社会科塾講師☆ブログ~しゃかりき!~

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歴史模擬授業(第19回 江戸時代中期)②-1

2010年11月28日 21時54分42秒 | 歴史☆模擬授業

今回は歴史模擬授業19回目、江戸時代中期です。(詳細は、前の記事をご覧ください)

この時代は高校入試ではよく出題されますが、私立中入試では出たりでなかったり微妙な範囲です。

(難関中学ではよく出ます。)

ではでは授業を始めます。

ーーーーーーーーーーー

「さて、今週は鎖国が完成し、平和な時代を行いましょう。」

「平和なのは良いよね。」

「そうね。平和が一番♪

ただ、平和になると、娯楽(ごらく:遊び)に使ったりして、ぜいたくな遊びを覚えるものだから

お金があってもあっても足りなくなる。

それで幕府は色々改革を行おうとするんだけど、なかなかうまくいかない。

でも、大きな事件や戦国時代のように生きるか死ぬかという瀬戸際な状態ではないので、

改革が成功したような失敗したのかよくわからないまま、だれか(おもに老中)の責任にして、

お上騒動をしながら、だらだら続いていくっていう感じ。

景気回復!でもすぐに結果でないから、責任とって老中やめろよ!という感じ。」

「あれ?なんか今と似てない?」

「似てるよね!

景気回復しろ!すぐにできないだと?!

じゃあ改革は失敗だろ!(もしくは、改革すぐできないのはリーダーシップがないんだ!)

総理大臣のせいだ!総理大臣やめろ!という繰り返しだよね。

でも、改革してもすぐになんか結果でないのにね。改革するにも時間がかかるし。」

「そうだよね。だいたい、3代かけてやっと新しい体制ができるのに。歴史を習うとそう思う。」

「まあ、そういう風にトップがころころ変わる時代ってのは

それだけまだまだ平和っちゃ平和なんだろうね、

今の日本しかり、この江戸時代中期の日本しかり。」

「そうだよね。安土桃山~江戸時代初期を見てると、

信長さんや家康さんのような厳しい独裁者がいないと世の中は成り立たなかったんだもんね。」

「ではでは、平和で改革の繰り返しの時代をみていきましょ。」

「はーい。」

 「まず、改革の前に、幕府の財政がだんだん赤字になっていく時代、

 5代目将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の時代からみていきましょう。

 まず、徳川綱吉は朱子学に基づいた政治をします。」

「朱子学って何?」

「朱子学は儒教(じゅきょう)という学問の一つ。

上のものに下の者が従うことで世の中の秩序が守られるぞ、という考え方。

朱子学の論理を使えば、

家でいえば一家の家長である父、幕府でいけば将軍に従いましょう、ということができるの。」

「ちょうど、平和な世の中を維持するのに朱子学は都合が良かったのね。」

「そうね。だから、綱吉だけでなく幕府は朱子学を重んじるようになったのよ。

あとでも朱子学は出てくるので覚えておいてね。」

「はーい。」

「この徳川綱吉がしたことは、全部が悪いわけではないんだけど、

入試で出てくる内容はたいがい悪いこと、馬鹿なことをした、という内容しか出てきません。

1つは、寺院の建設やぜいたくな生活をしすぎたために幕府の財政を赤字にしてしまいます。

財政が赤字っていうことは、幕府の持つお金が少なくなるってことです。

じゃあ、新たにお金をつくっちゃえば、そして

お金をつくるときにコスト(かかるお金)を減らすため貨幣の質を悪くすればいいじゃん

という風に考えたの。

でもさ、世の中にある食べ物や品物の量は変わらないんだから、

お金の量だけ多くしたら結局、1つ1つのものの値段があがるだけなんだよね。

だから、余計に人々の生活は苦しくなるんだよね。」

「そうだよね・・。」

「さらに、極端な、動物を保護するする命令である、生類憐みの令を出したの。

魚や鳥を食料として育てていけない、殺してはいけない、とくに犬は大切にしろ、とね。」

「それは、すごい命令だね。」

「動物を大切にするのは良いことだよね。でも、食べ物として食べてはいけない、

田畑を荒らす動物を殴ったりもできない、となると人々の日々の生活も苦しい。」

「不景気なうえにそれではね・・・。」

「口に入ってきた蚊を思わず呑み込んでしまっただけでも罪になったり。」

「もう、ぐっちゃぐちゃだね。」

「うん、だから、徳川綱吉に対して人々はすっごく不満を持ったらしいの。」

そりゃそうだ・・・。」

それで、徳川綱吉の治世の後に幕府は、綱吉が行ったことを直していくことになる。

生類憐みの令を廃止し、貨幣の質も戻して物価が安定するように努力するの。

また、金銀が外国に流れてしまうのをおさえるために長崎(出島)の貿易を制限したり

当時の貨幣は金銀で作られていたから。」

「そうだよね。」

「6代目の将軍がそれをやったの。」

「そうね。ただ、入試では6・7代目将軍の名は出てこないです。

6代目(家宣:いえのぶ)ははやくして病死、7代目(家継:いえつぐ)は病弱で子供だったので、

彼らの政治顧問であった儒学者の新井白石(あらいはくせき)という人物の名で入試は出ます。

新井白石が行った、さきほど述べた内容(貨幣の質を戻すなど)を行った政治のことを

正徳の治(しょうとくのち)と言います。」

 「へー。」

「そして、7代目将軍は跡継ぎをつくれないまま子供のうちに死んでしまう。」

「えー、じゃあ、次の将軍はどうなるの?」

「ほら、そこでこの前の内容を思い出してごらん。将軍の直系の子がいなかった場合・・。」

「あ、思い出した!徳川家の一族が治めている親藩(しんぱん)から、次の将軍を出すだよね!」

 「そういうこと!親藩は3つあったね。」

「水戸(茨城)・尾張(愛知)・紀伊(和歌山)だったね。」

「水戸にはちょうど良い年齢の人がいない、尾張と紀伊で争って、紀伊から将軍に出すことになったの。」

「ぼくの地元の尾張(愛知)は負けちゃったんだ・・。」

「紀伊から将軍になったのは、8代目将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)。

吉宗は、ずっと地方の紀伊に住んでいたでしょ。

そして、江戸の幕府の中に入ってみたら、みんながあたりまえのように、

ぜいたくをしほうだいだったのにびっくり!

なんじゃこりゃ!武士というのはそもそも質素・倹約をし、武術をたしなむ身分だろうが!

何、ぜいたくして遊びほうけている?!

初代の徳川家康が目指していた幕府の形に戻さねば!とね。」

「吉宗さんがびっくりするほどぜいたくな状態だったから、そりゃ幕府は赤字になるわけだね。」

「それで、徳川吉宗は改革を行います。

その改革を享保の改革と言います。

享保の改革では、

ぜいたくを禁じて、そのかわりに学問や武芸をするように質素・倹約をする生活に改めるようにさせたの。

さらに、能力のある武士を重要な職務に登用するな

ど実力を重視する体制にしたの。(足高の制:たしだかのせい)」

「そっか、そうすれば、ぜいたくを進める今までの人々から、

質素倹約を大切にする人に政治を任せられるもんね。 」

「そうね。それから、吉宗はよそから来たから江戸の庶民たちの気持ちはわからない。

じゃあ、それだったら、人々の意見をきいちゃえばいいじゃん!ということで、

庶民の要求や不満などの意見をきくために目安箱というものを設置します。

目安箱に、手紙(投書)を入れてね、という形。」

「庶民も大切にする人だったのね。」

「うん、だから吉宗は人気があったみたい。それで現代でも人気があるから、

吉宗を主人公とした時代劇だって作られたの。」

「へー。」

「あら、みんな知っていると思うよ。将軍という名がついたテレビドラマがあったでしょ。」

「あ、「暴れん坊将軍」!」

「そう。あれはもちろん創作の話なんだけど、それだけ庶民に身近な将軍だったという現れなんだよね。」

「そうなんだね。ぼく、あの番組好きで、よく再放送をみているよ。」

「史実とは違うけど、イメージをつけることは大切だから、積極的に時代劇を見るのは良いことだよ。」

「はーい。」

「他にも、吉宗は裁判の公正をはかるために、

公事方御定書(くじがたおさだめがき)というものを法令集をつくったりもした。

これで不公平がすこしでも減るでしょ。

日によってとか、裁判官によってとかで罰がかわることが少なくなるから。」

「いろいろやってるんだね。」

「他にも、新田開発をして、少しでも多くの田んぼをつくり、米を増やそうとしたりね。

米が安定して取れれば、幕府にさしだされる年貢も安定して、幕府の財政が強化されるから。

あと、大名に米を出すように命令したの。でも、それだけだと反発されるでしょ。

そこで、代わりに参勤交代は緩めたりした(上米の制)。」

「いろいろやったんだね。」

「このように、米に関する政策も多くやったから、吉宗は「米将軍」というあだ名がつきます。

入試で、「徳川吉宗は名将軍と呼ばれていましたか。」という問題で、「暴れん坊将軍」と書くとが

います(笑)が、入試では「米将軍」と書いてね。」

「はーい。」 

「享保の改革で、一時的に幕府の財政は立ち直ったんだけど、結局長くはつづかなかったの。」

「改革って難しいね。」

「そうね。」

 「それで、次にまた幕府の財政を良くしようした人物が現れる。

10代目将軍(家治:いえはる)のときの老中、田沼意次(たぬまおきつぐ)。

田沼意次は、幕府にお金がないなら、お金のあるところに協力してもらえばいいんじゃない?と考えます。」

「発想の転換なんだね。」

「お金をかせぐののが仕事なのが、商人でしょ。

だから田沼意次は商人の力を利用しようとするの。

商人たちがお金をかせぎやすいよう、長崎貿易の制限をゆるめたり

株仲間(かぶなかま)という同業組合を認めたりね。」

「同業者って、室町時代にならった座みたいなものね。」

「しかし幕府の中にはこのような商人と密接に結びついた政治を快くないと思っている人々もいてね。」

「え?なんで?」

「ほら、士農工商の中で、一番下の身分である「商(商人)によって、

幕府の財政が助けられているって

ことだから、特権階級の武士からしたら、

「あんな下々のの奴らに支えられるなんて恥!」と思う人も

いるわけよ。

それで、なんとか田沼意次を引きずり降ろせないかと考えているわけ。

そんなときにあることがおこるの。」

「なんだろう。」

 

「それまで優遇されていなかった商人たちが幕府に大切にされるでしょ。

そうすると、少しでも幕府に気にいられたい、といって、

田沼意次に「わいろ」を渡すようになってしまったの。」

「うーん。」

「わいろは悪いでしょ!

それで「わいろ政治」はいけない!田沼意次の責任だ!

彼がしたことは一部の人々だけに利益をもたらしただけ

だから、責任をとって老中をやめろ!とね。」

「うわー、足の引きずりあい。」

「老中をやめさせられた田沼意次。わいろ政治はゆるすわけにはいかないけど、

私はある意味、意次のやったことは時代がはやすぎたと思うの。

お金のある人からお金を拝借し、お金を必要とする人に貸して、

それで成功させて利益を生んで・・・という

形をとろうとした。これって、今の銀行制度でしょ。」

「あ、たしかに。」

「よく授業では、田沼はわるいやつ!汚い奴!とののしる先生が多いんだけど、

私は田沼意次は時代に合わなかっただけだと思う。わいろは許さないけど。」

「たしかにね。」

「さて、田沼意次のあとは、武士の威光をとりもどそう(武士のプライドをとりもどそう)とし、

あらたに老中となった松平定信(まつだいらのさだのぶ)が改革に乗り出します。

その改革を寛政の改革と言います。

松平定信は、武士プライドが強く、

また、おじいさんが大好きで憧れていて、おじいさんみたいになりたかった。」

「おじいちゃん子だったんだ。っておじいちゃんってだれ?」

「もう出てきているよ。ほら、定信も改革やったんでしょ。

ということはおじいさんも改革やったんだよ。」

「もしかして、徳川吉宗?享保の改革をやったあの米将軍。」

「そうなの!松平定信は、徳川吉宗の孫なの。

松平という苗字は、徳川の苗字を名乗れない、

徳川家一族(徳川を名乗れるのは、将軍と御三家) につけられるの。」

「へー。ということは、松平という苗字のクラスメートはもしかして・・」

「もしかしたらそうかもね。先祖は幕府につかえてました~とかあったりね(笑)。みんなじゃないだろうけど。」

「では話を戻すね。松平定信は、おじいさんのやった享保の改革と似たことをやります。

しかも締め付けがきつくなりね。

たとえば、ぜいたくを禁じて学問や武芸をすすめた。(倹約令)

 さらに学問は、朱子学だけ!他の学問は禁止するとね。(寛政異学の禁)」

「朱子学って上に従え、という学問ね。」

「定信は、田沼意次の商人と関係をもった政治は、

今まで幕府が築いてきた封建制や武士中心の政治を

壊しかねないと思い、幕府にとって都合のよい朱子学を大切にしたの。

また、旗本や御家人(2つとも将軍直属の家臣)の借金を帳消しにしたりね。」

「なんか、武士のための政治だよね。」

「しかも、朱子学しか認めない!商人には厳しく~という、政策をしたため、

評判が悪く

寛政の改革は失敗に終わります。」

「いったん、商人たちも優遇されていた時代があったからよけいに反発をかんじたんだろうね(予想)」

「この寛政の改革を批判した有名な歌が2つあるので紹介するね。

1つは、

世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶというて 夜もねられず

(世の中に、寛政の改革(蚊)ほどうるさいものはない。

ぶんぶ(文武:学問・武芸)をしろと言いまくられ、夜もねられんわ!)」

もう1つは

白河の 清きに魚の すみかねて もとのにごりの 田沼こいしき

(白河(定信を指す。定信は元白河藩主(福島))がする政治は、

きれいすぎる川に魚がすまないのと一緒で

理想ばっかりのきれいごとしかいわないので、息苦しいわ。

わいろ政治をしていたにごっている田沼意次の時代が恋しいわ)とね。」

「なんかすごく松平定信はきらわれていたんだね。」

「田沼のときも風刺した歌はあったので、どっちもどっちだったんだろうけどね。

ただ、やはり理想主義をみんなに押しつけるのは息苦しいよね。」

「先生でも、毎日勉強し、まんがやテレビはみるな!

ミスもなく、よい子でいないさい、泣き言をいう暇があれば勉強しないさい、と

理想ばっかり言う人がいて、息が詰まることってあるもん。言っていることは正しいんだけど・・。」

「そうだよね、先生が言うやり方ができれば苦労しないっての!」

「そうだよね。たしかに勉強はしたに越したことはないし、

テスト前などの逃げちゃだめな時っていうのはある。

でも、そうじゃないときは弱音をはいたり、遊びだってしないとね。

小さいとき(学生のとき)しか楽しめないものだってたくさんあるんだから。」

「そうだよね。」

「ではでは、今日はここまで。もう1つ改革はあるんだけど、これは幕末でやるね。」

「はーい。」

「ではでは、終わります。起立!礼」

「ありがとうございました!」

ーーーーーーーーー

 

わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを
引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。
不快な気持ちになった方には申し訳ありません。


歴史模擬授業(第19回 江戸時代中期)①

2010年11月28日 21時54分00秒 | 歴史☆模擬授業

なかなか更新ができず、予定がどんどん遅くなってしまい、申し訳ありません。

今回は歴史模擬授業の江戸時代中期です。

江戸時代は長いので前期・中期・後期の3つに分けます。

文字数の関係で(10000字以上を超えるとPC動作が鈍くなる)

さらに細かくに分けてアップしたいと思います。


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「歴史模擬授業」という記事を数か月に数回更新していきたいと思います。

これは実際の授業形式を文字であらわしていこうというものです。

劇の台本みたいな感じになると思います。 定期的に内要がまとまったら、
HP「しゃかしゃか★ぶりっじ」にて改定してアップする予定です。

読むときに、 →先生、 →生徒その1(ひなちゃん)、 →生徒その2(はむちゃん)、→生徒その3(ねこちゃん) だとだと思って読んでください。

(みんな、びっくりするぐらいいい子ですが、そこはご勘弁を・・)

また、設定は、私立中学入試をひかえた小5の授業(塾)だと思ってください。


今回は文字数が最大数を超えてしまいそうなので、もう一つ記事を作ってアップさせていただきます。

わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを
引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。
不快な気持ちになった方には申し訳ありません。


インド史・東南アジア史

2010年11月24日 17時31分15秒 | 教育者としてのつぶやき
今日から期末テスト対策授業が始まるので、色々勉強しています。

今回の世界史は古代インドや東南アジアです。
この地域はあまり詳しくないので、じっくり勉強していますが、やはり色々な地域の歴史を勉強するのは楽しいです。
それに他人の手垢がついていないから、遠慮なく勉強できます。古代ローマとか日本史って好きな人が多いので、コンプレックスを抱きながら教科書を読むことがあるけれど、インド史・東南アジア史を好きな知り合いはいない(あえて言えば、インド神話に詳しい旦那はいるが・・)ので、私だけのインド東南アジアと思って接することができます
ガンダーラ美術様式やグプタ美術様式などは興味をそそられます。
また、ベトナムには行ったことがあるので、ベトナム史はさらに想像がしやすいです。

歴史模擬授業(第18回 江戸時代初期)②-2

2010年11月21日 14時22分13秒 | 歴史☆模擬授業
今回は歴史模擬授業18回目、江戸時代初期の続きです。(詳細は、昨日の記事をご覧ください)

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「さて、今回は江戸初期の外交をみていきましょう!」

「はい!」

「ここで復習をば。安土・桃山時代に行っていた貿易って・・・。」

「南蛮貿易だったよね。スペイン人やポルトガル人と貿易していたんだよね。」

「そうそう。じゃあ、そのスペイン人が伝えたものを1つ。」

「キリスト教だったね。」

「そうなの。

織田信長が、旧来の仏教勢力を抑えるためにキリスト教を保護していたという話はしたよね。

しかし、秀吉は途中まではキリスト教を大切にはしていたんだけど、途中から対応がかわるの。」

「えー、なんで?」

「色々な説はあるけど、ここでは2つの説を説明するね。

1つは、キリスト教信者がどんどん増えていったので、

キリスト教徒の力をおそれてキリスト教を禁止するようになった、というもの。

これじゃあ、反乱を起こす可能性のある信者が一向宗からキリスト教にかわっただけじゃん!と。」

「たしかに・・・。」

「もう1つの説は、イエズス会の伝えたキリスト教のシステムの問題。

イエズス会が伝えたキリスト教の宗派はカトリックという宗派なんだけど、

これは、ローマ法王を頂点とする宗派だった。

・・ということは、日本人のキリスト教(カトリック)信者は、

秀吉や天皇にでなく、遠い外国にいるローマ法王に従うことになっちゃうでしょ。」

「あ・・そうすると、信者が一致団結して秀吉に従わなくなったら大変だね。」

「そうなのよ。それで、豊臣秀吉の政権を引き継いだ徳川氏の江戸幕府も同じ気持ちで、

だんだんとキリスト教に対する対応が厳しくなっていくの、

キリスト教の宣教師や信者をきびしく取り締まったり、

外国船の来航を禁じ、海外にいる日本人の帰国も禁止したりしたの。」

「えー、じゃあ、帰れなくなった日本人もいるんじゃないの?」

「うん、多くいたそうよ。

正しいことをしている信じ外国に行って日本に知識や良い物を持ち帰ろう思ってたのに・・、という

悲しい思いをした人はいたそうで、その人たちはほとんど現地(外国)にとどまり亡くなった。」

「そうなんだ・・・。」

「では、国内に話を戻すね。

そういうキリスト教への弾圧に対し、ついにキリスト教信者が爆発するの!」

「そうだよね。今まで信じていいよ!と言っていたのが禁止されるんだもんね。」

「爆発したのは、江戸幕府3代将軍徳川家光のとき。

1637年、場所は島原(長崎県)・天草(熊本)。

領主のきびしい年貢の取り立てとキリスト教の弾圧に反抗して、天草四郎を大将にして、

多くのキリスト教徒が一揆をおこしたの。それを、島原の乱(島原・天草一揆)と言います。」

「乱という名称がついているってことは・・・島原の乱は失敗におわったのかな?」

「うん。キリスト教徒たちが負けた。

島原の乱のあと、江戸幕府はさらに厳しい対応になり、

キリスト教の禁止をいっそう強めるの。」

「3代将軍徳川家光って、前回習った参勤交代を定めたり慶安のお触書を定めたり、

色々と厳しい政策をしていった人なんだね。」

「そうね。平和な社会を完成させるために、色々と厳しいことをしていった将軍ね。」

「そうなんだね。」

 

「さらに、徳川家光の時代に、オランダの商館(取引のための現地におく営業所)を長崎の平戸から、

人口の埋めたて地の出島にうつし、そこ以外で貿易ができないようにさせるの。

出島は長崎にあります。

それで、外国と交流をもたない鎖国という状態が完成します。」

「鎖国という言葉は聞いたことがあるよ。」

「鎖国ではね、

出島での貿易は幕府が管轄し、他の地方の大名たちが自由勝手に外国人と交流を

もてなくさせたの。

つまり、日本国内から隔離された島でしか、外国人は日本と交易できないようにして、

日本に外国の余分な情報や、もちろんキリスト教も入ってこない形になった。

しかも、大名たちが外国と自由に交流できないから、外国人から武器を調達できないし、

海沿いの藩の大名たちが貿易でお金をかせがないようにさせることにも成功した。」

「参勤交代の制度も、大名の経済力を弱めるためだったから、

完全に、外国とシャットダウンさせて大名に経済力をつけさせないようにしたんだね。」

「このように、外国との交流を完全にシャットダウンした鎖国状態の日本。

でも、2つの国だけ日本と貿易をすることを許された国があったの。

その2つの国とは、中国(清と、オランダ。この2つはよく入試で聞かれるので確実に覚えましょう。」

「中国は明から清という王朝にかわったんだね。」

「そうね。清は、日本がいつも模範としていた中国だし、今まででもよく交易していたから納得がいくでしょう。」

「オランダは?ヨーロッパの国だよね?キリスト教の国だよね。」

「オランダは、イエズス会が伝えた、ローマ法王を頂点とするカトリックの国ではなくて、

聖書を第一とするプロテスタントの国だったのでその点も都合がよかった。

さらにオランダは、キリスト教は広めないから、という約束もしてくれたから。」

「純粋に、日本と貿易をしてくれるってことだね。」

「そういうこと。日本からしても、ヨーロッパのことを何もしらないまま過ごしていくのは怖い。

だから、オランダと関係を持つことで、世界の情報を得よう、ということなのよね。

あまり入試にはでないんだけど、ときどき愛知県の私立中入試で

聞かれるので覚えておくと良いものに

オランダ風説書(阿蘭陀風説書)というものがあるの。

これは、鎖国の時代に

オランダ船が幕府に提出した海外情報書よ。」

「鎖国でも日本は外国の情報は得ようとしていたのね。」

「アジアの中心の中国と、ヨーロッパのオランダと交流すれば、ある程度の世界の可能だもんね。」

「そういうこと。」

「この鎖国は200年続いたの。平和な時代が約200年(幕末は除く)。

だから日本独特の文化の文化が発展するの。

しかし、その間に、ヨーロッパでは革命がおこりめざましい発展をとげ、

次々と領土を獲得し、世界の頂点にたっていくんだけど、その間、日本は世界から取り残される結果に。

しかし、そのおかげで、日本は体力を温存し、明治時代に大きく世界の中心に入り込んでいく。」

「何事も、これからどうなるかわからないものんだね。」

 

「そうね。これが、キリスト教および鎖国の話だったけど、

ヨーロッパ以外の国々との交流も話すね。」

「はーい。」

「1つは、朝鮮と。豊臣秀吉の朝鮮出兵のあと、日本と朝鮮は国交を断絶していたの。」

「そりゃ、そうだよね・・。すぐに仲良くしましょ、というのは無理だよね。」

「江戸幕府に変わったって、なかなか難しい。

しかし、対馬藩(長崎)という九州と朝鮮の間にある島の藩が

仲立ちをしてくれて、徳川家康のときに国交が回復するの。

そのあとで、江戸幕府の将軍が代わるごとに、

朝鮮からは、朝鮮通信使とよばれる使節が江戸におとずれてくるようになった。

朝鮮通信使は高校入試ではあまり出ないんだけど、

私立中入試ではよく聞かれ、得点ポイントだから

私立中受験者の子はよく覚えておきましょうね。」

「はーい。」

 

「あと、東南アジアとの貿易。」

「東南アジアって、フィリピンやインドネシア、ベトナム、タイなどがある地域だよね。」

「そうそう。東南アジアとの貿易は、豊臣秀吉の時代にはじまり、徳川家康の時代にさかんになるの。

そのような貿易を朱印船貿易というので覚えましょう。」

「貿易相手によって貿易名が違うんだね。」

「そうそう、よくごっちゃになる人が多いから、気をつけてね。安土~江戸初期の、

ヨーロッパとの貿易⇒南蛮貿易、東南アジアとの貿易⇒朱印船貿易、だから。」

「はーい。」

「朱印船貿易の結果、東南アジアに移り住む日本人も現れ、

日本町というののが東南アジアの各国にできたの。」

「へー。」

「中には、シャム(タイ)の王様に仕えるような日本人もいてね、山田長政(やまだながまさ)という男性。」

「すごいね。」

「以上ね。あと、私立中入試ではちょこちょこでるので、もう1つだけつけくわえ。

徳川家康は、幕府の経済力を強めるために、外国人を外交の相談役においたそうなの。

その相談役の2人を覚えておくとよいわよ。

オランダのヤン=ヨステン、と、

イギリスのウィリアム=アダムス(日本名は、三浦按針:みうらあんじん)。

雑学だけど、東京駅の新幹線側南出口を八重洲口(やえすぐち)というだけど、

八重洲はヤン=ヨーステンという名前からとったそうよ。」

「へー。」

「じゃあ、話が前後することがおおかったから、今回は簡単にまとめるね。

 

<ヨーロッパに対しての外交>

織田信長:南蛮貿易・キリスト教の保護

 ↓

豊臣秀吉:途中からキリスト教に対して厳しくなる

 ↓

江戸時代

徳川家康:キリスト教徒の弾圧をおこない始める(1612年~)

~徳川家光:島原の乱・鎖国の完成

 

<朝鮮に対して>

豊臣秀吉:朝鮮出兵⇒国交断絶

徳川家康:朝鮮通信使が始まる

 

<東南アジアに対して>

豊臣秀吉~徳川家康(江戸初期):朱印船貿易

ということね。」

「どの地域に対してかを考えながら覚えると良いのね。」

「そうね。では、次は鎖国が始まり、平和になった日本の状態をみていきましょう。」

「はーい!」

「ではでは、終わります。起立・礼。」

ーーーーーーーーーーー

おわり。

 わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを
引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。
不快な気持ちになった方には申し訳ありません。

 


歴史模擬授業(第18回 江戸時代初期)②-1(2014年改訂)

2010年11月20日 13時28分08秒 | 歴史☆模擬授業

重要なお知らせ〈p〉

 

この元記事を書いた時点で、現在の教科書での記述と異なる点がありましたので、

2014年9月に訂正させて頂きました。(士農工商・慶安のお触書、という言葉を削除し、文章を変えました。)

 

記事作成から5年ほど経ち、教科書も改訂されたり、歴史での新しい発見(訂正)などがあるため、

このような事態がおきてしまい、申し訳ありませんでした。

 

他の記事も順次、確認をして訂正すべきと判断したものは訂正されて頂きます。

(ただ、育児中と精神的に現在不安定な部分があるため、時間はかかるかもしれません。)

 

ーーーーーーーーーーーー

 〈p〉 今回は歴史模擬授業18回目、江戸時代初期です。(詳細は、前の記事をご覧ください)

ーーーーーーーーーーーーーーー

「さて、今日からは江戸時代。江戸時代は長いので、3つに分けて覚えましょう!」

「はい!」

「江戸幕府の成立から鎖国の完成までを初期、

     4代将軍(5代将軍)~寛政の改革あたり&文化を中期、

     大塩平八郎の乱・異国船打払令~江戸幕府の滅亡までを後期(幕末)としましょう。」

「はーい。」

「では今日は、江戸幕府の成立までやるね。」

[この前は、豊臣秀吉の時代までだったね。」

「そうね。2回目の朝鮮出兵中に豊臣秀吉は病死しちゃうんだ。」

「え?そうなると、次はだれが秀吉の跡を継ぐの?秀吉の子供?」

「子供はいたんだけど、まだ子供だったから、秀吉は亡くなる直前に、

自分の部下に子供が大きくなるまで、かわりに政治をしてくれ、と言ったの。」

「そうなんだ。」

「その部下のトップが、徳川家康でね。5人で力を合わせてがんばろうという話だったのに、

家康1人で勝手に政治をするようになった。」

「うわー、じゃあ、他の4人はそれで文句を言わなかったの?」

「もちろん、言うさ。秀吉の意志を継がぬ独裁者の家康め!とね。

それで家康の政治に不満を持つ人たちと家康が対立するようになり、

ついに戦争がおこった。」

「うわー。」

「それが、天下分け目の戦いである、関ヶ原の合戦1600年)。」

「関ヶ原の合戦って聞いたことがある!」

「おそらく、一番有名な戦いかもしれないね。

 関ヶ原の戦いで徳川家康の軍(東軍)は、

豊臣氏をもりたてようとした石田三成たち(西軍)を負かすの。」

「つまり、秀吉の意志を継がなかった家康が勝ったということだから、天下は家康のものになるのね。」

「じゃあ、秀吉の子供はどうなったの?」

「まだ生きてるよ。おそらく当時の人々は、自分の部下の地位争いをしているだけで、

秀吉の子供が大人になったら家康は政権を返すだろうと思っていたんだ。」

「そうなったの?」

「それが、家康は1603年に、徳川家康征夷大将軍に任命され江戸幕府を開く。

さらに、すぐに自分の息子である徳川秀忠に将軍職を譲っちゃうの。それって何を意味するかわかる?」

「?」

「自分の血のつながった子に将軍職を継がせるってことは、

 そのあと、征夷大将軍につくのは永遠に徳川一族だって

ことを示すわけよ。

豊臣秀吉の子が大人になったときに、その子に譲らない!ということに。」

「うわ、それじゃあ、豊臣家はどうなっちゃうの。」

「そのあとで、徳川家康は豊臣家を滅ぼすの。1615年に大阪城を攻めて。

そのことを、大阪冬の陣・大阪夏の陣と言うの。」

「2回に分けて行われたんだね。」

「冬の方が最初なので、順番を気をつけてね。この大阪の冬&夏の陣はあまり入試では用語そのものは

でないんだけど、正誤問題などで出たりするので一応覚えておきましょう。」

「はい!」

 「さて、では、1603年に徳川家康は、東京に江戸幕府を開いたので、

江戸幕府の仕組みを見ていきましょう。

徳川家康(その後を継いだ子孫の将軍たち)は

再び戦国時代のような内乱状態(戦争状態)がおこらないように、

豊臣秀吉以上に徹底的に政治改革をしていくの。3代かけて平和な国日本をつくっていくのよ。」

「3代かけて、つくっていくとしっかりした基盤ができるって前に習ったものね。」

「さて、再び内乱がおきないようにするためには秀吉はどうしたんだっけ?」

「刀狩をして、兵農分離をしたよね。」

「そうそう。農民と武士の身分を分けたね。

江戸幕府も、同じように身分を分けたの。

武士・百姓(ひゃくしょう)・町人、という身分制をね。

この時代は、身分によって住む場所・就く職業がほぼ決められていた、と思ってね。」

「今は、身分もないけど、住む場所や職業も自分で選べるものね(希望が叶うかは別だけど)。

江戸時代は、生まれた瞬間に、ある程度の未来が決まっていたんだ(もちろん、例外はあります。)。」

 

「では、武士・百姓・町人のそれぞれの暮らしはどうだったか?をそれぞれ見ていきましょう。

まずは、百姓から。

百姓(厳密に言うと違う点はあるが、百姓はいわゆる農民のこと)

は村に住んで農業を行います。そして、年貢を出すことになっていました。

さらに五人組という、5つの家(5戸)を1組にして、年貢や犯罪について共同責任を負わせたりね。」

「どういうことなのかな?」

「たとえば、A・B・C・D・Gという家で1つの組だとすると、その中の1人のBが犯罪を犯したら、

のこりのA・C・D・Gも、Bの犯罪を止められなかったから共同責任だ!と言って罰せられるの。」

「ええええー。」

「なぜそうやったかというと、共同責任をとらせることで、お互いに悪さしないように見張るように

なるからね。結果的に、誰も幕府に反乱おこしたりしなくなるし、年貢もしっかり入ってくるでしょ。」

「たしかに・・・。」

「次は町人。町人は、町に住んでました。

町人は、お店で物を売ったりする商人や、大工などのモノを作る職人などで構成されています。」

「ほえー。」

「残る武士について。

武士は高い身分とされました。

そして、政治関係(治安維持や行政・裁判)を行いました。」

「現代とはちょっと違うけど、

 農民が百姓、会社の社長やサラリーマンや職人さんが町人、政治家が武士、ということね。」

「そうね。まあ、今は、身分差別も昔よりはないし、

どの職業にも自分の努力と運次第で就ける可能性はある、という

違いはあるけれどね(職業によっては、希望をしても就けない職業もありますが・・)

「では、次は武士の身分のトップたちのことを見ていきましょう。

まずは中央機関のこと。

幕府のトップはもちろん征夷大将軍(将軍)。こちらは徳川一族が継ぐと決まっていたの。」

「そうだよね。だから家康はいち早く息子に将軍職を譲ったんだものね。」

「これは自分の一族が天下を握るという意図だけでなく、内乱を防ぐ意味合いもあるのよ。」

「そうなの?」

「ほら、今までの歴史をよく思い出してごらん。内乱ってどういうことがきっかけでおこったの?

たとえば、壬申の乱とか応仁の乱とか。」

「壬申の乱は天智天皇の死後に大海人皇子と大友皇子のどちらが天皇になるかの後継者争いだったね。」

「応仁の乱は、管領の跡継ぎ争いを発端として、いろいろな跡継ぎ争いなどがあいまっておこって・・・。」

「あ!わかった!内乱の元は後継者争いだから、あらかじめ誰が後継者になるかを

はっきりさせておけば反乱はおこらないんだ!」

「そういうこと!」

「でもさ、もし将軍が子供ができなかったらどうなるの?

またお兄さんより弟の方が優秀だったら弟が継ぐの?」

「そう思うよね!家康はそれも徹底させたの。

まずは、能力の有無にかかわらず絶対に長男が継ぐ。

そして、万が一、将軍の直系の子供がいなくなれば、

あらかじめ決めておいた順番で徳川一族から将軍職を出すようにしたの。

徳川氏一族とは、水戸の大名家、尾張の大名家、紀伊の大名家で、

将軍職に就くのにちょうどよい男性が水戸にいなけりゃ尾張、尾張にいなきゃ紀伊から出すとしたの。」

「すっごい徹底ぶり!」

「実際に、それで将軍になった人物が、中期・後期で出てくるので楽しみにしててね。」

「尾張って愛知だよね?!愛知って徳川一族だったんだ・・・あ、だから

大曽根駅近くに、徳川美術県っていうのがあるの?」

「そうなの。家康所蔵のものや尾張徳川家の宝物がたくさん所蔵されていて、

おそらく愛知県の中で一番常設展が充実している美術館よ。」

「ほえー、今度行ってみよう!」

 

「では、次。将軍の補佐をするのが老中。老中は数人いるの。

それで、もし緊急事態になったときに老中内で意見がわかれてなかなか決められないといけないから、

臨時で大老(1人が受け持つ)という役職が出現し、その大老が取り決めるの。」

「そうだよね。外国に攻められているときに、会議している場合じゃないもんね。」

「ちなみに君たちはこれから習う老中はこれから何人か出てくるんだけど大老は幕末で1人だけだよん。」

あとは、史料に色々と役職(機関)が出てくるけど、京都所司代を除けばほとんど聞かれない。」

京都所司代は鎌倉の六波羅探題のようなものね。

江戸幕府は東京にあるから、京都の朝廷は監視しておかないとね。」

「じゃあ、将軍・老中・京都所司代以外は覚えなくてよいですか?」

「覚えるに越したことはないけどね・・。

まあ、よくきかれるのは、この中で江戸時代のものは何か?という問題で。だから、鎌倉・室町の役職を

全部覚えていれば、覚えていないのが江戸と予想しても良いしね。」

「予想して考えて解くんだね。」

「そういうこと。社会って丸暗記で覚えてないとできない、と思う人も多いんだけど、予想して考えて解くもの

もおおいので、、思考力も必要な科目なんだよね。」

「そうだよね~♪」

「では次は、地方をどのようにわけて地方のトップたちをどうしたか、を見ましょう。

まずは、幕府直属の領地を設定する。その領地を天領(てんりょう)と言います。

天領になったのはは、重要な都市や港、鉱山がたくさんある地域。」

「つまり、幕府以外の人たちがそのような重要な場所を持っていると、

お金などを稼いだりして幕府より強い力を持つ可能性があるから、

大切な場所は幕府のものにしたんだね。」

「お!よくわかってるね!」

 「えへへ。」

「そして、将軍から1万石以上(1石:1人が1年で食べる米の量)の領地を与えらた武士を大名と呼び、

その大名が治める領地(およにしくみ)をというの。

さらに、その大名を内容で3つに分ける。

1つは、徳川一族で場合によっては将軍職も選出する、親藩(しんぱん)。」

「あ、さっき言ってた、水戸・尾張・紀伊のこと?」

「そうそう。ちなみに水戸(茨城)、尾張(愛知)、紀伊(和歌山)を総称して御三家(ごさんけ)と言います。

時々、親藩の地域はどこか、と聞かれるので覚えておいてね。」

「はーい。」

「あと、2つは譜代大名(ふだいだいみょう)と外様大名(とざまだいみょう)。

この2つは明確な違いがある。」

「何だろう?」

「譜代大名がおかれたのは、幕府のある江戸の近くや重要な地方で、外様大名は江戸から遠いへき地に。」

「譜代大名のほうが良いところにおかれてるね。」

「なんで、なんだろう。」

 

「これは譜代大名の方が信用できるってことだよね。つまり、信用できるかそうでないか、とはどこで決まるのか?」

「うーん。」

「ヒントは1600年天下分け目の戦い!」

「あ・・関ヶ原の戦い!」

「そう。関ヶ原の戦い以前から徳川氏の味方だった人って信用できるんじゃないかな?

だって、当時は豊臣方が中心だったのだし、徳川氏が勝てるとはわからなかったから、

そのころから徳川氏についてくれるのは信用に値するはず。」

「そうだよね!ということは、譜代大名が、関ヶ原の戦い以前から徳川氏の味方だった一族ってこと?」

「うん、そういうこと。」

「逆に、外様大名は関ヶ原の戦い以降から徳川氏の味方になった一族ってことだね。」

「そうそう。この譜代大名と外様大名の違いはよく記述で聞かれるので、よく覚えておいてね。」

「関ヶ原の戦い以前から徳川氏の味方だったか、そうでないか、ということね。」

 「そうね。では、大名たちのきまりをみましょう。」

「きまりも出来たんだね。」

「そのきまりは、2代将軍の徳川秀忠のときにできた。

きまりの名は、武家諸法度(ぶけしょはっと)。

かなり大名に厳しいきまりで、もし武家諸法度に従わなかったら、その大名から領地を取り上げたりも。」

「うわー厳しい。」

「たとえば、どんなきまりがあったの?」

「城を勝手に改修しちゃならん!勝手に結婚するな!どっちも幕府の許可を得ろ!とか」

「えー、なんで?」

「だって、城を勝手に補強したり、戦争するために大きくしたりしたら困るでしょ。

結婚だって、婚姻関係を結ぶことで軍事同盟が結ばれたり、徳川氏の脅威となる一族が誕生したり

することだってあるわけで。」

「ほんとうにすごい徹底ぶりだ!徳川氏による政治で内乱をおこさないようにするんだね。」

「この武家諸法度は、将軍がわかるごとに改正していくんだ。

それで、3代将軍の徳川家光のときに

さらに、新しい制度が武家諸法度に組み込まれる。

それが参勤交代という制度でね。」

「また厳しい制度なんだろうなぁ。」

「うん、厳しい。

大名の妻と子は人質にして江戸に住まわせて、

大名自身は1年ごとに江戸と自分の領地に行き来する、というもので。」

「家族を人質?!つまり、それって、将軍(幕府)の言うことを従わなかったら、家族がどうなっても

しらんぞ!というおそろしい脅しだよね。」

「そうなのよ。さらになぜ、大名は1年ごとに江戸と領地に住むようにさせたかの理由がよく入試で聞かれるの。」

「理由?」

「行き来するだけでお金がかかるでしょ。移動する際の移動費・食事代・宿代など。」

「たしかに・・。」

「だから、参勤交代を定めた理由は、「大名の経済力を弱めるため」です。

お金が旅費で多く使われるから、幕府に反乱するための武器を買ったりできないだろ、ということ。」

「しかも人質がいるから、言うこときくしかないもんね。」

「すっごく厳しいけど、それで反乱はおこらなくなったから、江戸時代は長く平和が続くことになるの。」

「多くを望まなければ、平和で暮らせるってことだもんね。」

「平和な世の中をつくるには・・ということを色々と考えさせられるね。」

「そういうことね。難しいわね。」

「では、次は鎖国をば。」

ーーーーーーーーー

続く。

 

 

 

 

 

 

 


歴史模擬授業(第18回 江戸時代)①

2010年11月20日 13時25分23秒 | 歴史☆模擬授業

今回は歴史模擬授業の江戸時代です。

江戸時代は長いので前期・中期・後期の3つに分けます。

文字数の関係で(10000字以上を超えるとPC動作が鈍くなる)

さらに細かくに分けてアップしたいと思います。


ーーーーーーーーーーーー




「歴史模擬授業」という記事を数か月に数回更新していきたいと思います。

これは実際の授業形式を文字であらわしていこうというものです。

劇の台本みたいな感じになると思います。 定期的に内要がまとまったら、
HP「しゃかしゃか★ぶりっじ」にて改定してアップする予定です。

読むときに、 →先生、 →生徒その1(ひなちゃん)、 →生徒その2(はむちゃん)、→生徒その3(ねこちゃん) だとだと思って読んでください。

(みんな、びっくりするぐらいいい子ですが、そこはご勘弁を・・)

また、設定は、私立中学入試をひかえた小5の授業(塾)だと思ってください。


今回は文字数が最大数を超えてしまいそうなので、もう一つ記事を作ってアップさせていただきます。

わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを
引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。
不快な気持ちになった方には申し訳ありません。


歴史模擬授業(第17回 安土・桃山時代)③ 史料

2010年11月18日 22時45分42秒 | 歴史☆模擬授業

安土・桃山時代の史料を歴史冊子を作るにあたって、もう1点作成しましたのアップさせて頂きます。

こうするとわかりやすいかな~と思い、自分なりにまとめたものです。

あと、鎌倉時代までは用語のまとめページも作成していましたが、

もしおきゃくさまが勉強する際は、

学校でのノートや塾のテキストや市販の参考書などにまとめページはあるので、

時間の関係で、今は必要最低限できることだけにさせて頂きました。(こちらの都合で申し訳ありません。)


京都に行ってきました!

2010年11月18日 22時41分38秒 | 近況報告

昨日・おとといは更新できずに申し訳ありませんでした。

実は、おとといは、京都に行っていました。(ちょうど、仕事が昼間になかったのでよかったです♪)

京都の某大学(超難関大)さんの能楽部さんが、

私のHP「のうてんきNEO」のイラストをサブパンフレットに

ご使用して頂いたので、その能楽部さんたちが開催されている会を観にいかせて頂きました。

能楽部さん、三回目のイラストのご使用ありがとうございます!本当にうれしいです。

このように、自分のイラストが、能楽の解説のお役に立てるのって、「生きててよかった!」と

ほんとに思います。

 

会場で、サブパンフを読んでいるお客さんを見かけると、

「この絵、私が描いたの!」と言いたくなりました(笑)。

聞き間違いかもしれませんし、他のイラストをさしていたのかもしれませんが、

40~50代ぐらいのお客さんの1人が、私のイラストが描かれているページを見ながら、

「このイラストかわいい。」と言ってたのが聞こえて、天にも昇る気持ちでした。

 

10年前までは自分のイラストが、他の方のお役にたてるなんて思いもしませんでした。

今、意味があるのかな?と思う行為や努力、

自分なんてそんなことできる価値がないと不安に思っていることでも、

それでもいつかは誰かのためになるかもしれない、

と思ってあきらめずに頑張りたいと思います。

 

 

 


歴史模擬授業(第17回 安土・桃山時代)②-3

2010年11月14日 08時03分42秒 | 歴史☆模擬授業

今回は昨日に引き続いて

歴史模擬授業17回目、安土・桃山時代の続きです。(詳細は、おとといの記事をご覧ください)

戦国~安土・桃山時代は好きな方が多いので

「実際はちがう!」とか「この人はもっと素晴らしい人で・・・」などと

思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、これは数多くある1つの話なんだ、

と思って頂けると幸いです。

ではでは、安土・桃山時代の授業の続きを行います。

ーーーーーーーーーーー

「では、織田信長の意志を継いだ豊臣秀吉のお話。」

「信長の意志って、戦争(内乱)をなくして強い日本に~、ということなのかな?」

「そうね。それを達成するには、全国統一が必須条件だった。

      信長によって、ほぼ全国統一は完成しつつあったんだけど、まだまだ反対する勢力もいてね。」

「そうだよね・・。信長のときもそうだったんだから・・。」

「秀吉は山崎の戦いで明智光秀を倒した後で、着々と全国統一をなしとげていって、

 ついに1590年に小田原(神奈川)の北条氏を滅ぼして、全国統一を果たしたの。」

「全国統一を果たしたのは、豊臣秀吉なんだね。」

「そうなの。この全国統一を果たす間に、秀吉は大阪城を築いているの。

   この大阪城は、石山本願寺(いしやまほんがんじ)の跡につくったんだ。」

「ん?石山本願寺って何?」

「一向宗の総本山の寺なの。」

「あの、一向一揆の一向宗ね。」

「その石山本願寺の跡に大阪城をたてて、秀吉は天下統一を成し遂げていったの。

     1585年には関白、その翌年には太政大臣になったの。」

「あれ?関白とか太政大臣って朝廷側のものだったよね。なんで、武士側のトップの将軍じゃないの?」

「これは秀吉の出身が武士ではなく、バリバリの農民であったことが大きいみたい。

      武士の一族ではないので、将軍にはなれなかったから、かわりに・・ということみたい。」

「今みたいに、どんな身分でも総理大臣になれる時代ではなく、

    下剋上の実力主義の時代とは言え、出身が関係するとは・・。」

「ちなみに、秀吉は関白を養子に譲ったあとで自らを太閤(たいこう:太政大臣の別称)と名乗ったそうよ。」

「太閤って聞いたことある!名古屋駅の裏、新幹線口のことを太閤通り口っていうよね!」

「そう!あの太閤通り口の太閤はそこからとったんだろうね。

    秀吉の出身地の中村区側に裏口はあるからね。」

「ほえー。(愛知県名古屋市の)中村区出身なんだ、秀吉さんは・・・。」

「実際に、中村区にある中村公園に秀吉出生の地があるそうよ。」

「へー。一度行ってみようかな~。」

「話をもとに戻すね。

   天下統一を成し遂げたあとで、秀吉はもう二度と戦争がおきないようにしようと

   色々と政策を実行するの。

   その中で有名な2つが、刀狩太閤検地。」

「なんで、その2つで戦争がおきないの?」

「それは戦国時代になぜ戦争がおこり続けたのかを考えるとわかるよ。」

「えーと、たしか、戦国大名たちは将軍の言うことをきかずに好き勝手やって、

   大名同士で領地の取り合いをやったり・・・、土一揆や国一揆もおこって・・・。」

「そうだったね!信長&秀吉が戦国大名と戦って、自分たちの言うこと聞かせることに

     成功したね。秀吉の言うことを聞いた大名・武将たちは地位や領地を与えたので、

     反乱は企てることはないだろうとひと安心。

     あと、問題は土一揆や国一揆をおこした地侍や農民たち。

    土一揆・国一揆は鎮圧したんだけど、武将たちに領地などをあげたように、

    農民たちに何かをあげるわけにはいかない。」

「そうだよね・・。そうしたら、また惣をつくってたてこまれたら、意味ないもんね。」

「だから、反乱をおこさないように、武器をとりあげちゃおう!っていうことにしたの。

     それが刀狩。」

「そうなんだ。」

「農民らから刀や鉄砲などの武器を、差し出させたの。これでもう一揆はできないでしょ!

     武器がなきゃ戦えない。

 

     また、それ以外に、村に住んで、農民たちと身近にいた武士たちがいたんだけど、

   その武士たちを城下町に住ませて、自分たちの配下に置いたの。

   それで農民と武士を身分をはっきりわかれさせることに成功した

   それを兵農分離(へいのうぶんり)と言うの。」

「今までは、武器もあって、農民と地侍たち(武士)が入り混じっていたから、反乱がおこっていたもんね。」

「ただ、兵農分離して反乱をおさえるのが本来の目的なんだけど、

    そんなことを言ったら農民たちが言うこと聞くはずないよね。」

「そうだよねー。」

「だから、名目上は、方広寺(ほうこうじ)での大仏建設のための

    釘などに使うから武器をほしい、ということにしたの。

    そうすれば、みんなの心の平安をもたらす大仏がつくられるからいいでしょ!ということで・・。」

「そっか。武器は金属からできてるから、いったん武器を溶かして・・ということね。」

「うわー。すごい理由・・。」

「刀狩で武士と農民と区別したよね。

    そして、もう1つ、検地というものがあるんだけど、

    これは、上の支配する側からしたら年貢を一定の収入を得るため、

    農民側からしたら余分に年貢を払わなくてよいように、ということで、

    全国の田畑の面積や等級(良し悪し)を調べ、年貢の基準を定めたの。

    そして、耕作者と石高(こくだか:生産高)を記したの。」

「あ、これで、武士とは分かれちゃったけど、

       農民も不当に年貢を差し出させられることはされなくなったんだね。」 

「そうね。秀吉が行った検知を特別に太閤検地と言います。」

「ああ、太閤秀吉がおこなった検地だから太閤検地ね。」

「そういうこと。他にも、秀吉は、ますやはかりなどの統一もしていってね。」

「色々な量や目盛りの統一をしていったんだね。」

「これは、1人の人が「これが正しい目盛りだ!」と言って、みんなが言うこと聞かないと

       うまくいかないから、天下統一しないと、できないことだったんだろうね。」

「そうだね。ここまでだったら、秀吉の行った政策は悪いものではなかったんだけど・・。」

「え?何かやっちゃったの?」

 「これが、今の国際問題に起因するものでもあってね・・。」

「??」

「秀吉が、自分の言うことを聞く部下に領地を与えて、味方を増やしていったのは

      さっき話したよね。でも、だんだんともうあげられる領地がなくなっていったの。」

「ありゃりゃ。」

「そこで、海外を征服して、そこの領地を部下に与えよう!と考えてね。」

「日本統一したら、次は海外侵略戦争?!」

「そう。皮肉よね。内乱という名の戦争を終わらせたら、次はまた侵略と言う名の戦争へ。」

そうだよね。」

「秀吉は、中国(明)を征服しようとして、その道すじにあたる朝鮮にまず戦争を行うの。

     それを朝鮮出兵と言ってね。

     1592年文禄の役1597年慶長の役、という2つの

   出兵があるんだけど、2度とも失敗に終わってね。

   でも、日本側も朝鮮側も多くの死者を出して・・。」

「うわー。それが今の朝鮮半島の国々と日本の外交問題をうんだんだね。」

「そうね。もちろん、このあとの明治~昭和の外交が一番の問題だったけど、

    その最初の発端がこの朝鮮出兵だったとも言える。」

「うーん、難しいね。」

「君たちは、秀吉が悪い!といって「正義感」をもって怒るのではなくて、

   その朝鮮出兵を知らないで国際社会に出るのははずかしいことだと思ってくれれば、そして

   そして、反省し二度と同じ過ちをおかさない、と誓って行動してくれればいい。」

「そうだよね。1つの悪い面を見て、あの人がやったことはすべておかしい!と

 他人事にするのではなく、このような失敗を自分もしないようにしよう!と学ぶのね。

 それが歴史を学ぶ意味なのね。」

「英語がしゃべれたって、歴史や社会情勢をしらなければ、

   ただ外国人と友達になるだけでおわるだけだもんね。

   色々なことを知って、英語というツールで国際社会に羽ばたいて

   国際社会に貢献することが大切なんだね。

   そのためには社会もたくさん勉強しないと!」

「みんな、色々と言ってくれてありがとう!」

「えへへ」

 

 

「あとは、文化について話すね。戦争をしている間は、大きな文化は生まれない。

    だから、主に全国統一が成し遂げられるころあたりから、

      つまり織田信長・豊臣秀吉(とくに秀吉)の時代に文化ができる。

     そのような文化を桃山文化と言います。」

「どんな文化なんだろう。」

「まずは、仏教勢力を弱め南蛮貿易をしていた時代だから、南蛮文化の影響を受けていたの

    また、天下統一というでっかい夢にむかっていた時代だから、豪華で雄大な文化だったそうよ。」

「どん!って感じだっただろうね。」

「金色にかがやく甲冑など、いろいろ派手だったみたいね。」

「へー。」

「桃山文化で有名なものは3つ。1つはお城。」

「この時代っていうと城を築いて政治を~という感じだから、お城のデザインにも力が入ったのかな?」

「有名な城が、秀吉の築いた大阪城・伏見城。あと、もう1つが世界遺産にも登録されている・・。」

「あ、地理で習った!たしか・・・姫路城!」

「そう!姫路城!この城は別名、白鷺城(しらさぎじょう)と言われるほど、うつくしくてね。」

「鳥の白鷺のように、まっしろできれいなんだろうな~。」

「しかも、大阪城などはもう焼けちゃってしまったのだけど、(現在の大阪城は再建されたもの)

     姫路城は、昔のまま残っていてね。

   当時のお城の状態がよくわかるのよ。」

「へー。」

「兵庫県にあるので、一度行ってみると、世界観がかわるわよー。

     (ちなみに、時期によっては修復作業中の場合があるので、行く際は調べてから行くと良いかも?)」

「はーい。」

「あと、びょうぶ絵(びょうぶに描く絵)でも有名な絵師がいてね。

     その1人が、「唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)」を描いた狩野永徳(かのうえいとく)。」

「あ、「唐獅子図屏風」を見たことある!すっごく力強い絵だよね。」

「びょうぶ絵は城の内部にあったびょうぶを華やかにしてくれたのかな~?(予想)」

「あと、最後に、茶道(さどう)が千利休(せんのりきゅう)によって大成されたの。」

「あ、茶道って、茶室でお茶を・・・というやつ?」

「そう!」

「いかにも日本らしいよね!」

「茶室の入り口ってすごく小さいでしょ。

   それって、刀を持ったままだと入れないから、

  茶室に入るときには武器を捨てて、

  茶を楽しんでいるときは戦争のことを考えるな、という

  意味合いもあったという説があるわ。」

「うわー、かっこいい!」

「ではでは、今日はここまで。次は江戸時代に入りますね。

     では起立!礼!」

「ありがとうございました!」

ーー

おわり。

 わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを
引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。
不快な気持ちになった方には申し訳ありません。

とくに国際問題には細心の注意を払って記述しておりますが、

不快に感じた方がいらっしゃったら

大変申し訳ありません。


歴史模擬授業(第17回 安土・桃山時代)②-2

2010年11月13日 17時16分16秒 | 歴史☆模擬授業
今回は歴史模擬授業17回目、安土・桃山時代の続きです。(詳細は、昨日の記事をご覧ください)

戦国~安土・桃山時代は好きな方が多いので

「実際はちがう!」とか「この人はもっと素晴らしい人で・・・」などと

思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、これは数多くある1つの話なんだ、

と思って頂けると幸いです。

ではでは、安土・桃山時代の授業の続きを行います。

ーーーーーーーーーーーーーーー

「さて、さっきまでは、戦国時代の全体のことと鉄砲&キリスト教の伝来について行ったね。」

「うん、そして、戦国時代を終わらせたのが織田信長だということはわかったよ。」

「そうね。では今度は織田信長がどのように戦国時代を終わらせたか、を説明していくね。

    まずは、戦争でひしめいきあっていた戦国大名(守護大名あがりの戦国大名も含む)たちを  

    信長が倒していくことから見ていきましょう。」

「自分が一番強い、逆らえない!ということで戦乱の世を平定しようとしていたんだったね。」

「よくもわるくもそうね。

   織田信長が行った戦いというのはいくつもあるんだけど、入試で出る戦いは2つ。

   桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)長篠の戦い(ながしののたたかい)。」

「聞いたことある・・というか、ぼくの実家は桶狭間の近く。」

「地図を思い描いてごらん。織田信長の本拠地は尾張、つまり愛知。

      その愛知周辺の大名を倒したあたりから、どんどん信長は力をつけ始めるの。

      その周辺といったら・・・。」

「長野?岐阜?三重?静岡?」

「その中に正解があるよ!静岡。

(もちろん、岐阜なども戦いを行っております。岐阜という名は信長によってつけられました)」

   静岡の中央部あたりを駿河(するが)というんだけど、

  その駿河を治めていた今川義元(いまがわよしもと)を

  織田信長が倒す。

 

   その戦いを、桶狭間の戦い言います。」

「あ!桶狭間!ぼくの実家だ!名古屋市緑区!」

「当時は、尾張の小さな大名の信長が、伝統のある大きな今川家に勝てるはずもない!と思われていたの。

    そうしたら、なんと勝ったので、みんなびっくり!」

「まさに英雄だね!」

「信長は、新しいもの好きで、いろいろと最先端のことをやったり失敗したり、

       身分とか関係なく、力のあるものを自分の部下にしたり、

     農民たちにもくったくなく明るく接していたので、人気があったみたいね。

    上のものからしたら、なんて下品な、とか、理解できない!馬鹿じゃない?と思われたみたいだけど、

     下のものからしたら、なんておもしろい人なんだ!と思ってなつかれたみたいね。」

「誰からも認められなきゃ大成できないわけではないんだー。

     ぼくも今は馬鹿にされても、自分なりの方法でがんばっていけばいつかは・・・ってことだって

     あるかもしれないよね。」

「うん。一般の人々(とくに上の人)から自分の能力を認められないのは辛くて、

      何度も苦しい思いはするんだけど、

      それでもあきらめずに力をつけていく努力をしていくと、

      いつかはわかってくれる(とくに年下)人が現れるかもしてないのでがんばって!」

「はーい!」

「この桶狭間の戦いで勢いをつけた信長は、

   ついに、1573年に、室町幕府15代将軍の足利義昭(あしかがよしあき)を

    京都から追い出して、室町幕府を滅ぼすの

    これで戦国時代は終わり、安土時代に突入します。」

「え?そのときまで室町幕府ってほろんでなかったの?というか将軍いたの?」

「うん、いたの。将軍という名だけで実質的に力はなかったんだけど、一応戦国大名たちは

      「おれらは室町幕府将軍に従っているよ!」と言って、将軍の名のもとに自分勝手に動いていたのよ。」

「ほえー。」

「つまり、将軍はいるだけで、戦国大名は自分たちの領地に将軍の意見を入れずにやっていたってこと。

      しかし、その文句をいわない状態の将軍そのものがいなくなったってことは、

   戦国大名たちは誰に従うことになるってこと?」

「あ・・・。」

「そこで、信長は自分に従え!というわけよ。」

「でも、みんなそれで言うこと聞いたの?」

「ううん。それで結局、また戦争。

      信長の仲間の領地に信長の敵の軍に入られて戦うことも。

       しかし、信長がどんどん勝っていくの。

       その1つがさっき言った、長篠の戦い。(ながしののたたかい)」

 「長篠の戦いはどんなだったのかな?」

「まず、戦った相手は、甲斐(かい:現在の山梨)の武田氏

    武田氏は騎馬で戦うことが得意で、強かったそうよ。」

「そんな相手によく勝てたね。」

「そう思うでしょ。色々説があるんだけど、信長の、新しい戦闘方法が勝利に導いた!とも言われているわ。」

「新しい戦闘方法?」

「信長って新しい物好きだと話したよね。それで外国からわたってきた新しい物を使うってことで・・。」

「あ、わかった!鉄砲!」

「そう鉄砲(火縄銃)を使ったの。

   でも、当時の鉄砲って、今みたいに連続して楽に放てるものではなくて、

   火薬をつめて、火をつけて、しばらくまって・・・、という1発撃つのに長い時間がかかったの。

    だからほとんどの武将が、そんな鉄砲より刀の方が良いだろ!といって、

    あまり鉄砲は愛用されなかった。

    でも、信長は、足軽という歩兵たちで鉄砲隊というのを組織させて、

     一番前の人が鉄砲を撃ったら、

      その人は後ろにまわって(また火薬を詰めなおす作業を始める)、

      火薬を詰め終わって準備ができている2番目で待っていた人が鉄砲を撃つ、

      そして次にに三番目の人が・・・という形でやったの。

     当時は1対1の一騎打ちの戦法が主流だったのに対し、信長軍は、集団戦法を使ったの。

     この鉄砲による集団戦法を初めて活用したのが長篠の戦いで

     この戦法が勝敗を大きくわけたという説もあるわ。

     (一説には、鉄砲の集団戦法は使われたが、勝利したのは別の理由があるという説もある。)」

「たしかに、武田軍の騎馬が強いっていったって、信長軍の近く まで馬が来れなきゃ勝てないもんね。

  鉄砲で邪魔されて・・。」

「そうね。ほかにも馬が入ってこれないように柵(馬防柵:ばぼうさく)を置いたり、

     色々と策略がねられたみたいね。」

「では長篠の戦いをまとめるね。

   長篠の戦い1575年におこり、織田信長徳川家康と組んで、甲斐武田氏武田勝頼)を

    愛知の長篠で破った。その際に、信長軍は、鉄砲による集団戦法を使った。ということね。」

「ほえー。これで、ほとんど信長中心になっていくのかな。」

「そうね。

      あと、信長は、琵琶湖のほとりに安土城を築いて、その城を拠点にして全国統一していったの。」

「琵琶湖ってことは今の滋賀県。」

「なんで、出身地の尾張(愛知)じゃないの?」

「一説には、滋賀が一番見はりとしても交通の便としてもよかったからだそうよ。

      当時は陸路より水路の方が便利だったから。」

「あー、そうか!琵琶湖は大きいし、大阪の淀川などにもつながっているから、

    京都にも大阪にも行きやすいし、地元(味方)の愛知にも近いもんね。」

「室町幕府があった、京都にも近いと、旧幕府軍の反乱分子もみはりやすいだろうし。

    京都には朝廷もあるし・・・。」

「そういうことね。

   あと、特定の商業者が力を持つのをなくそうとしたの。

   商工業者の特権を守るために閉鎖的になっていたので、この時期には

   商工業の発展を妨げるようになっててね。

   商工業がさらに発展すれば、新しく便利なものが次々と発明されるかもしれないしね・・。」

「特定の商工業者って、同業者ごとに組んだ座のことだよね。座を廃止したってことかな?」

「全国で~というわけではないし、さまざまな戦国大名たちが同じようなことをしていたんだけど、

      一番有名なのが、織田信長が自分の城である安土城の城下町で行った楽市・楽座

      楽市・楽座では座を廃止して、自由に商工業ができるようにしたのよ。」

「だれでもお金をかせぐことができるようになったんだね。」

「楽座というので意味がわかりやしかも。

   楽=フリーとおもったら、座がフリー、座がない、ってことかな?と。

   楽市も、市場税という税金がかからない、つまり市場税フリーってことね。」

「フリーペーパーのフリーも、お金を必要としない、という意味だもんね。」

「漢字を見て意味を覚えるようになると忘れないものね♪

    楽市・楽座は今でいう自由貿易と思えばいいよ。」

 

 「あと、信長は、戦争以外にも、加賀の一向一揆をおさえたり、延暦寺焼き討ちするなど、

    自分に反対する仏教勢力を抑えようとしたりしたの。」

「焼き討ちって過激な・・。」

「延暦寺って平安時代に最澄が開いた天台宗の寺だったよね。」

「よく覚えているね。延暦寺は武田氏と結んで、信長に反抗する武将の援助を受けて、

      信長に反抗したために、信長の焼き討ちにあってしまい・・。」

「信長さんは過激だ・・。」

 

「そう、彼は過激だったのよ。

    また「戦争をなくし強い日本を・・」という明確なビジョンはあったとは思うんだけど、

    急ぎすぎ&やりすぎちゃったのよね。

    だから敵もつくりやすい。味方の中にも、信長のやり方についていけない・・という人も現れてね、

    そしてついに、信長は味方に裏切られて死んでしまうの。

    それが、本能寺の変。」

「うわー。」

「信長は、中国地方に向かおうとしている途中に、京都の本能寺に泊まったの。

      そのときに、部下の明智光秀(あけちみつひで)に攻められ、

   「ぜひもなし(もう万事休すだ、しょうがない!)」と悟ったらしく、そこで自害してしまったの。」

「ということは、次に中心になるのは明智光秀。」

「そう。でも明智光秀の天下は短期間で終わる。

    おなじく信長の部下であった豊臣秀吉によって負けてしまう。

    その戦いを山崎の戦いと言います。」

「そうだったんだ。」

「このことから、三日天下という言葉も生まれたのよ。

 実際には11日天下だったらしいけど、3日の方がゴロがいいからかな?

 三日天下とは短時間しか権力をもつことができない、という意味で・・・。」

「あ、三日天下は聞いたことある!あれって明智光秀さんのことだったんだ。」

「織田信長がいなくなったことで安土時代は終わりをつげ、

      明智光秀に勝利した豊臣秀吉が信長の意志をついで

      天下統一&戦争のない世の中

   にしていく桃山時代が始まります。

   (実際には安土・桃山時代で1つの時代なので、明確な区切りはありません)。」

「次は秀吉かァ。」

「楽しみ。」

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続く。

 わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを
引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。
不快な気持ちになった方には申し訳ありません。