社会科塾講師☆ブログ~しゃかりき!~

元社会科塾講師が勉強方法や社会科について
書いています。

歴史模擬授業も展開中♪

小さい頃のイジメの結果、封印してしまった気持ち

2025年01月26日 18時48分00秒 | 私自身のヒストリー
みなさま、本日もありがとうございます。


現在、れくす先生の歴史授業の記事は
作成中です。


最近は、娘の影響で
ジュニア小説で古典名作(「十五少年漂流記」や「南総里見八犬伝」など)
を読むのにハマっています。


大人なので、ジュニアでなく元々の文庫や
江戸時代の本なら自分で訳も出来なくはないので、そのまま読めば?とも思うことはあります。

でも、これには理由があります。






まず1つは、
ジュニア文庫の形で読むことで
「小学生」や「中学生」が
どのレベルの語彙を使っているのか?が
わかり、それが、中学生向けの勉強を
教えるときに役立つからです。


筆者の先生が、すごく考えて抜いて
選んだ語彙なんだ、構成なんだ、
と感じます。




もう1つは、

過去に置き残した自分の気持ちを
消化させるためです。


私自身は小・中学生のとき、
あまり小説を読みませんでした。

いや、読むのが怖かったんです。


その理由は、小学校時代に
あらゆる人々に
何度も何度も
「お前は、ちえお◯れ(差別用語)!」
「そんなに馬鹿だと、将来困るよねー!」
と言われ、

「自分なんて小説を読めるはずがない」

と思いこんでました。


国語では、まったく問題なく
大学受験まで進めましたし、
大学では国文科系、
小説を読んで論文も書いたりしているのに
「自分は小説は読めない」と
本気で思ってました。


自分の中では
小さい頃にうけた
レッテル(ラベリング)が
そのまま残っていて
それで自分を制限してしまって
いたのでした。

今は、自分が馬鹿だと思うのは
そのままなのですが
「小説を読むのは楽しい」
と思えるようになりました。

そのときに、
実は小、中学生のときに
読みたいな、と思っていても
「自分なんかが読めるはずもない」
と思っていたので、読むのをやめていたのが
「ジュニア小説」でした。

世界の名作、古典の名作も

国語の授業で一部分だけ読んだもの、
大学の単位で必要なもの、
は過去にありますが


自分の個人的思考で
読みたいものを自分でお金を出して
読む、ということを異様に怖がって
読むことを避けてました。


「みんなは、頭が良いから
好きな小説読めていいな。」
「将来困らないようなことを
自分はし続けないと、
自分は馬鹿だから、努力しつづけないと
自分の予想できないような、
なにか恐ろしいことがおこるに
違いない」
という気持ちで約40年間生きてきました。



しかし、昨年、学校側から
冤罪という許しがたい仕打ちをうけ、
「もう、二度と、学校に関わる生き方を
しなくても良い
と本気で思えてきて、

それで、やっと、自分の読みたい小説を
読みたくなりました。


ただ、小さい頃に、蓋をしてしまった
「ジュニア文庫」への憧れ、が
残っているので、
今はひたすらジュニア文庫を読んで
楽しみたいと思います。



イラストは趣味で描いたものです。

将来に関係なく
好きな絵も描き続けるたいものです。




れくす先生の歴史授業を再開できた嬉しさ

2025年01月21日 16時21分00秒 | 私自身のヒストリー
みなさま、本日もありがとうございます。

やっと、「れくす先生の歴史授業」の更新を再開できました。


9月までは比較的時間的な余裕があったため、パソコンであらゆるものを作っていこう!
という気持ちで制作していました。

実際に、パソコンで制作したほうが、
レイヤーをうまく使いこなせば
色んな種類のものも作れるし、
作り始めるときは時間がかかりますが
総合的には時短になります。


ただ、ですね、10月からは
プライベートでの問題で
時間的、精神的余裕がなくなり、
パソコンに立ち向かえなくなりました。

時間的に、というよりは、精神的に、
もう無理だな、と。


精神的に、何が辛かったか?というと
あることがきっかけで
「どうせ、がんばったって・・・」と
いう気持ちが出てしまったからです。

とくに今回は、冤罪をかけられたことで
かなり精神的にきつかったです。

自分の中で最も大切な「勉強」は
私や家族にとって、
相棒であり趣味でものです。

しかし、私達の言い分を聞かず
相手の一方的な価値観のみで

「勉強が悪だ」
「勉強をがんばることは
子供に悪影響しか与えない」


という価値観で、本人は善意で
私に諭してきた人がいて、
それで、まいってしまいました。


その人が
「勉強をしない」「勉強を嫌う」
ことは個人の自由ですが


「勉強が楽しい」と思っている子に
それを言う?
「母親という役職をしている人は、すべて、自分より教育的な能力は劣っている」という前提で、私に話してくる、

という感じで、疲れてしまいました。


いちいち、反論するのが疲れてしまい、
「アナタは私を極悪人、駄目な母親
と思っていいから、
私達は勉強を楽しみたい!
相手のことをしろうともしず、
自分の価値観だけで世界を見て、
他人の好きなもの、心の支えを
否定ばかりする人の近くで学ぶものは
何もない。」
と、その人、その機関から
縁を切る覚悟をするのに
時間がかかりました。

縁を切るので損をするのは
こちら側だけなので。

ただ、今回、家族内では意見が
一致していたので、すばやく行動できた
のは幸いでした。

もちろん、完全に縁を切れたわけでは
ありません。事務的なことはこれからも
関係してくるので。

ただ、3ヶ月かけて、やっと
精神的に縁が切れたことで 
冷静になり、
頭をまとめながらブログを書けるように
なりました。


「どうせがんばったって」ではなく 
「がんばることそのものを楽しむ」
「やっぱり勉強好きだー!」と
いう気持ちのほうが強くなりました。

このブログも
「学校に通っている前提の勉強」と
いうスタンスはやめ



「学校に楽しく行ってい、勉強をがんばっている人」
「学校は辛いけれど、学校に行って勉強を
がんばっている人」
「学校以外の場所で勉強をがんばっている人」
「受験うんぬん関係なく、勉強そのものを
がんばっている人」



すべての
「勉強をがんばりたい人」に向けて
書きたい!と思いました。



更新はできるときにするため
不定期連載にはなりますが
かならず続けていきたいと思いますので
これからもよろしくお願いいたします。



0の概念について、ある番組で
「音楽の楽譜の休符の存在だと思えば良い」
という内容を聞き、
そこから
「つまり、0があるからこそ、一定のリズム(幅)で、物事を進められる思考ができるのかもしれない」
と思いました。
ある数学系の専門だった人が
「0だけでどれだけでも話せる」と
言ったのを思い出しました。
当時、それを聞いたのは中学生のときで
「なんじゃらほい?」
と思っていましたが
 
今になると「あー、たしかに」と
思います。
ただ、私自身は数学の専門ではないので
たぶん、その人が話したことの半分も
理解できないと思いますが、
理解できない部分があるからこそ
それを理解できる努力する未来の楽しみが
あったりします。


なかなか更新できなくてすみません

2024年12月19日 15時39分00秒 | 私自身のヒストリー
なかなか更新できなくてすみません。


数年間、更新できていなかった
このブログを再開したときは
「やっと、自分の時間が持てた!」
という時期だったので、
色々と先々のことを考え、
ブログ更新をしていこうという
気持ちでいっぱいでした。

しかし、10月を境に
「精神的にも時間的にも
いっぱい、いっぱいな状態」
になりました。

人生に絶望した時期もありました。

「自分さえ我慢すれば」
「あのときに、アレを言わなければ良かった」
と、後悔の念で、苦しんだ日々でした。



ただ、2ヶ月ほど、自問自答し、
さらに心療内科に行ったり、と
色々としていくうちに、

自分なりに気持ちが整理できました。

個人情報満載な悩みなのと
今は、学校の先生とのことを
文字にさえしたくない気持ちがあるので
詳細は控えさせていただきますが

これからも、
「勉強」というのは続けていきたいですし
「受験勉強」は好きですので、

亀更新にはなりますが、
ブログも続け、同人誌作成も
続けていきたい思います。


写真は、作成中の
れくす先生の歴史勉強のための
画像と、クリスマス用の画像です。


ではでは、
これからもよろしくお願いいたします。


れくす先生の歴史授業  第5回古代文明1 導入編

2024年12月09日 07時00分33秒 | 私自身のヒストリー

みなさま、本日もありがとうございます。

更新がノロノロすぎて申し訳ないのですが、「れくす先生の歴史授業」の続きが書けましたのでアップさせていただきます。

可能な限り、定期的に更新できるようにしたいです。

現在、子育ての方向性で悩んでいて、なかなか記事を書けない状態が続きまして・・・。

 

 

れくす先生の歴史模擬授業シリーズです。

今回は、第5回 古代の文明①(導入編) の話です。

 

 

※この授業のコンセプトは第1回の内容をご覧ください。

 

 

「古代文明」の分野は、中国文明以外は私立中学入試ではあまり出ない分野です。

中学生になってから初めて習う内容のことが多いです。

(私立中学入試で絶対に出ない、とは言えないので、受験予定の学校の過去問の確認をオススメします。)

 

テスト勉強のために用語を覚える、という意味では

最初から用語をしっかりバシバシ入れた方がわかりやすいと思います。

ただ、今回のシリーズは、

「はやく覚えないと誰かに人格否定される、という不安感でパニックになることを

防いで、落ち着いて、学校とは関係なく、受験勉強し続ける」というのが目的の1つなので

「用語を受け入れる前に下地を作る→その後でテストで用語をバシバシ出す」

・・・という形にしています。

 

 

今回から、何回かに分けて、

世界史の部分、文明の誕生代表的な文明を見ていきます。

 

 

 

今回は、導入のみを扱い、

次回から、各文明を見ていきます。

 

歴史の内容を習うとき

「どこに視点をおいて、その歴史を見ていくか」

「あらゆる情報をどう整理していくか?」

というのを先に先生に提示してもらえると、

具体的な内容に入ったときに、頭に入りやすかった経験がありました。

 

そのため、

初めての分野をお話するときは

 

「ここは、ここに立って、歴史を見ると良いよ」と話したいと思います。

 

ではでは始めます。

 

 

 

 

1 文明の誕生

 

 

(1)文明とは

文明は、ある日、突然、作られたわけではありません。

約1万年前に間氷期に入り、新しい環境になり、

その新しい環境に慣れるために定住生活をするようになったことから、徐々に、文明が形作られました。

 

では、「文明」とは、いったいどういうものなのでしょう?

 

文明とは、「豊かな生活(当時)を送れるようになった、実質的な状態」のことです。

その状態を具体化したもの、例えば、大きな建物や文字などを

私たちは「文明」とイメージしています。

 

文明=豊かな生活」の象徴が

大きな建物などの集団で力を合わせて作ったものが存在している(存在していた)。

・決まった身分または役職、に従って、社会全体が動いている。

・1つの法則(文字など)で、住民がコミュニティをとり、それに基づいた生活をしている。

・1つの価値観(宗教など)で、一定数の人間が考え方を共有している。

金属器(青銅器など)という高度な技術と集団作業を必要とするものを作成している。

 

 

・・・などになります。

 

各文明には、形が違っても、似たようなものが存在しています。

 

(2)文明ができるメカニズム

 

農耕・牧畜を行うことがメインの生活になった人々が多くなり、

様々な地域で、同じ場所に住む生活(定住生活)が始まりました。

同じ人間達で暮らすので、小さな集団コミュニティができてきます。

 

その生活コミュニティを「ムラ」と言います。

 

そして、そこで、食料を計画的に生産して蓄えるようになってきました。

場所や、能力の差、運、などによって、蓄えに差が出てきます。

蓄え」を別の言い方で言うと「富(とみ)」になります。

 

蓄え(富)の差が、そのまま、貧富の差になっていきます。

そして

この「蓄え=富」を巡る戦いがおき、そこで勝利した者や

農作業や(豊穣の祈りなどの)祭りを指揮していた者、などの中から

強い権力を持つ支配者が出てきました。

 

そうして、1つの集団コミュニティ内で、支配者・被支配者が生まれ、

だんだんとそれが、次世代に引き継がれるなどして固定化していきます。

(もしくは、支配者が次々と変わっていく形)

 

 

その結果、1人のリーダー(または1つの組織や1つの固定集団)が支配者になり、被支配者を動かすことになります。

 

こういうと、嫌がる被支配者を支配者が強制的に動かそうとしている、というイメージを持つ人もいるかもしれません。

 

中にはそういう人々もいたでしょう。

 

でも、今のように「先祖が残した建物や知識」があるわけでなく、

「0」から、その「建物」「知識」を作っていった時代なのですので、

 

「優れたリーダーに従った人々が、力を合わせて、建物やルールを作っていった」

と思った方が、私はしっくりきます。

 

暦がないと、農作業はできません。

暦に従って農作業することで、計画的に種をまき、育て、収穫することで、

食べられる農作物を多く、手に入れることができます。

 

集団をまとめるには、その場にいる人だけでなく、空間や時間を超えて、情報を伝える必要があります。

それを実現するツールが文字になります。

文字そのものは、「文明」に必須アイテムというわけではありませんが、

文字がない場合は、別の意思伝達共通手段があったと思われます。

 

  • 各文明

世界各地には様々な文明があります。その中で、「◎◎文明」という名称がついた状態で中学生レベルで

習う4つの文明は4つになります。

 

4つの文明は、

メソポタミア文明エジプト文明インダス文明中国文明

 

(昔は、この4つの文明をまとめて、四大文明と言っていましたが

現在ではその括りの用語は使いません。)

 

また、他にも「文明」という括りでは「用語」として中学では聞かれることはありませんが、

メソポタミア文明・エジプト文明と時代的、文化的にリンクしている、

古代ギリシャ古代ローマも扱っていきます。

(ギリシャは、エーゲ文明や、クレタ文明、ミケーネ文明などの用語はありますが、

中学では「◎◎文明」としては扱わず、ミケーネ文明後のポリス社会の古代ギリシャのみを扱います。)

 

 

話を、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明の話に戻します。

文明の内容を覚える(理解していく、情報整理していく)ときに・・・

 

a:文明名とその場所

 ・・・その文明が存在したところが、現在のどの地域(国名)にあったものか?までチェック。

    文明関係だけでなく、歴史を学ぶとき、場所も一緒に覚えることは大切。

 

b:文明があった川(大河)の名前

  ・・・大河(大きな川)が近くを流れているからこそ、農耕もでき、大きな荷物も運ぶことができます。

     そのようなことから、文明の発祥には、大河の存在は、ほぼ必須とも言えます。

     (地域によっては、大河がない文明もありますが、中学で習う文明では大河は必須です。)

 

c:文字

  ・・・必ずしも、どの文明にも「文字」が存在しているわけではないですが、

     中学レベルで習う文明は、すべて文字が存在している文明になります。

     そして、この文字があったからこそ、現代の我々は、その時代の歴史を多く知ることができます。

 

d:建物、遺跡

 ・・・現存している建物もあれば、かつて建物があったとされる痕跡のある場所(遺跡)もあります。

    建物や遺跡から、当時の人々がどういう暮らしをしていたのか?政治形態はどのようであったのか?を推測することができます。

 

e:王朝・国家名

・・・各文明内で、ずっと同じ一族や地域がトップに立っているわけではないので、王朝の移り変わりはあります。

   しかし、中学では、中国の王朝以外は、王朝名は、ほとんど扱いません。

    ※王朝とは?:歴史の分類方法の1つ。君主が歴代同じ血筋の人になる、または、同じ君主のタイプで国を支配するごとに、

           1つのまとまりで考える。

  

 

 

f:その他

・・・その文明で使われた、やきまり、宗教、学問(数学など)など。

 

 

・・・・の6つの項目に分けて見ていくと良いです。

 

その文明の時期(◎◎年頃、××年前など)はチャックして、

頭を整理していく必要がありますし、時期を覚えるにこしたことはありません。

ただし、細かい暗記(語呂合わせ年号など)に固執する必要はありません。

ただし、その文明が一番古いか?同時期の文明の動き、文明同士の交流はあったのか?などは考える必要はあります。

 

 

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今回は以上です。

次回から具体的な内容に移りたいと思います。

 

ご覧いただき、ありがとうございました。

 

 


最近の気持ちとイラスト

2024年11月17日 07時00分00秒 | 私自身のヒストリー
みなさま、本日もありがとうございます。

歴史模擬授業の新しいバージョン(れくす先生の歴史授業)を作成するにあたって、

ブログで、ある程度、まとまったら、
同人誌にしてBOOTHなどで販売したいと
思っているのですが、
絵もオール描き直し(過去絵がパソコン内にないものもあるため)しているので
時間がかかり、申し訳ないです。




現在は、新石器時代の内容を書いてますが
それを書くにあたって、家畜の歴史を調べ、家畜の描いていくうちに、
「人間と動物の共存(偽善的な意味でなく、歴史的な意味)」を考えるようにも
なってきました。


私は動物が好き、とくに、猫が好きです。

猫って、自分勝手なモフモフ、な子ですが
それがかえって、
「空気を読んで、常に多数派の相手の意見に従い、多数派の価値観に沿う行動をしないと、人格否定されたり、自身の好きなものや大切なものを攻撃され続ける」人生を
歩んでいた私にとっては
「先に、あらかじめ、
自己主張をしてくれる、ツンデレ」な子の方が、とても落ち着きます。


今は、何を書いても
「自分たち(発達障害者)を差別する集団に
合わせるのが疲れた、もう、自分たちだけで勉強したい。」
という価値観で書いてしまう自分がいるので

ひたすら、勉強や猫のことを考えたいと
思います。

他人の悪口を言うのが嫌だから。





画像 新石器時代の狩りと土器

2024年11月16日 07時00分00秒 | 私自身のヒストリー
本日もありがとうございます。

なかなか更新できなくてすみません。

水面下では、色々と記事を作ったりしているのですが、完成してからアップするのに時間がかかってしまうのが現状です。

現状、子供の関係で、ほとんどの時間を
子供への授業と育児で毎日過ごしているため
一週間に1時間、自分の時間があればラッキーな状態です。


なので、完全なる完成品を、と思っていたら、更新がいつになるか?な状態になってきたので、作成した画像は、先にアップしていこうと思います。

記事は完成次第、アップします。

今回の画像は
新石器時代の狩りの変化、
と、
土器とは何か?のものです。






少しでもお役に立てれば幸いです。



勉強方法について思うこと

2024年11月06日 19時32分00秒 | 私自身のヒストリー
みなさま、本日もありがとうございます。

なかなか更新できなくすみません。
こんなにプライベートで
苦しむことになるとは!という状態ですが、
自分が生きていく中で苦しまなかった時期は
なかったので、
「まあ、また頑張るしかないなぁ」と
いう、前向き?な気持ちはあります。


少なくとも、子供に勉強を教えて、
楽しく過ごせる母子関係を築けていることは
学校側がどれだけ私を悪く言おうと
何も恥じることないと思ってます。 


学校とは対立する関係と
なってしまいましたが、
自分が生徒だったときも
塾講師のときも、
家庭教師だったときも
水面下では対立はしてたので、
また、学校に頼らず
自分で頑張れば良い
というだけです。


世間は「誰かを頼れ!
自分だけで抱え込まないでー」
「学校の先生は教育のプロだから任せれば万事オッケー!
と言う人がいて、
それが善意でのアドバイスだとしても
かえってストレスだったりします。



実際には「1人でがんばらなきゃ!」と
背負っているわけではなくて、
「頼った結果がこれなんだよー!
自分で抱え込んでなく、自分で色々と
思考して考えたいだけなので、
頼りたくなったら、頼りたい相手に
頼るので大丈夫!」
という感じです。


学校の先生だって、人によると思います。




私はかつて
家庭教師や学習塾の塾講師だったとき、
主要五教科すべてを
需要があれば教えていました。
(進学塾では文系科目のみ担当。)

2度の流産、出産、育児、
そして、子供の関係で仕事に復帰できず
とてつもないブランクに
なってしまいました。
(定期テスト直前の授業中に
2度流産してしまい、テスト直前の休講を
してしまったのがきっかけで退職。
その後、様々な要因が重なり、
結果的に復職できず。)


なので、子供が学校に行き始めた時期に
「私のやり方は古いかもしれない。」
「私のやり方では通用しないかもしれない。」と、子供のテスト対策授業を
するのが怖かったのですが、
きちんと努力に連動した結果を
出せたときはホッとしました。

この10年で、
学習環境はかなり変わりました。

しかし、タブレット学習に変わろうが
話し合い学習に変わろうが

「勉強ができるようになる」と
いう根本は、昔から変わってないな、
と実感したのが今年の大きな発見です。


タブレット学習は
あくまで「調べ物」や
「問題演習量をこなす」ためには
大変有効で便利なものだと
思いますが

「理解するため」には
紙での勉強のほうが
有効だな、と個人的には思いました。

紙だと、すぐに書き込めるし、
全体が把握しやすいから。

そして、教科書やノートのように
1つの冊子になっていると
あらゆる情報を自分用にカスタマイズして
いけるので。


あと、これは私や子供の特性なのかも
しれませんが、
光源の光(タブレット)より、
反射光の光(紙)のほうが
頭に入りやすく、長い時間勉強できる気が
します。
光源だと、目に入る情報量が多く、
目や脳が疲れてしまう、そんな感じ?
ですかね。
3時間くらいぶっつづけに
勉強するには紙の方がストレス少ないです。


また、実際に鉛筆やシャーペンなどで
書いてノートにまとめたり、答えを書いたほうが、私や子供は頭に入りやすいです。



タブレット学習で成果を出せる人もいるので
一概に紙の方が良い、タブレットの方が良い、と言いたいわけじゃなくて、


紙の方の勉強が合う子、
タブレット学習の方が合う子、
もいて、

さらに、勉強する内容によって
個人個人で使い分けてもオッケーな
勉強環境が整えば良いなぁ、と
個人的に思います。


教育って、何かをやれば、みんな同じ効果があるわけではなくて、奥深い分野なので。


なので、「今の学校の教育方法が
合わない子は一定数いて、
でも、その子は勉強苦手な子ではない
可能性もある」と。 

今回はただの呟きです。

歴史授業関連も作成中なので
これからもよろしくお願いいたします。




他人に人格否定され続けて人格を変えようとするのは危険だと思ったこと

2024年10月04日 17時18分00秒 | 私自身のヒストリー
みなさま、本日もありがとうございました。

今週は、なかなか更新できなくて
すみません。



水面下では、色々と次の歴史授業に向けて
準備をしています。
上の絵も、
この画像を資料に入れていこうと
描いています。




今回は自分のお話です。




私は小さい頃から
絵の具での、まじめな絵の色塗りが
好きでした。



でも、小5のいじめ、
小6に学校の先生に迫害されたときに

自分の絵について
さんざんなじられたこと、
そして、
私は盗作していないのに
先生のお気に入りの生徒さんの絵を
他の生徒さんから私が盗作した、
という言葉を信じ込んだ先生が
私をクラスメイト全員の場で
罪人呼ばわり、人格否定
ということをされて以来、


「まじめな絵を絵の具で、
じっくり描くこと」が
恐怖の対象になってしまいました。

でも絵は描きたかった衝動を抑えられず
「簡略化したイラスト」を描いて
逃げてました。


だって、私は絶対に
盗作してないんですよ。
その絵は夏休みの宿題で、
テーマは「近所の風景」だったから
ご近所に住んでいたら
描く場所が同じになることは
あります。公立の小学校に通う小学生の
近所は、ほぼ同じ。

しかし、
私は夏休みにその子に会ってないのです。
いじめられて誰も友達がいない私が
どうしてその子に会えるんでしょうか?

さらに、同じ場所を描いても
私と、その子が描いたタッチや構図は
しっかり見ればぜんぜん違うとわかるのに
どうして、先生は、あらゆることを総合して論理的に考えれば、
私が盗作してないとわかるのに
私を罪人に仕立て上げたのはなぜだろう?
という静かな怒りはずっとありました。

でも、その怒りよりも
「自分が誤解されるようなことをしたから
私が悪い」


「私が誤解されるのは、
先生やクラスメイトが言うように
私の人格が悪いからだ」
という、
自分への人格否定に
努力の方向が向きました。

 
それからは真面目に絵を描くことが
すごく怖くなりました

「簡略化したイラストなら、
本来の私が描いてないのだから
それでどれだけ愚弄されようが
彼らが攻撃しているのは私ではないから
大丈夫」と無意識に思って、
すごくいいかげんに
絵を自分は描いていたことが
最近になって、わかりました。


要は、

私は

人格否定される」ことが怖いこと、

そして、さらに怖いのは


他人に人格否定されたら、
自分の人格
相手が望むように
変えなければならない

いう思考になるのが、
怖くて怖くてしょうがなかったですね。



しかし、あるドラマで、
「境界性パーソナリティ障害」というのを
題材に描いているのを知り、
それで気になって、原作の漫画本を読みました。

また、他にも
「パーソナリティ障害」を自分なりに
調べて考えてみた結果、


「本来の生まれつき備わっている特性
生まれてから周りの人と交流しながら
集団生活で生きていくために
育っていく過程で生まれる性格が、
うまく折り重なってできるものが、
パーソナリティ(人格)である。

多くの人は、その折り重なりが
無意識にストレス少なくできるのだろう。

しかし、中には、

生まれつきの特性による人格と、
育った環境によってその環境下を生き抜くために必要とする人格が異なりすぎて、

環境下を生き抜くために必要とする人格を
優先し、
生まれつきの人格を自分で否定する(抹消する)となると、

そのうち、感情が抑えられなくなる。

と感じました。(ただ、私は医師ではないので、あくまで推測です。)


私自身、発達障害で生きづらく、
周りに自分の言ったことが
うまく伝わらず、癇癪をよく起こすことが
小さいときからよくありました。

だいたいは、
「泣けば自分の思い通りになると思って
やがる!根性ねじまがってる!」
とか
「他人の言ったことに素直に従おうとしない。なんてワガママなやつ」
と言われました。


こちらは
「なぜこの行為をやるのですか?」
というのがわからないから、
ただの質問として聞いていて、
別にその行為をやらないつもりもない、
ただ理由を聞いてからのほうが適切に動けるから理由を聞いただけでした。

でも、その人達からしたら
「質問」は「反抗」に見え、
私がいかに人格が歪んでいるか!を
私に言い続ける。
私の場合は、家族でなく、
だいたいは、母のママ友か、
そのママ友の子供、
もしくは、幼稚園や学校の先生に
言われ続けました。


だから、私は、幼稚園や学校はともかく
母の、そのママ友と、その子供には
会いたくなかった。

でも、その理由を子供の頃は
言語化できなくて、
母のママ友も、母がいないときに
私に言ってくる。

母が必死でママ友と仲良くしているのが
わかっていて、それは私のためだというのも
わかっていたので、
私がそのママ友の意にそまぬことを
したら母がそのママ友に何と言われるか?
が怖くて、
そのママ友たちが望むように人格を
変えなければならない、と
無意識に動いていました。

母のママ友に会いたくない、とは
母には言えませんでした。

今なら自分がASDとわかっているので、
「そんなに私をみんなと仲良くさせようと
努力しても、アナタの努力に見合った結果を得られないから、お母さん、諦めて、
友達とわいわい過ごすという方法以外の
努力で、集団生活が可能になるよう
お互いにがんばりましょう!」
とも言えるのですが。
精神医学の進歩、ありがたいです。



母のママ友が「学校に行くことで勉強できる」と思っている人だったから、
私は、いじめられた後、とくに、
先生から迫害されてからは
学校に行きたくなかったけれど、
行かないと母がママ友に悪く言われる、
と思って、ずっと行き続けました。

小さい頃から言われ続けていると
「私は人格歪んでいる」と
本気で思っちゃったんですよね。



でも、心の底では
「自分の人格のままでいたいし、
私はそんなに人格歪んでない」
と思っていて、
ときどき自分では抑えられない癇癪というのがおきて、
癇癪おこしたことで自己嫌悪に陥り
自分の中で、生きるときの課題で
それが苦しくて苦しくてしょうがなかった
のです。
でも、癇癪おこす自分が悪いからだ、
人格がゆがんでいるからだ、
みんな、私がいないほうが喜ぶから、じゃあ・・、と何度思ったことか。


でも、
「パーソナリティ障害」について
詳しく知るまでは、この自分の癇癪は
発達障害(ASD)ゆえんによるもの、
と思ってました。


でも、心の底では


「この癇癪はASD由来の癇癪でないものも
あるのでは?

パニックになって泣いてしまうレベルは
ASD由来の気がするが、

半狂乱になって、自分の頭を殴ったり、
ペンで自分の手を刺すことまでする癇癪は、ASD由来ではない気がする」
と思ってました。
ずっと違和感があったのです。


そして、その違和感はたぶん合ってて、
パニック→泣く、のはASD由来だけも
ささいなことで突然怒りがおさまらなくなり、大泣きして自分を攻撃してしまうのは
パーソナリティ障害由来のものかもしれない、と私は思いました。
(ただ、まだ心療内科の予約日が先なので、パーソナリティ障害かどうか?は
不明です。)


パーソナリティ障害について知ったときに

「他人が自分を人格否定する」することは
止められないけれど、
その後の自分の思考(自分で自分の人格否定をすること)は
意識して止められるのでは?と思いました。


他人が私を人格否定するのは
私が「発達障害(ASD)」だから
なのは、なんとなくわかってました。
(発達障害の理由で人格否定をして良いわけではない。)


おそらく、リーダーシップをとりたいとき
または主導権を握りたい時、
「なんとなくの雰囲気で動いてくれない」人を動かすには、その人の「人格否定」をするのが、楽なんですよね。
相手を理解しようと努めなくて
自分は被害者意識で相手を攻撃して
相手を自分に服従させることができるので。
私はそんなリーダーシップは
絶対にとりたくないけれど。


だから、あのときの学校の先生は
クラスの中で私がうまく動いてくれないから
私を悪人に仕立て上げて、人格否定して動かそうとしたんでしょうね。たぶん、無意識に。





ご近所つきあい、母のママ友つきあい、
そして、盗作冤罪事件をかけられたときに、
私自身が人格を変えること、
つまり、人格を自分で否定し続けることで
やっと集団生活で、攻撃されずに
生きられる」ということを自分は
誤学習してしまったんです。

今から考えれば
母のママ友さんも、学校の先生も
「発達障害のことに対して知らないのね」
と思って、言っていることは
黙って聞いてニコニコして、
自分の心の中まで
響かせなければよかったんですよね。


だけれど、時々、
感情の爆発がおこることが
しばしば。


感情の爆発がおこるきっかけは

「みんなができることができない(足並みをそろえられない)」とき


「自分は、悪い意味で言ったわけでもないのに、相手は私が悪い考えで言ったと思って、諭したりバカにした態度をとった」とき


「絵を描いた時、何かを指摘された」とき


でした。


つまり、これは、小学校の先生が
私を攻撃した時と同じ場面を思い出され

「やっと、高校や大学で
自分らしく生きても安全と感じたのに
また人格を変えないと攻撃される
という思考と
「もう、二度と人格を変えたくない!
という気持ちで感情が爆発して
しまっていました、ということです。


また、
絵に関しては、一時期、
それでも、同人活動やクリエイター活動は していました。

コロナ禍をきっかけに
急激に売上がガクンと落ちました。
でも、作家さんによっては
人気は衰えず、むしろ、人気があがる人も
いました。
その理由はもちろん、その作家さんに
絵の技術も絵の魅力もあり、
話も面白いから、なのですが、
私の中で、「その作家さんは、
絵が上手く、話が面白いだけでなく、
世間が求める人格だからでは?」と
思ってしまう心があったのです。


それで自分がすべきことは
自分の人格否定とその改訂
だと思ってしまい、

だんだんと、
絵を描くのは
「過去に自分の中で人気のあった作品」
を描かねければならない、となり、
それを描いても売れないと


やっぱり、私の性格を変えなければ!


となって、ますます、絵を描くことが
辛くなってしまいました。

勉強大好きなのに、それじゃいけない!
勉強は辛いものと思わなければいけない。
日々の幸せに感謝して、
みんなでワイワイしたり、
食べ物や自然を
満喫できる人にならなければならない。
そうじゃないと、絵を描いてはいけない!

という思考になりました。



これで、このままだと、昔みたいな癇癪の
大爆発をおこす、と思ったため、
癇癪で家族を台無しにしてはならない!
と思い、同人活動とクリエイター活動を
休止して、今に至ります。


でも、

この「自分の人格否定」
することで
集団生活を
生き延びていたことを

今までは、どれだけ辛くても
「良いこと」「正義」「義務」だと
思っていたけれど、



それは
「悪いこと」「危ないこと」かもしれないと、


パーソナリティ障害の
存在を知って、思いました


「本来の人格と、環境で必要とされる人格、があまりに異なるなら、人格を変えるのでなく、その環境から遠ざかった方が良い。
その環境から離れられない場合は、
自分で自分の人格は否定せず、
表面だけつきあう努力をすれば良い。」
という形にして、
わざわざ、相手の気持ちを先取りして
その人が望む人格に無理やり変えるのは
やめよう!と決心しました。



そう思ったとたん
小5でいじめられる前の絵に
タッチを戻したい」と思い、
先程の絵を描き始めました。

それまでは、そういう絵を描こうとすると

頭がわれるように痛くなり
どこからか
「そんな絵を描いたら、極悪人として
冤罪かけられて地獄に落ちるよ」
という声が聞こえ、
描けなることが多々ありました。


でも、自分の人格を否定しないように、
むしろ、否定しないのが正義」と
したら、一週間くらい、ナゾの声もせず
ずっと絵を描けるんです。






上の絵が、ナゾの声がしず
楽に楽しく描けた絵です。


ただ、やはり「勉強」が何よりも好きです。

それは

勉強は、自分の人格のまま、
むしろ、自分が自分らしくあればあるほど
できるようになった

という経験しかないので、
これからも勉強を続けていきたいし、
その勉強の補助画像としての絵を描き続けたいです。


そして、私のように人格否定しないで
勉強を楽しめるよう、
「自分ができる限りのことをブログで書いて、同人誌を作ることができるようにしたい!」と思います。



長々とご覧いただき、
ありがとうございました。


また、歴史授業の続きをはやくアップ
できるよう、がんばります。

歴史の勉強冊子を作ろうと思ったきっかけ

2024年09月24日 20時32分00秒 | 私自身のヒストリー
みなさま、本日もありがとうございます。

この前、
画像を描くためのペン(パソコンのペンタブレットのペン)が
壊れてしまったので、
急遽購入しに行くなどバタバタしてて、
作成が途中段階になっています。





同人誌で作成するときに
イラストも可能な限り、描きたい、
と思って、作成しているため、
歴史関係のものは、
ノロノロ更新になってしまってます。

ただ、
だいぶ、身体が衰えたな、
あと何年、元気に作成できるか
わからない、という気持ちと

自分の思考が、
視覚による情報整理寄りなことから
画像があればあるほど
自分には理解しやすくなるため

イラストも描き続けたいです。



過去の歴史の
説明記事「歴史模擬授業」シリーズも
ここではアップしてない、
歴史のテスト勉強用の冊子も

元々は、大学の能楽部に入ってて
そこで能楽の説明冊子を作る時に
絵の冊子を入れるために自分たちで
絵を描いた経験が楽しくて、
それから、大学卒業→塾講師、
になって、
「勉強関係の冊子を作りたい!」
ということから始まりました。

私立中入試の生徒さんに
社会の時間をたくさん割くのも
難しいのは確かなんですよね。


先生は自分の担当教科を
教えている形ですが、

生徒さんは、すべての教科を
勉強しなきゃいけないうえに、
学校での生活、
他のお稽古事の生活、
家庭での、ご近所との、親戚との、
友達との、関係などからの行事
もあります。

また、遊ぶ時間や、
しっかり休む時間も
必要です。
 

どの教科も、がっつり勉強しまくれば
論理的(??)には成績あがるし、
志望校に合格するのはわかるけれど

時間や体力、気力には限りはあります。

入試は人生の通過点の
1つにすぎないので
すべてを入試につぎ込むのは
危険ですから。

頑張ることは大切だし、
私も好きだけれど

勉強でも生き方でも、
何でも「適度」と
いうものがないと、
生きるのが辛くなってくるので。

なので、生徒さんの時間を
すべて社会の授業に、
というわけには
いかないんですよね。


なので、冊子を作って、
塾講師、家庭教師の時間は
渡していました。

読んでもらえるか?
それを活用して
勉強のお供にしてもらえるか?は
生徒さん次第、
でしたが、喜んでくれる生徒さんも
多くて、嬉しかったです。

ただ、今から考えると
「浅はかだったな」と思う部分もあるので
反省点も多いですが。




今週中に歴史授業の続きを書けるように
頑張りたいです。



このブログのコンセプト表明2 勉強と学習のちがい

2024年09月12日 09時00分00秒 | 私自身のヒストリー

みなさま、本日もありがとうございます。

前回、このブログで、新たな歴史模擬授業作成&同人誌作成をするにあたって、

自分がどういう気持ちで作っていくか?の話をしました。

 

今回は、その続きです。

 

今回は、ひとえに勉強」「学習というけど、

そもそも、「勉強」「学習」ってどういうこと?というのを

私なりの視点で話したいと思います。

あくまで、私の視点なので、「ああ、こういう考え方もあるのね」という程度で思っていただければ幸いです。

 

 

歴史を学習する方法はいくつもあります。

 

学校や塾、家庭教師の先生の授業を受けていたら、いつのまにかテストで点数をとれる。

さらに自分だけで調べ物ができ、集団での話し合いでも疲れず、違和感も感じず、

その調べたものが学校の先生に評価され、内申点もつき・・という状態の子のみ

「歴史の勉強」が得意になる要素を持っているわけではありません

 

「歴史の勉強」ができるようになりたいのに、

学校の先生たちの言うことを聞いても、他の歴史の授業が得意な子の真似をしても、結果がでない子は一定数います。

「自分はバカだ。一生、歴史の勉強はできないまま人生を終えるんだ。」と絶望した、小・中学校時代の私もその1人です。

 

でも、途中で、「他人」主導でなく、「自分」主導で、勉強すれば、だんだんとテストの点数はあがってきました。

それには、きちんと、「テスト勉強」と「自習」を分けて考えたことが必要でした。

 

勉強できる権利は、学校に通っている子、集団生活が合う子が持っているものではありません。

すべての人に、「勉強できる権利」があると私は思います。

その権利を行使できる(勉強ができる)場が、現在は、「学校」以外では、なかなか難しい、というの世界が現状です。

少しでも抗って、「勉強できる権利」を使えるようにしたい!

 

小学校のころに先生に「劣等生」呼ばわりされて、自分は一生「勉強できない」と思ってしまった私。

それがどれだけ辛くて、悔しかったか!他人の評価で自分を評価してしまったことが、今でも悔やまれます。

「自分は勉強できない」という縛りを自分で決めて、いざ勉強しようにも、1つでもわからないだけで発狂した、あの日々。

でも、自分だけの世界で、自分だけで勉強するようになってから、

やっと勉強ができるようになったことで、「勉強」の方法が1つではない、ましてや、

学校が独占して良いものではない、と気がつきました。

 

学校を批判するつもりはありません。

でも、自分が学校の勉強方法に合わないのは事実で、学校や学校の先生を否定するつもりもありません。

だからといって、学校に合う勉強方法にシフトするつもりはないです。それは、自分を否定することだから。

 

その折り合いをつけるために、

「学校」とは?「勉強」とは?を考える必要があると思います。

 

 

 

(1)「勉強」と「学習」は違う

 

勉強」も「学習」も、

どちらも「学問を習い、自分の能力として吸収する」という行為そのものは同じなので混同しやすいのですが、

私は「勉強」と「学習」は違うものとして考えた方が理解しやすいです。(あくまで私の考えです。)

 

私がイメージする意味合いになりますが、「勉強」と「学習」の違いを説明したいと思います。

 

例えば、どちらも同じ内容A(例:平安時代)を扱うとします。

  

  • 勉強とは?

そのAで、習ったことを出来るようにする、使いこなせるようにするのが「勉強」です。

 

例えば、摂関政治を習ったときに、「摂関政治」とはどういうものか?というのと、

「摂政」・「関白」という言葉、その摂関政治の最盛期のころの摂政・関白が「藤原道長」と「藤原頼通」   

という人物である、というのを把握&用語として覚えることが必要な行為です。

 

きちんと理解できたのか?覚えたか?の確認のために行うのが、テストです。

 

  • 学習とは?

そのAで、自分が気に入った内容を掘り下げたり、習った内容の行間や背景を調べたりするのが「学習」です。

例えば、摂関政治を習ったときに、「関白」の語源は?なぜ藤原氏が朝廷内で力をつけることができたのか?の過程、

藤原道長とはどういう人物なのか?その時代の服装(束帯や、いわゆる十二単、など)を調べたりするなど、が「学習」です。

 

 

 

 

 

 

  • 勉強学習の違い

 

勉強

以上のことから「勉強」は強制力があり、「集団」「社会」で生活する上で、必要な知識・スキルを身につけるためのものです。

誰のために「勉強」するか?というと、国力のためという「国家」に必要な側面が「勉強」にはあるのは確かなんです。

ただ、そういうと、「国のため」=「戦争のために疑問を持たず、喜んで自らの命をささげること」と思われる方もいるかもしれません。

そういう意味の、「洗脳的な」国力という意味ではありません。

 

国民が国家をつくります。

国民の1人1人の力が国力になっていき、国の経済力があれば、

それが結果的に国民に余裕ができ、他人や他国に攻撃的になる確率が減ります。

 

また、多くの知識を得ることで、

自分で「戦争はどんな理由があってもしてはならない。」という結論に自ら導き出すことができます。

 

知識を多くなると、他人の言動でいちいち感情を揺さぶられたりしないですし、他人を必要に怖がらなくてすみます。

他人が怖いから、攻撃的になる人もいます。

不安感が減れば、自分の才能を解放できます。それが国力につながります。

 

「知識を得る」場合、好きな物、興味のあるものを覚えることは可能でも、好きでないこと、

興味のないことは自主的に覚えるのはほぼ不可能です。

 

そのため、どうしても「強制力」が必要です。それが「勉強」なのです。

 

自分に本当に必要な知識が、実は好きでないこと、苦手だと思っていた知識内容だったりすることもあります。

また、強制的に知識を得ることで、最初は嫌いと思っていたことが好きな物にかわることもあります。

 

また「苦手」だったのは、高すぎる才能ゆえに・・のパターンの子を何度も見てきました。

そのため、「強制力」が働くことで、「苦手」だと思ったものに真剣に取り組んだ結果、

秘めたる才能を開花させることもあり得るのです。

 

 

「国力」「強制的」という単語だけみると、「悪いこと」のように見えます。

 

でもそこに「国のために自分を犠牲にしてがんばる」のではなく、

個人個人の能力開花のために」それが結果的に「国力」につながる、

と考えれば、個人の幸せを追求できる方法にもなると思います。

 

 

学習

 

強制力が必要な勉強」に対して「学習」は自主性の側面が強いです。

自分で本を読んで調べたり、その学習で得た知識で、新しい発想や発見もできます。

また、裁縫や絵描き、博物館や遺跡、お城などを巡る旅などもの別の分野に、

その学習内容をリンクさせ、趣味として楽しむこともできます。

 

 

(3)教育現場は「勉強」「学習」のどっち?

この「勉強」「学習」は、どちらか一方が、「良い・悪い」「優れている・劣っている」というわけではありません。

問題は、ア:どちらに主軸をおくか??の割合、がポイントになってきます。

 

これから、「勉強」と「学習」の比率配分の違いをいくつかの例を通して、見ていきます。

 

 

  • ケース1 「学習」の比率を大きくしたケース

 

学校で習った内容で気になったものを自分で調べて詳しく読みたいと思ったとします。

でも、その調べる内容、詳しく読む内容は、テストに直接関係ないものだとします。

 

その際は、自主的に調べるものとなるので「学習」となります。

 

 

 

<「学習」が「勉強」に影響するもの1:良い影響

学習」で知った内容によって、「勉強」で習った内容の行間がわかったり、

イメージがしたすくなって「勉強」内容を脳内で画像として再現でき、1度に情報が入ってくるようになります。

結果、「勉強」内容も覚えられ、テストの結果も良くなります。

よって、「学習」することで「勉強」の結果は変わってくる、ということです。

 

<「学習」が「勉強」に影響するもの2:悪い影響(「学習」の暴走)>

「学習」をしたから「勉強」もできるようになった経験を重ねていくと、

「『学習』をしていないと『勉強』できない、『勉強』をしても意味が無い」

という図式が脳内にできあがってしまうことがあります。

 

そうなると、

「興味がないことは勉強できない」

「調べても自分が求める答えがなかったから、勉強内容をこれ以上、前に進めることができない」

という考えになってしまいます。

 

 

そして「勉強できるようにするために、興味を持たなければ!好きにならねば!」と焦ってしまう。

しかし、「好き」「嫌い」の感情というのは、がんばって変えられるものではありません。

もし、変えようとしたら精神に支障をきたします。ストレス過多になります。

 

そのような思考を続けていると、

「好き」「得意な」分野(自分で学習した分野)のみは、

テストで点数をとれても、それ以外の分野では点数をとれなくなっていき、

最終的には勉強そのものに苦手意識を持ち始めます。

 

それにより、同級生にバカにされたり、先生にいじめられたり、劣等生・問題児扱いされることまであれば、

だんだんと「自分はバカなんだ」と思い込み始めて、

せっかく「学習する能力」があるのに、その能力を自分で封印してしまう場合があります

 

また、歴史を好きな気持ちはあっても好きな歴史人物はいない状態でも焦る子もいます。

特定の歴史人物が好きな子は歴史のテストで高得点をとれることが多いことから、

別に歴史人物を好きにならなきゃ点数とれないという図式もできてしまう子がいますが、

別に好きにならなくてもテストで点数とれます。「好き」は感情。テストで大切なのは、情報整理なので。

 

 

 

 

 

  • ケース2「勉強」の比率を大きくしたケース

テストで点数をとること、そのためにノートをまとめ、問題演習を解くことは、

テストを作成した機関に自分を点数化してもらうことになるのだから、

テスト勉強は「勉強」の分野になります。

 

<「勉強」が「学習」に影響するもの:悪い影響>

テストでわかりやすい結果を出す(テストで点数をとる)ために、

勉強」で習うこと以外を完全に拒否してしまい、100%丸暗記になってしまうことがあります。

A(→)Bという内容を習ったとき、テストでは「A」と「B」の用語のみが出るとします。

そのとき、すんなり「A」「B」の用語が頭に入るのなら、それでOKだと思いますが、

そうでなければ「→」の部分を自分で「学習」していく必要があります。

 

また「A」「B」という用語を意味もわからず、覚えようとする人もいます。

その場合、覚えたと思っても、すぐ忘れてしまいます。

そのため、定期テストである程度までの点数はとれますが、

一定以上の点数と順位はどれだけ、本人はがんばったつもりでも、とれなくなることが多いです。

 

すべての内容が出る入試問題だと、丸暗記では点数をとれません。

 

 

<「学習」が「勉強」に必要なもの>

 

「A」と「B」の用語の丸暗記だとすぐ忘れてしまいますが、「A」「B」を画像でイメージできると覚えても忘れないこともあります。

人間というのは、意味不明なものを覚えることができる数は多くなく、

画像や文字としてのイメージを伴ったり、情報を整理すると覚えられることが格段に増え、また忘れません。

「承久の乱」「応仁の乱」を「ジョウキュウノラン」「オウニンノラン」と覚えるのでなく、

「乱」というカテゴリーで考え、「乱」のうち「承久」、「応仁」という名称のついた「乱」である、と考えるだけで、

かなり情報整理がつきます。

 

さらに、資料集でその乱を画像で覚えたり、もしくは、ドラマやマンガなどで画像を明確化しても良いです。

いくつも画像でのイメージを得ていくと、資料集やドラマ・マンガでの画像がない歴史的出来事も、

自分なりのイメージをつくることができます。

 

このように、情報整理したり画像イメージをつけるのは「学習」の分野で行います。

「A」「B」という用語しかテストには出ませんがテストに出ない内容まで知っていることが

結果的に「A」「B」を覚えて、テストで点数とれることにつながります。

 

 

 

(4)「勉強」と「学習」のバランス配分がポイント

 

  • バランス配分と主軸

上記のケースでテストにおいて自分の理想とする結果が出せなくなったのは、

勉強」と「学習」のバランス配分が崩れたこと、主軸がぶれたことが大きな要因です。

この2つのバランス配分は1つではなく、目的によって、いくつかの配分があります。

 

 

 

 <主軸:テストで結果を出すだけのバランス配分>

「テストで結果を出す」という目的なら、勉強学習(高校レベルなら)、主軸は「勉強」にします。

そのらめ、「学習」をしても、「理解」「納得」できないものは、用語をそのまま覚える覚悟も必要です。

 

<主軸:自分の才能を伸ばすときのバランス配分>

「自分の才能を伸ばす(余暇の時間)」なら、配分は、勉強学習で。

どんなことでも興味ある、気になるところを徹底的に調べて楽しむ形。

学習力のおかげで、確実に実録が伸びますので、余暇の時間(自由時間)に「学習」に力を入れると、

いざ、勉強をするときに、その才能が発揮できます。

 

ただし、テストの1週間前~テスト当日だけは、1の「学習」主軸の配分(勉強:学習=7:3)のほうに思考・価値観をシフトさせます。

 

 

 

(5)学校や塾に関して、私が違和感を感じる理由

①違和感の正体

ここで「勉強」「学習」の配分ミス、主軸のブレがあるのが児童(小学生)、生徒(中学生・高校生)なら、

勉強をしていくうちに、自分の目的や思考に合うやり方をみつけていけば良いと思います。

 

 

問題なのは、子供(生徒)と「勉強」に関わる役割のある、かつ、強制力のある大人(学校、塾、家庭教師の先生など)が、

勉強」「学習」の配分ミス、主軸のブレがあるケースです。

 

そのお話を今からしていきたいと思いますが、あくまで個人的な考えなので

それをご了承していただけると助かります。

学校批判・塾批判のつもりはなく、

現在、学校や塾に合わない子が「自分がいけないんだ!」と自分を責めることを防ぎたいために

書いた内容です。

 

学習」できるか否かは才能によるものが大きいです。

ただ、そう言うと、「学習できるのは才能なのだから、放置しておけばよかろう」と思われる方もいらっしゃいます。

でもそれは私は違うと思います。

いくか素質・才能があるからといって、何でも最初からスラスラできるわけではありません。

ある程度の過去の人々が作ったものから学んだり、それを真似たり、分析したりして、だんだんと、その才能が開花していくのです。

ピアニストが過去の作曲家に作られたピアノの曲を何度もひくことで、

画家が過去の画家の絵を見たり、摸写をしたりすることで力をつけて、現代の芸術家として活躍していくように・・・。

 

 

芸術分野だけでなく、勉強内容の「学習」の才能も同じです。

 

 

勉強」を教える立場の大人が「勉強」つまり学校内でのテストで点数をとれて、

入試で合格できるようにすれば良いと思って行動すると、例えば、以下のような行動になりがちです、

 

ア:ひたすら100点満点をとれるようになるまで、何度も確認テストをやりつづけるのを強要する。

  そして、場合によっては100点をとれない生徒を努力不足と決めつけ、人格否定することも。

 

イ:「授業と関係ない質問をするな!」と質問する生徒を怒ったり、馬鹿にする。

  (その質問は、知識がある人から見たら、関連性があると思われる内容でも、テストには出ない内容のときもある。)

 

ウ:テストの点数や順位、志望校合格のみしか価値観を見いだせなくなる。

  必要以上に問題演習をさせて、テストで点数をとらないと人生が終わり、親に失望される、のような将来の不安感をあおる。

 

 

・・・・など。

 

 

 

  • 学校と塾の違い

 

<学校>

 

先述のように、「学校」は「勉強すること(勉強させること)」を目的とした機関だと思います。

極端なことを言ってしまうと、税金で成り立つ、公立の小学校・中学校の教育は、国力に関係することに国の税金を使うのだから、

強制力がある程度必要な「勉強」です。

「勉強」は「強要する」ことが要素の1つにあるのだから、「勉強」という用語になるとも考え、ることができます。

集団授業をするメリットは、同調圧力や周りとの差により競争的に「半強制的」に学べること。

「同調圧力」や「競争意識」は悪いことのように思われますが、

ほどよい負荷なら、かえって成長できることができます。

しかし、その「ほどよい負荷」をたもてず、かなりきつい「同調圧力」、例えば皆と同じことをできない子をいじめる、

かなりきつい「競争意識」、例えば1番でなければ生きてて意味が無い、順位が低い子はいじめる、

ということになってしまうこともあります。

 

しかし、「同調圧力」や「競争意識」そのものは、うまく活用すれば、「勉強」できる、良き相棒にも成りえます。

しかし、今の学校は、「みんなで話し合って、気になることを自ら調べよう」という指導方針です。

集団授業という場では、「自主性」を促した時点で、

「強要」となり、「自主性」は失われ、

「自主性」があるからこそ効果のある「学習」は、

ほぼ意味の無い、表面をさらっただけの学びに変化をします。

 

 

なぜなら、どうしても、まじめな生徒さんほど、

学校の先生への「ごきげんうかがい(ゴマすり、だけでなく、怒られないか?の不安感でのごきげんうかがいも含む)」が出てしまうから。

だから、今の学校での「集団での調べ物」の授業は、いつか破綻し、

10年後、20年後に、まだ日本が存在していれば、日本の学校制度は今とは全然価値観が違う教育機関になっているのかもしれません。

※集団の調べ物が悪いわけではないですが、このままの「やっただけ」な感じの授業のままでは破綻するかも?という意味です。

 

 

<塾>

塾は元々、学校とは直接関係のなり、の「学習」「」の場だったと思います。

自学習とは違い、指導者と、その指導者に学ぶ人(生徒)がいて、ある程度の強制力のある「学習」を塾は提供します。

その点では、学校同様、矛盾点がある、という見方もできます。

 

しかし、塾は学校と違い、「こういう人間になってほしい(こういう人材が国家には必要)」という形の教育ではなく、

自分はこういう人間になりたい(こういう知識やスキルを得たい)」という考えを持っている人が、

その目的に応じて、「自主的に行く」ところです。つまり、「学習」の側面が強かったのが塾でした。

江戸時代の「塾」を想像するとわかりやすいかもしれません。

学校の授業とは、必ずしもイコールになっていませんでした。

 

しかし、今はどうでしょう?

 

「学校の定期テストのため」「行きたい学校に合格するため」の、

学校ありきの、つまり「学校の下請け」機関のところになっている側面があります。

 

 

③学校と塾の立ち位置の変化

 

元々は

勉強の割合の方が高い→「学校

学習の割合の方が高い→「

・・・という立ち位置でした。

しかし、学校側が「学習」という名の強制を行うようになったことで、

学校が本来すべきであった「勉強」を塾が担うようになりました。

昔のように、

「学校の授業をきちんとまじめに聞いていたら、テストで点数をとれるし、志望校に受かるよ」という図式は難しくなり、

塾ありきの「勉強」が小学校・中学校の生活が今のスタンダードになってきました。

 

(6)学校と塾という集団指導・家庭教師という個別指導以外の選択肢

 

じゃあ、塾で「勉強」すれば良いじゃない!と思われるかもしれませんが、それで完全解決とは言えません。

学校は人口に応じて、必ず、日本全国にある機関に対して、塾は人口の多い都市部に集中しています。

家庭教師も同様です。また、塾や家庭教師には、学校と違い、全部、自費です。

 

 

また、人によっては、塾だろうが、家庭教師だろうが、他人とのコミュニケーションは必要で、

それだけに精神的体力を使ってしまうと、結果、勉強内容が頭に入らない子もいます。

 

塾や家庭教師の先生が必ずしも自分に合う指導をしてくれるとは限りません。

 

「集団に適応するのが正義」、あいまいな指示を出したのは先生側だけれど、

他の生徒さんが読める空気を読めなかった生徒さんいは、人格否定をする「危険な」先生もいます、

逆に、肯定ばかりする優しいだけで、生徒さんの力を上げてくれるわけではない先生もいます。

 

そのため、学校が合わないから「塾を」「家庭教師を」・・とできるワケではありません。先生探しで疲れてしまいます。

 

(7)本という選択肢とこの本の目指すところ

そこで、もう1人の、しかも、「安全」な先生の授業を受けられるツールがあります。それが「本」です。授業を受けているような感覚で本を読んで「勉強」し、自分で気になるところは、他の本で学習する形。

自分にこの本は合わない、と思えば、すっと本を閉じ、サヨナラすれば良いだけのこと。

作者には、学校や塾、家庭教師の先生と違い、辞めるときに何も言わなくて良いのです。

「学習」の小・中学生向けの本はたくさんあります、「勉強」の問題集もたくさんあります、

でも「勉強」の授業のような本は?・・というと、少ないです。

私なんかより、もっと優秀な人が、「勉強」の授業のような本を作ったほうが良いのでは?という不安がよぎることはあります。

でも、私自身が「小学生・中学生のころに欲しくてしょうがなかった本」を作成することで、

それで1人でも、私のように苦しい学校生活を送る人を、

そして、学校生活のトラウマで強迫性障害に苦しむような人を減らせたらいい、と思って、作成する決心をいたしました。

 

 

まずは、ブログで記事を書きながら、同人誌としての形をつくっていく予定です。

 

ご覧いただき、ありがとうございました。