社会科塾講師☆ブログ~しゃかりき!~

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中学生までの図工と美術の入門編1 鉛筆の使い方

2025年02月15日 22時24分00秒 | 図工と美術について
みなさま、本日もありがとうございます。

本日は、入試の科目とは
直接関係なく、
過去に娘用に
絵についての内容で
作ったテキストをアップいたします。


こちらは、
当時、学校の授業方針に合わなくて
苦しんでいた娘に対して
娘の精神状態を安定させるために
つくりました。(数年前の作品です)



小学校の図工、中学校の美術の授業は
「何かを作る時間」に
ほぼあてがわれ、
いわゆる、
道具の使い方、技術、知識のほうに
あまり時間を割いてません。

図工、美術の時間が、
国語や数学(算数)のように
毎日のようにないこと、
美術関係の高校、大学でないと
美術は入試科目にないこと、
大人になって、美術の知識や技術は
国語や算数のように
すべての人に直結しない知識、技術
であることから、

限られた時間で図工、美術をするには
何かを作成して、それを完成させること、
で帰結するしかないのかな?とは
思います。


ただ、その「学校の授業の内容」が
「美術(図工)」が子どもたちが
できるようになる、美術が好きになる
「唯一にして真髄、孤高である方法」で
あるとは、私は思わないのです。

学校の授業では真逆の、
先生によっては「悪い事」ということを
自分は行いたい、習いたいと思うことは
悪いことでしょうか?


それが何か?というと
「知識」「技術的スキル」から
入ることです。



学校の先生によく私が言われたのは
「知識を得ると自由な発想力が奪われるからダメ」
「技術を教えると、つまらない絵を描くようになるからダメ!」
という内容。


こちらは、頭の中に勝手に出てくる画像を
2次元空間である紙(キャンバス)に
落とし込みたくて、
その頭の中の発想力が知識で奪われるとは
思えなかったのです。
知識があるほうが、より発想力が出ると。
技術も磨けば磨くほど、
描ける範囲が広がります。

よく、芸術分野は
「楽しんでやらなきゃ、意味がない」
と言われます。

でも、その「楽しい」と思う感情って
「エンタメ的な楽しみ」
「アクティブな楽しみ」
「刺激のある楽しみ」
だけでなく
「難しくて辛いこともたくさんあるけど
挫折込みで、その人生を面白いと思う楽しさ」というのもあって、

どの「楽しさ」を好むのか?は
人によります。



多くの人は
「エンタメ的なアクティブな楽しみ」を「楽しみ」とするため、
「実際に絵を描く行為」そのものが
できれば「(彼らの考える)楽しい」
と思い、
そして、
その絵を描く前段階の
「知識」を座学的に習う、
「ひたすら鉛筆を動かすだめの技術練習」は
「楽しくない」となり、

「楽しくないことは、芸術では
やってはだめ!」
という思考になりがちです。


でも、人によっては
「知識」「技術練習」を好む子もいます。


しかし、学校などの集団生活に適応するため
どうしても、自分の好みよりも集団の好みを無意識に優先し、苦しむ子もいます。


娘がそのタイプで、
だから「本(冊子)」という形で
それを作ると、
「自分の思考や好みのまま、芸術分野の
勉強をして良いんだ」と安心して
絵を描けると思って、作ったシリーズです。



何冊か作ってあるので、何回かにわけて
アップします。


今回は、鉛筆1本で、
筆圧、持ち方で
あらゆるタッチができる、
という内容です。
















今回は以上です。

わざわざ解答例まで入れるのは
「芸術には正解はないからダメ!」
と言う人もいます。
ただの参考例があるほうが
安心して練習に臨める子もいると
思って、解答例を入れてます。
社会や理科の、記述の解答例と
同じような立ち位置として
みていただければ幸いです。

プロを目指す芸術学校ならいざしらず
小学生、中学生の義務教育なら
最低限の知識と技術を知ったほうが
もし、その後に、その分野に入りたい、
と思ったときに、スムーズに入ることができるかな?と思います。


れくす先生の歴史授業10 古代中国の春秋時代と戦国時代

2025年02月13日 21時32分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

今回は、「れくす先生の歴史授業」の
続きです。

今回は、古代中国の
春秋時代戦国時代です。


1 春秋時代と戦国時代について


この時代、
よく「周王朝がなくなって、
そのあとに、春秋&戦国時代が始まった」
と思われがちなのですが、
実は違います。

春秋時代には、周王朝そのものは
存在しているのですが、
ほぼ実権がないというか、
地方のトップ(諸侯)同士が
争って、その権力争いで
勝った諸侯が
周王朝を動かした、
というイメージです。



下の画像が春秋時代のイメージです。



春秋時代は、王そのものは一人(周王)です。実権は持っていても、地方のトップは「諸侯」のままです。


しかし、戦国時代になると
「王」を自称する人々が増えました。
(戦国時代になったから、「王」を自称したわけでなく、「王」を自称する人が増えた時期あたりを、後世の人々が、そこで、区切って名称をつけた、という形ですが。)

周王朝の周王も
他の諸侯をまとめる唯一王ではなく
数いる王の中の一人の王となります。

イメージとしては、
春秋時代よりも、各国が
それぞれ独自の政治形態、思想、文化を
持ち、国同士で手を組んだり、
実質的な配下に下ったり、
そういう、
各国同士が独立したような状態に
なりました。

下の図がイメージ画像です。








この春秋・戦国時代
分裂と抗争(戦争)の時代で
500年以上、続いています。

500年以上です。

とてつもなく長いですね。

この分裂と抗争の間に
各国は自国が負けないように(滅びないように、勝てるように)、色々と行動した結果
あらゆるものが生まれました。

その中でも、現在、国語の古典でも習う
諸子百家の思想が生まれたことが
後の中国、そして、日本を含む
東アジアの国々の歴史を大きく
影響していきます。







諸子百家という漢字を「諸氏百家」と
書き間違える方もいます。
「氏」でなく「子」です。
「子」とは「先生」の意味です。

春秋時代、戦国時代には
諸侯や王が自国を守るため、強くするため
自国の統治方法や戦法、
つまり、リーダーシップのとり方を
模索します。

そのリーダーシップのとり方を
話した、まとめたのが、諸子(先生)たち
なのです。


今の平和な時代で考えるリーダーシップは
「絵空事」「偽善的」「理想論だけ」な
「実のないリーダージップ論」
だったりすることもありますが、

春秋時代、戦国時代は
「結果の出せるリーダーシップ」が
必要になります。

「キレイゴト」ではすまされない、
現代での「キレイゴト(皆仲良く、皆で話し合うことのみでしか力がつかない、という、一部の人に都合が良いだけの空虚なもの)」の価値観からすると
「ん?!」と思う人もいるかもしれませんが

諸子百家の人々の著作(本人が記したものだけでなく、話したことをまとめたもの)を
読むと、「人間というのを、きれいなところも汚いことも知ったうえで、どうリーダーシップをとるか?」がベースになってます。

つまり、「現実的なリーダーシップ」
なのです。


とてつもなく長い戦乱の時代だったのだから
「実力」がすべて。
「実力」とは「何も努力しないで、知識を持たなくても、なんとなくできてしまう」という意味のものでなく
「あらゆる努力、知識をもってして、結果を出せること」を「実力」と言うと私は思います。


このように、春秋時代、戦国時代には
諸子百家の考え方が
多く生まれました。


その中で、
韓非子法家
孔子儒家儒教)のみ、
中学では習います。

ただし、社会(歴史)では孔子の儒家(儒教)のみ用語が出てくることが多いです。

韓非子は国語(古典)で習った
「矛盾(むじゅん)」の話の作者です。

韓非子(法家)の考え方を元に
政治をしたのが、のちに中国を統一した
秦の始皇帝です。

儒家の考え方をベースに政治をしたのが
漢王朝になります。
そして、漢王朝をベースにして
その後の多くの
中国の王朝は進んでいくので
儒家の考え方(儒教)は
中国、そして、中国と貿易した東アジアの
歴史人物の行動原理にもなってきます。



今回は以上です。

次回は、

秦王朝と漢王朝の成立、

そのあとで、
諸子百家の儒家と法家、そして、
中国の王朝交代のときに考えられる
陰陽五行説の放伐、禅譲(ぜんじょう)の
考え方、そして、朝貢貿易の考え方を
説明したいと思います。


ご覧いただき、ありがとうございました。





れくす先生の歴史授業9  周王朝の成立

2025年02月05日 15時41分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございました。

れくす先生の歴史授業、の続きです。


前回から中国の歴史(中学生で習う範囲)
始めました。

前回は殷王朝の時代をお話しました。

今回は、周(しゅう)王朝です。


1 はじめに

周については、中学では、
ほとんど習いません。

しかし、周王朝、
さらに、春秋&戦国時代を
理解することが

中国史、さらに、日本史の
全体がより鮮明に理解しやすくなります。



それはどうしてか?というか、
殷王朝までは宗教と、かなり大きく
結びついた王朝でしたが

周王朝からは、「人間」同士の
結びつきで歴史が動いていきます。
 

そして、王朝の政治形態、そして、
春秋時代戦国時代で生まれた
政治形態や、
政治思想&哲学(諸子百家の考え方)、
などが
秦の時代以降の歴史の基礎を作っていきます。

さらに、のちの日本でも
春秋時代、戦国時代に生まれた
諸子百家の考え方が大きく影響して
歴史が作られていきます。


諸子百家の考え方の中で
「儒学(儒教)」は、日本で多大な
影響を与えています。

儒学をベースにした漢王朝から
日本は中国の王朝に大きく影響して
いきます。
中国の王朝は、漢王朝から儒学ベースの
王朝と見ることもできるため、
日本はその後の中国王朝を手本に
国の政治をつくっていくので
かなり「儒学(儒教)」は重要です。
かなりあとの歴史、たとえば、
鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱、
徳川綱吉の政治、なども
儒教について知っていると
歴史の流れが理解しやすくなります。


さて、話を周王朝に戻します。





2 殷王朝滅亡と周王朝の成立

まずは、殷王朝のおさらい。
(↓画像を参考してください。)


殷でも周でも、同じことが言えますが

殷という、1つのまとまりで
すべての地域が殷の王様が直接支配している、というわけでなく、
各地域にその地域の首長(トップ)がいて
その各首長が各地域をまとめます。

ただ、あらゆる地域の首長が、
殷の首長(トップ)を首長のトップとして
まとまることにした形です。

つまり、殷の王が、トップの
トップとしての
役割を果たさなくなったとき、
他の地域のトップが、
殷グループから
離脱しよう、
でも、それを殷はゆるさない、
そして、最終的には
殷を倒さなければ、
解決しない、という形になり、
戦争がおこり、
最終的に殷は滅亡し、
別の地域のトップだった周が
他の地域のトップのトップに
なって、まとめていきました。

いわゆる「地方分権」という
やりかたです。

下の図に書いてみました。
(イラストのイメージはあくまで
地方分権の説明イメージで、
周王朝そのものの王を
表しているわけではありません。)



そして、地方分権で、
各地域の土地は、
その土地のトップの土地として
保証されます。

このように、
その地域のトップが
その地域の「土地」を領有したまま
地域をまとめ、
各地域のトップ(諸侯)が、
従うのは王
という形のことを
封建制度と言います。

諸侯(しょこう)というのは、
地方のトップで、
土地を領有してその地域の政治を
している役目(身分)の名称、

というのは、
各地域のトップ(諸侯)を
まとめている役目(身分)
と思ってください。


周王朝成立時、
諸侯は、地方ごと(国ごと)にいるため
多く存在しますが、王は一人です。
その王に就くのが、周の国の人だった、
ということです。


このような形は、
細かな違いはありますが
日本の封建時代
(鎌倉時代から江戸時代)
でも同じです。

封建制度を完全理解するのは
難しいのですが
ここを自分の中で
ある程度、理解しておくと
あらゆる歴史の流れが
わかりやすくなります。


画像にもまとめました。↓↓





このように、紀元前11世紀ごろに
地方分権でまとまった周王朝
でしたが、紀元前8世紀ごろから
王の力が衰えてきます。

そのため、諸侯たちが周の王の意見を
聞かなくなります。
そして、諸侯たちで権力争いがおこるのが
春秋時代です。

春秋時代には、まだ周王朝そのものは
存在しています。

では、春秋時代、戦国時代は
どういう時代だったのか?は
次回説明します。


ご覧いただき、ありがとうございました。

れくす先生の歴史授業8 中国文明の始まりと殷

2025年01月31日 15時52分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

れくす先生の歴史授業の続きです。

前々回はメソポタミア文明、エジプト文明、
前回はインダス文明(+その後のインド文化)を行いました。

今回は、中国文明です。




1 はじめに

他の文明と違い、中国文明のみ、
中学では「王朝」名を
習います。
(高校レベルだと、
他の文明でも王朝名を習います。)

また、教科書によっては、そのまま、
中国の王朝の歴史に進みます。

そのため、中国文明というくくりで
あまり習わないことが多いです。


そもそも「文明」というくくりも、
歴史の情報を整理しやすくするために
つけたものにすぎなく、
どこまでの時期を「文明」とするか?
にこだわるよりも
「文明という名がつくのは、その地域の
大規模な集団生活が始まったんだよ、
ということなんだな」という程度で
考えても良いと思います。




2 黄河の文明、長江の文明

中国の文明そのものは
黄河流域でも長江流域でも
おこったとされています。


地理でアジア地方を習ったときに
中国の2つの大きな川として
黄河長江を習います。

「河」も「江」も、
「河川」の意味が入っているので
「〜川」とはつけません。
河川名と聞かれれば
「黄河川」「長江川」としずに、
「黄河」「長江」と書く形になります。


また、黄河と長江では、気候や植生も
違ってきます。

古代の黄河では、畑作で
稗(ひえ)や粟(あわ)を、
長江流域では稲作で、稲(米)が
栽培されて
そこで多くの人が住み、
それぞれの文明が
築かれました。

黄河流域は乾燥している地域が多く、
長江流域は温暖で夏に雨が多い(温暖湿潤気候)である地域が多いです。

今は品種改良されて、稲(米)は涼しいところでも、水が少なくても作ることができますが、元々の稲は、
暖かくて、育つ時期の夏に雨が多い
ところである必要がありました。

そのため、長江では稲が栽培できますが、
乾燥して涼しい気候である黄河流域では
水を多く必要としなくても育つ(畑作で育つ)、稗や粟が栽培されました。

中学生の習う歴史では
それぞれの河川で生まれた文明を
習うわけではありません。

中学では、黄河流域
生まれた王朝の
(いん)」から始まり、
さらに黄河流域の王朝をメインに
勉強していきます。


他の地域の歴史でも同じことが
言えますが、
その国の歴史を考える時、
今の国の領土という広さで
歴史を見ないようにします。


今の価値観からすると、
小規模な地域での歴史です。
今の中国という国の規模で
考えるのでなく
黄河流域での都市の規模(都市国家)での
王朝と考えてください。

そして、黄河流域の王朝が、
あたらしい王朝にうつりかわっていくうちに
初期には、いわゆる連合を組んで
グループ内で
まとまっていた形(地方分権)から、
1つのトップ(皇帝)が地方までまとめていく形(中央集権)に変化し、
だんだんと領土を広げていきます。

殷は地方分権の王朝で、
中国が中央集権国家になったのは
秦のときです。

(地方分権と中央集権については
後日、別記事でアップします。)

今の中国の、長江流域まで領土が
広がるのは、かなり時間がかかりました。

教科書や資料集には
地図が載っているので
各王朝、各時期、の
勢力図を見てみると
よりわかりやすくなります。






3 殷

さて、中学レベルで習う中国の王朝名で
最初に出てくるのが「(いん)」です。  


殷王朝以外で「殷」という漢字を
日本では、ほぼ使うことはありませんので
初めて習うと「難しい」という印象を
うける人もいるかもしれません。

しかし、そこで焦らず
じっくりと勉強していただければ
良いと思います。

中国の王朝で、黄河流域で成立し、
現在歴史上で最も古い王朝と言われている
のが「殷(いん)」です。

神話や伝説では、「殷」より前に「夏(か)」という王朝があったと
言われていますが、
「夏」の遺跡や遺物などが出ていないため
「歴史」という点では
「現存していると歴史で確約されている」のは遺跡が出ている「殷」となります。




殷の遺跡のことを
殷墟(いんきょ)」といいます。

「墟」とは
「歴史的なできごとがあった場所(跡)」という意味なので、
「殷という王朝があった痕跡のあるところ」=「殷墟」となります。


殷は、メソポタミア文明やエジプト文明で栄えた国々と同様、宗教と強く結びついた王朝です。

ノートに殷について
まとめました。









殷では
戦争など、何かの決定で大きく後の歴史が変わるような出来事を考えるときには
占いをして、決めていました。


その占いの結果を記した文字を
甲骨文字と言います。



甲骨文字は、亀の甲羅や牛の骨などに刻まれた文字なので、「甲羅の甲」、「骨」の文字をとって、甲骨文字と呼ばれてます。


甲骨文字は後の漢字の元になる文字で
今、使っている「山」などの文字は
「甲骨文字」に似た漢字です。


殷王朝の時期には
まだ鉄器は使われておらず
青銅器が使われていました。

殷の青銅器なのですが、
かなり複雑な文様や形のものがつくられ
高度な技術がないと作るのが
難しいと思われるものだそうです。
現代でも、その作り方の詳細は
不明らしいです。

失われた技術、とも言えます。


私達が歴史を習う時、
とくに技術や学問に関して言えば
「現代に近づけば近づくほど
技術や学問は発展している」
「昔の人は、何も知らなく、
技術は今の技術よりも遥かに劣っていた」
と思い込みやすいです。

しかし、実際にはそうではありません。
もちろん、「ファスト」という意味では
現代のほうが先進的でしょう。
一度に同じレベルのものを定価価格で
作りだす技術は、今のほうがあるかも
しれません。(もしかしたら、新しい歴史の発見があれば、それも変わるかもしれませんが。)


しかし、「技術力」のみに特化すれば
過去に、現代より優れた技術を作って
いることもあるんです。

また、私はふだん生活して
金属を作り出す技術を自ら発見
できる才能はありません。
しかし、過去に、人類初の金属生成を
発見し、発展させた人々がいるからこそ
今があるわけです。


過去のもの、昔の人々が
現代の我々より
「無知」「劣っている」
「かわいそう」など
と思って歴史を見ると
歴史を理解できません。

必ず、「敬意」を払って、
その時代、その時代の人が
どう生き抜いてきたのか?を
考えて見る必要が私はあると
思います。


今回は以上です。

次回は、周王朝成立時と、その後の
春秋時代、戦国時代を行います。

なるべくはやく、完成して記事をアップできたらいいな、と思います。

ご覧いただき、ありがとうございました。


小さい頃のイジメの結果、封印してしまった気持ち

2025年01月26日 18時48分00秒 | 私自身のヒストリー
みなさま、本日もありがとうございます。


現在、れくす先生の歴史授業の記事は
作成中です。


最近は、娘の影響で
ジュニア小説で古典名作(「十五少年漂流記」や「南総里見八犬伝」など)
を読むのにハマっています。


大人なので、ジュニアでなく元々の文庫や
江戸時代の本なら自分で訳も出来なくはないので、そのまま読めば?とも思うことはあります。

でも、これには理由があります。






まず1つは、
ジュニア文庫の形で読むことで
「小学生」や「中学生」が
どのレベルの語彙を使っているのか?が
わかり、それが、中学生向けの勉強を
教えるときに役立つからです。


筆者の先生が、すごく考えて抜いて
選んだ語彙なんだ、構成なんだ、
と感じます。




もう1つは、

過去に置き残した自分の気持ちを
消化させるためです。


私自身は小・中学生のとき、
あまり小説を読みませんでした。

いや、読むのが怖かったんです。


その理由は、小学校時代に
あらゆる人々に
何度も何度も
「お前は、ちえお◯れ(差別用語)!」
「そんなに馬鹿だと、将来困るよねー!」
と言われ、

「自分なんて小説を読めるはずがない」

と思いこんでました。


国語では、まったく問題なく
大学受験まで進めましたし、
大学では国文科系、
小説を読んで論文も書いたりしているのに
「自分は小説は読めない」と
本気で思ってました。


自分の中では
小さい頃にうけた
レッテル(ラベリング)が
そのまま残っていて
それで自分を制限してしまって
いたのでした。

今は、自分が馬鹿だと思うのは
そのままなのですが
「小説を読むのは楽しい」
と思えるようになりました。

そのときに、
実は小、中学生のときに
読みたいな、と思っていても
「自分なんかが読めるはずもない」
と思っていたので、読むのをやめていたのが
「ジュニア小説」でした。

世界の名作、古典の名作も

国語の授業で一部分だけ読んだもの、
大学の単位で必要なもの、
は過去にありますが


自分の個人的思考で
読みたいものを自分でお金を出して
読む、ということを異様に怖がって
読むことを避けてました。


「みんなは、頭が良いから
好きな小説読めていいな。」
「将来困らないようなことを
自分はし続けないと、
自分は馬鹿だから、努力しつづけないと
自分の予想できないような、
なにか恐ろしいことがおこるに
違いない」
という気持ちで約40年間生きてきました。



しかし、昨年、学校側から
冤罪という許しがたい仕打ちをうけ、
「もう、二度と、学校に関わる生き方を
しなくても良い
と本気で思えてきて、

それで、やっと、自分の読みたい小説を
読みたくなりました。


ただ、小さい頃に、蓋をしてしまった
「ジュニア文庫」への憧れ、が
残っているので、
今はひたすらジュニア文庫を読んで
楽しみたいと思います。



イラストは趣味で描いたものです。

将来に関係なく
好きな絵も描き続けるたいものです。