の限界を知って自分より優秀な男性と結婚しますが、その後母親の影響で夫ともにカルト教団に入信し、大量殺人事件に加担してしまいます(作者がこの事件にはあまり興味がなかったのか、彼女の書き方が一番いい加減です)。
 ユリコの姉はその後も地味に暮らしていましたが、ひょんなことから、ユリコたちと同じ夜の女になります。
 センセーショナルな事件やグロテスクな場面が頻出していますが、作品の根底には、美しさ、学校の成績、家柄、男性への忠実度などの、様々な評価基準で競争させられている現代の若い女性たちの姿をデフォルメしながら描き出し、そのような社会を構築している男性たちを、作者は鋭く糾弾しています。
 なお、舞台になっているQ女子高校は、小学校と中等部と大学が共学で高等部だけが別学であること、父兄が非常に裕福であること、東電OL殺人事件の被害者の出身校などから、どうしても慶應義塾女子高等学校を連想させてしまうのですが、文庫版の解説を書いた文芸評論家の斎藤美奈子のその学校出身の知人によると、書かれているとおりの世界だったそうです。


グロテスク
桐野 夏生
文藝春秋
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桐野夏生「ハピネス」

2020-05-16 08:54:54 | 参考文献
 銀座に近い湾岸部にあるタワーマンション(高層階の分譲の部屋は億ションでしょう)を舞台にした、五人のママ友の話です。
 「VERY」という三十代後半から四十ぐらいまでの専業主婦を対象にした女性誌に連載されたので、読者対象を絞り込んだつくりになっています。
 舞台のタワーマンションや登場人物のファッションやグッズ類の説明は、具体的なブランド名も含めて異様に詳しく書かれています。
 そういった情報は、おそらく雑誌の編集側から提供されているのでしょうが、それらの物などの細かい差異で五人の登場人物を階層化しています。
 作品の題材も、雑誌の読者が関心のある、ママ友の軋轢、他の配偶者との不倫、主人公の秘密の過去、離婚の危機、嫁姑問題、有名私立幼稚園への「お受験」、車、ファッション、アクセサリー、ネイル、エステ、ホームパーティなどが、ふんだんに盛り込まれています。
 しかし、そのどれもが中途半端でご都合主義に書かれています。
 例えば、五人のうち三人は分譲マンション棟住まいなのに、主人公は賃貸棟(と言っても家賃は月23万円ですが)ですし、もう一人などは全く別のマンションです。
 そんな五人がママ友になるのは現実には不自然なのですが、ママ友になったいきさつは全く書かれていません。
 三人対二人の対立的構図を描くために恣意的に設定したのでしょうが、あまりのご都合主義に苦笑せずにはいられません。
 読者対象が絞られている雑誌の連載としてはそれでもかまわないでしょうが(どうせ肩の凝らない読物が期待されているでしょうから)、不特定の読者を対象とする単行本としてはどうかなと思います。
 巻末には、「単行本化にあたり、大幅に加筆修正しました」と書かれていますが、本当かな?と首をかしげてしまいます。
 かつて「OUT」などの優れたエンターテインメントを書いていた作者にしては、ずいぶんお手軽な作品を書いたもんだと慨嘆しました。
 児童文学の世界でも、雑誌に連載されたり、編集者に読者対象を絞り込まれたり(例えば小学校低学年向きなど)、枚数を指定されたりすることもあります。
 そういった出版社の注文に対して巧みに書き分けるのがプロの作家なのでしょうし、彼らにも生活があるのでそういった仕事を完全には否定しません。
 しかし、そういった作品の大半は、たんなる消費財として、すぐに忘れ去られてしまうことが多いようです。

ハピネス
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光文社
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桐野夏生「だから荒野」

2020-05-16 08:52:32 | 参考文献
 どこにでもいるような、サラリーマンと、専業主婦と、大学生と高校生の息子の、四人家族の崩壊と再生(のきざし)を描いた作品です。
 手あかのついたようなテーマですが、一流のエンターテイメント作家の腕前がいかんなく発揮されています。
 デフォルメされた登場人物、荒唐無稽な設定、ご都合主義のストーリー展開など、典型的なエンターテインメント作品の書き方なのですが、それぞれ一ひねりしてあって読ませます。
 登場人物は、主人公を家事もパートも容姿も中途半端なダメ主婦に設定して、一方的ないい役にせずに敵役の夫や息子たちと、うまくバランスを取っています。
 設定としては、東京から長崎への主人公の移動は自動車を使っているのでロードムービーを見るような趣がありますし、面倒くさい地域コミュニティの問題、核兵器や原子力発電所の問題、老人問題などが、うまくちりばめてあります。
 ストーリー展開としては、主人公のダメ専業主婦と俗物的なサラリーマンの夫の視点を、章ごとに使い分けているので、複層的になっていて読者を飽きさせません。
 惜しむらくはラストが駆け足になっていて、結末がすとんと落ちてこない点が難かもしれません。
 児童文学の世界でも、このような身近な世界を使って読み応えのあるエンターテイメント作品を書く余地はまだ十分にあると思われます。

だから荒野
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毎日新聞社
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桐野夏生「OUT」

2020-05-16 08:50:57 | 参考文献
 日本推理作家協会賞を受賞した作者の代表作の一つです。
 殺人、死体解体、死体遺棄といったショッキングな事件が次々と起こり、それに巻き込まれた女たちと男たちのキャラクターもデフォルメされて鮮やかに描かれている一級のホラーミステリーです。
 最後の主役の男女の対決はやや作りすぎのきらいはありますが、おおむね楽しめます。
 事件や人物だけでなく、背景になる深夜の食品工場、歌舞伎町のクラブ、バカラ賭博、街金などがしっかりとした取材でリアリティをもって描かれていることも、作品の厚みを出しています。
 児童文学の世界では、怪談や妖怪などを題材とした怖い本は腐るほどあるのですが、この作品のような本格的なホラーミステリーは開拓の余地があると思います。

OUT 上 (講談社文庫 き 32-3)
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講談社
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明日に向かって撃て!

2020-05-15 11:06:50 | 映画
 1969年に公開されたアメリカン・ニュー・シネマを代表するポップな西部劇です。
 アカデミー作曲賞を受賞したバート・バカラックの音楽との融合が素晴らしく、アカデミー主題歌賞を受賞した「雨にぬれても」は大ヒットしました。
 ボリビア軍の大軍が待ち受けているとも知らずに、主人公の二人組が次に銀行強盗をやる場所は英語の通じるオーストラリアにしようと楽天的に相談しながら隠れていた建物を飛び出したラストシーンは、あまりにも有名です。
 銀行や鉄道を襲う強盗団を描きながら、どこかユーモラスなタッチがこの作品の魅力でしょう。
 特に、主役のポール・ニューマンとロバート・レッドフォードと、相手役のキャサリン・ロスが演じた男性二人と女性一人のおしゃれな関係は、初めて見た高校生の時にはすごくカッコ良く見えました。
 ポール・ニューマンは、「ハスラー」などですでに大スターでしたが、この映画は彼の持ち込み企画です。
 キャサリン・ロスは、「卒業」にも主演していましたので、短い期間でしたが、日本でも大人気でした。
 当時無名だったロバート・レッドフォードは、一躍ハリウッドを代表する大スターになり、「スティング」では、ポール・ニューマンと再びタッグを組みます。

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浜田廣介「五ひきのやもり」講談社版少年少女世界文学全集49現代日本童話集所収

2020-05-15 09:49:16 | 作品論
 1928年(昭和3年)に発表された短編です。
 家の壁と外板の間に暮らすやもりの一家の家族愛を描いています。
 動物ファンタジーの一種ですが、肉体は完全にやもり、精神は人間そのものといったタイプで、作者の他の作品と共通しています。
 夫婦で暮らしていたおすのやもりが、ある日人間が板に打ち付けた釘によって腰のあたりを貫通されて、壁と板の間に文字通り釘付けになってしまします。
 しかし、おすのやもりは出血したものの死にませんでした。
 めすのやもりは、逃げずにおすのやもりに餌を運び続けます。
 その後、二匹には、おすの子どもが二匹とめすの子どもが一匹生まれます。
 兄弟やもりは、父親を救うための方法を探しに旅に出ます。
 妹やもりは家を守ります(両親は婿をとらせるつもりです)。
 そして、兄弟たちが苦労したにもかかわらずに、父親を救い出す方法を発見できずに戻ります。
 最後に、人間が板を剥がしてやもりたちは発見されてしまいますが、父親だけでなく他の四匹のやもりも逃げずにそこにとどまります。
 今、読み直してみると、かなりシュールな内容ですが、ユーモアを狙っったとかそういうのではなく、作者は大真面目に書いているようです。
 作者が家族愛を書きたかったのであろうことは容易に読み取れ、ここでも人間に発見されてからやもりの家族がどうなったかは描かれずに、結末は読者に委ねられています。
 しかし、ここに描かれた家族観やジェンダー観は古いだけでなく個性的でもないので、この作品は他の作者の代表作とは違って賞味期限が来ているのかも知れません。


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浜田広介「花びらのたび」浜田広介童話集所収

2020-05-15 09:17:33 | 作品論
 浜田広介は、小川未明、坪田譲治と並んで、近代童話において「三種の神器」とまで言われて、高い評価を受けていました。
 しかし、狭義の現代児童文学(定義は他の記事を参照してください)がスタートした1950年代に激しく批判されて、児童文学の表舞台からは姿を消しました。
 現代児童文学が終焉した(一般には2010年と言われていますが、私は1990年代だと思っています)現在では、近代童話は復権していますし、多くの現代児童文学作品が歴史に淘汰された中で、広介の「むく鳥のゆめ」や「泣いた赤おに」などは、今でも広く読まれています。
 この「花びらのたび」という掌編は、次々に起こる出来事に素直に従う花びらの姿に、運命に流される人生を象徴させた作品ですが、現代児童文学出発時に重要な役割りをはたした「子どもと文学」(その記事を参照してください)の中で松井直(後の福音館書店の会長)に、「描写をもちこむことで物語の流れや組み立てを混乱させ、象徴的な気分や人生観をだそうとして、子どもばなれした作品にしてしまいました。」と、こっぴどく批判されています。
 松井の主張は、児童文学に「おもしろく、はっきりわかりやすく」といった外国(主に英米)児童文学の規準を持ち込んだ「子どもと文学」グループとしては、しごく当然のことだったのでしょうが、一方でこの作品の持つ優れた抒情性や東洋的な人生観までも切り捨ててしまっています。
 叙事的な文学に傾斜しすぎた現在の児童文学は、こうした抒情性あるいは文学性(詩性と言ってもいいかもしれません)を大きく失うことになりました。

心に残るロングセラー名作10話 浜田広介童話集
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世界文化社
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浜田広介「むく鳥の夢」浜田広介童話集所収

2020-05-15 09:15:55 | 作品論
 広介の代表的な作品の一つです。
 文庫本でわずか6ページの短編ですが、亡くなった母親(実は本人は知らない)への思慕、父親の子どもへの愛情が凝縮されていて、日本的な情感にあふれた作品です。
 特に、冒頭で母親がすでに亡くなったことを読者にだけ示すことによって、幼い読者でさえ重要な秘密を知ったことにより、主人公のむく鳥に庇護者としての気持ちを持たせたことが作品を成功させています。
 「子どもと文学」の中では、松井直に、「冒頭でつまづく」、「結びが弱い」、「なぜ「死」というような、幼い心に不向きなテーマを、ことさらとりあげねばならなかったのかを問いたい」と、酷評されています(その記事を参照してください)。
 こういった指摘は、英米児童文学も規準にして、「おもしろく、はっきりわかりやすく」といった主張を掲げる松井たちにとっては当然のことかもしれませんが、動物を擬人化したメルヘンに対して、「枯葉を散り落とさない工夫は、人間ならぬむく鳥が、「馬の尾の毛」でつなぎとめるという、不自然でおかしなおこないになっています。」と批判するに至っては、自分たちの主張を正当化するために批判しているようにさえ思えます。
 こうした行き過ぎた批判のために、現代児童文学(定義は他の記事を参照してください)は、近代童話が持っていた優れた象徴性や日本的情緒を必要以上に取りこぼすことになったのではないでしょうか。

心に残るロングセラー名作10話 浜田広介童話集
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世界文化社
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浜田広介「ますとおじいさん」浜田広介童話集所収

2020-05-15 09:14:08 | 作品論
 一人暮らしのおじいさんが、地元の沼にますの子を放す話です。
 おじいさんは、地元のためにますが育つことを願っているのですが、ますの養殖といった具体的な話ではなく、旅人(その人からますの話を聞きました)からもらったますの子どもをしばらく手元で育ててから沼に放しただけです。
 おじいさんが生きている間は成果はなかったのですが、亡くなってから大きくなったますが大群になって戻ってきたことを暗示して話は終わります。
 この作品も非常に象徴的な話で、特に取り柄はなくても正しく生きればその願いはかなう(ただし死んだあとで)ことを示しているのでしょう。
 この作品において特徴的なのは、広介が、このおじいさんのことを、なんと五回も繰り返して、「よいおじいさん」と書いていることです。
 通常では、このように具体的におじいさんのよい点を書かずに言葉だけで書くのは、下手な作品の書き方の見本のようなものです。
 しかし、この作品の場合、おじいさんがいい人間であることを、作者が読者の子どもたちに繰り返し言葉で保証することによって、作者の言いたいこと(いい人間は生前は報われないが、死後にその成果が得られる。そして、その成果がその人間のおかげだと知られなくてもよい)を、このごく短い話の中で読者に間違いなく伝える不思議な効果があるようです。
 こうした象徴性は、「現代児童文学」(定義は他の記事を参照してください)では失われていたものの一つです。

心に残るロングセラー名作10話 浜田広介童話集
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世界文化社
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浜田広介「泣いた赤おに」浜田広介童話集所収

2020-05-15 09:11:56 | 作品論
 私自身も幼いころに絵本で読んだことのある、1933年に書かれた作者の代表作の一つです。
 主人公の赤おには、本当は心優しく親切なのに、鬼であるばかりに村人たちに恐れられて、村はずれで一人さびしく暮らしています。
 どうにかして村人たちと友だちになりたい赤おにのために、遠くで暮らす友だちの青おにが一芝居うちます。
 村の中でわざとあばれて、それを赤おにに懲らしめさせようというのです(このパターンは、いろいろと変形されて物語やドラマなどで多用されていますね)。
 芝居はうまくいって、村人たちは赤おにの家へ遊びに行くようになります。
 その一方で、青おにはすっかり姿を見せなくなります。
 赤おにが訪ねていくと、青おには手紙を残して長い旅に出ていました。
 今まで通りに赤おにと仲良くしていては、それが村人たちの耳に入って、せっかく友だちになったのにまた赤おにを恐れるようになることを心配して姿を消したのです。
 その手紙を読んで、赤おには涙を流すのでした。
 現代児童文学の基準からすると、お話の進め方も恣意的ですし、ラストの赤おにの涙の意味もいろいろと解釈できるように思えます。
 でも、簡潔な文章と単純なストーリーで、読者がその成長に合わせていろいろな事を考えることができるこの作品には、作者の優れた童話的資質と呼ばれるものがはっきりと表れていると思います。
 私自身は、子どものころは、赤おにの気持ちを忖度(役人たちが権力者にこびへつらう意味で多用されてしまっていますが、本来は他人の気持ちを推し量って配慮することは非常に大事なことで、役人たちが権力者ではなく庶民の気持ちを忖度して仕事をしてくれれば、どんなにか住みよい世の中になることでしょう)して、青おにが姿を消したことに感動していました。
 そのころは、赤おには、きっといつかは青おにと再会でき、村人たちだけではなく青おにとも仲良く暮らせると楽観していたのです。
 ですから、赤おにの涙は、こうした思いやりができる青おにに感激して泣いていると思っていたようです。
 でも、それから60年近くがたち、いろいろなつらい経験もした今では、このような楽観的な気持ちにはなれません。
 赤おにが用意したおいしいお菓子やお茶につられてやってくるようになるような浅薄な村人たちの歓心をかうために、赤おにのことを本当に思ってくれる青おにという真の友達を失ってしまったとしか読めないのです。
 そして、ラストの赤おにの涙を、そのことを後悔した(もう取り返しはつかないのですが)苦い涙だと思えるのです。
 このように、エンディングで、物語の結末をゆだねるやり方は、廣介童話の大きな特長ですが、結論をはっきり決めたがる現代児童文学論者からは、中途半端な終わり方だと激しく攻撃されました(関連する記事を参照してください)。
 しかし、書き手として考えると、このような余韻のあるエンディングは、かえって読者の心に残る場合が多く、ある意味文学的だとさえ思えます。

泣いた赤おに (日本の童話名作選)
クリエーター情報なし
偕成社

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今江祥智「もうひとつの青春」子どもが生きる所収

2020-05-14 09:13:20 | 参考文献
 1979年に書かれたエッセイで、児童文学の一般文学への「越境」や、児童文学における子どもと大人の共棲についての、当時の著者の考えを述べています。
 児童文学研究者の石井直人は、「現代児童文学の条件」(その記事を参照してください)の中で、このエッセイをかなり長く引用して、「彼は、このエッセイで、現代児童文学の動向を「越境」と呼んだ。これは、1990年代後半の今日、おそろしく予言的だったように聞こえる。たしかに、およそ二十年間で、児童文学と文学の境界線は、ほとんどなくなってしまったように見えるからだ。」と、高く評価しています。
 この石井の評価は、1950年代に始まって1990年代に終焉したと思われる狭義の「現代児童文学」にはあてはまりますし、現在においてもL文学(女性の作者が女性を主人公にして女性読者のために書いた文学)としては成立しています。
 しかし、もともと児童文学は、ケストナーや宮沢賢治が書いていた1930年代でも、子どもと大人の読者に対して境界は設けていませんでしたし、作品の中で子どもと大人は見事に共棲していました。
 そういった意味では、「現代児童文学」の前半(1950年代から1970年代まで)の方が、子ども読者に偏重していた特殊な時代だったのでしょう。
 ところで、このエッセイでは、作者の他のエッセイと同様に、優れた児童文学作品が、一般文学として取り扱われている作品も含めてたくさん紹介されていて、一種のブックガイドの働きもしています。
 その中から、私自身もお勧めしたい作品をあげてみると、庄野潤三「プールサイド小景」(その記事を参照してください)、小島信夫「アメリカン・スクール」、アラン・シリトー「長距離ランナーの孤独」(その記事を参照してください)、サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」(その記事を参照してください)、ダニエル・キース「アルジャーノンに花束を」、山中恒「ぼくがぼくであること」、フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」、舟崎克彦・舟崎靖子「トンカチと花将軍」、岩本敏男「赤い風船」(その記事を参照してください)、カニグズバーグ「クローディアの秘密」、斉藤隆介「ベロ出しチョンマ」などになります。

子どもが生きる (叢書児童文学)
クリエーター情報なし
世界思想社
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山下明生「海のコウモリ」

2020-05-13 11:45:36 | 作品論
 朝鮮戦争が始まった1950年の瀬戸内海の島(作者が少年時代を過ごした能美島と思われます)を舞台に、9歳の少年のひと夏の経験を抒情性豊かな文体で描写した作品です。
 本のカバーに書かれていた出版当時の書評の抜粋を紹介すると、「美しい詩的な文体の感動的な作品」「傷つきやすい少年の日の思い出を詩的に描いた海のメルヘン」「多感で傷つきやすい少年の成長期を描く。誠実とは何かを読み取りたい」「日本的な情感にあふれ、子どもの心にもしみこむだろう」「悲しくも美しい鎮魂歌であり同時に母を恋うる愛の物語にもなっている」「感受性豊かな主人公の心の成長を軸に活写する」「漁村の人間関係の中での少年の罪と悔いと成長の物語」と、あります。
 もちろん宣伝用の抜粋なのでほめている部分だけですが、おおむね納得できます。
 80年代にたくさん書かれた、作者たちの少年時代を舞台に、ストーリー展開よりも描写を重視した小説的な作品の代表作のひとつと言えるでしょう。
 現代児童文学の構成要素としても、詩的だけども緻密な構成を備えた文章で「散文性」を獲得し、子ども世界を綿密に描くことにより「子どもへの関心」をカバーし、主人公の心の成長を描いて「変革の意志」を示しています。
 つまり、現代児童文学の小説化の見本のような作品ともいえます。
 瀬戸内海の豊かな自然、子ども世界の楽しさと残酷さ、母への愛、差別への異議申し立て、誠実に生きることの意味など、さまざまな要素が作品世界に持ち込まれていますが、図式的で性急な解決は求めず、あくまで少年の周囲の世界を描写することによって、静かに表現しています。
 この作品世界が、どこまでが作者の実体験に基づくものかわ分かりませんが、ある程度の創作上の工夫が見られます。
 主人公は9歳ですが、山下自身は1950年には13歳になっていたので、このような事件をもう少し成長した視点で眺められたことと思います。
 それを9歳の少年に仮託したことによって、作品により奥行きと普遍性を持たせることができたのではないでしょうか。
 ところで、この本は1985年の出版ですが、私の読んだ本は翌1986年で9刷です。
 このような普通の男の子を主人公にした「文学的な」作品が、一定の読者に受け入れられる土壌があったことに、80年代の児童文学の出版状況の豊かさが感じられます

海のコウモリ
クリエーター情報なし
理論社
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