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歴史模擬授業(第16回 室町時代中期)②-2

2010年10月25日 12時28分42秒 | 歴史☆模擬授業

今回は歴史模擬授業16回目です。室町時代初期の続き、室町時代中期です。
(詳細は、昨日の記事、歴史模擬授業(第16回室町時代)①の記事をご覧ください)

室町時代は200年以上続いた長い時代で
さらに、内容がもりだくさんなので、
内容ごとに3つに分けたいと思います。
3つの区分は、

初期:建武の新政~南北朝の動乱、

中期:3代将軍足利義満~8代将軍足利義政

後期:応仁の乱(8代将軍義政)~戦国時代


という形にします。中期と後期は時代が被っていますが、
内容的に、中期では義政の時代の文化を、
後期では義政の時代の戦乱(応仁の乱)を、という形にしております。

ではでは、今回は室町幕府の中期の授業を始めます。
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キンコーンカンコーン

「さて、ではこの前からの続きを行うわね。今回は室町時代中期よ。」

「前回は、南北朝の動乱が続いた状態で終わったんだよね。」

「そうそう。それで、今回は南北朝の動乱がついに終結し、
平和な時代で、室町幕府が全盛した時期を行うの。」

「平和ってことは、文化も華やぐんだよね?
      たしか、平安時代のころに、平和な状態が続くと文化が
      開くって聞いた覚えがあるので。」

「よく覚えてたね♪そうなの。この時期に文化が華やぐのよ。」

「へー。」

「じゃあ、まずは、南北朝の動乱がいつ終わったかから、行いましょう。

   南北朝の動乱が終わったのは、室町幕府の3代将軍足利義満の時代。1392年。」

「え?1代目の時代に終わらなかったんだ・・。3代目とは・・。
 ん?将軍・・ということは、室町幕府があった北朝が勝ったってこと?」

「うん、そうなの。吉野にあった南朝がついに負けて、
 北朝が勝利し、朝廷は合一されるの。」

「じゃあ、三種の神器を北朝が手に入れたってことになるんだね。」

「たぶんね。三種の神器には色々な説があるので、
これが絶対とは言えないんだけど、
おそらく私は、北朝がついに三種の神器を手に入れたんだと思うよ。」

「南北朝の動乱が終わったので、戦争が終わり、平和な時代になる。
 そこで、足利義満の治世のときには色々なことが行われるの。

 1つは、京都の室町という場所に幕府を移し、そこに邸宅をたてるの。
それを花の御所と言います。」

「室町っていうことは、それが室町幕府の名称の由来?」

「うん。そう。室町幕府っていうのは、後につけられた名前だからね。」

「また、義満の時代には、中国の明という王朝と貿易がさかんになっているの。」

「もう、元という国じゃなくなっているんだね。」

「うん。元はモンゴル民族の王朝だったけど、明は、中国の主要民族である漢民族の王朝。」

「元のときは攻められたりして大変だったけど、明とは仲良く貿易ができたんだね。」

「そうみたいね。ただ、この時期には1つ問題があってね・・。」

「?」

倭寇(わこう)という、朝鮮や中国の沿岸を荒らす海賊が多く出現しててね。

 海賊といっても、国が許していなかった貿易を勝手にやっていた、という海賊で、
 いわゆるみんながよく思い浮かべるような宝物を略奪するような海賊って
 わけではないんだけど。
 
 ただ、ぱっと見では、日本と明の正式に約束した貿易船なのか、
 倭寇の船なのかわからないし、倭寇に正式な国の貿易船が
 襲われることだってあるだろうから、勘合符(かんごうふ)という合い札を
 使って、お互いを確認しようということにしたの。

 明と日本でそれぞれの札を持っていて、
 2つを合わせると1つの文字になるという形ですね。
 
 下にイメージがつきやすいように、勘合符の図を書いてみるわ。
 (実際の文字とは異なりますので、ご注意を。)





このように勘合符を使った中国との貿易を、勘合貿易もしくは日明貿易と言います。」





「ちなみに、勘合貿易での、
主な日本の輸入品は、銅銭(明銭)や生糸・陶磁器で、
輸出品は銅・硫黄・刀剣だったそうよ。」

「日本は主に原材料を輸出してたってことかな?
それに比べて明からの輸入品は陶磁器などの完成品が
多そうだから、それだけ明の技術が進んでいたってことかな?(予想)」


「あと、他にも、朝鮮半島にあった李氏朝鮮や、
現在の沖縄県にあった王国の琉球王国などとも貿易をおこなっていたそうよ。」


「貿易がさかんだったんだね~。」

「あと、足利義満の時代に、文化が華やぐの。
 その時代の文化を北山文化と言います。」


「なんで、北山という名称なの?」

「京都の北山にある鹿苑寺(ろくおんじ)に別荘をたてたことにちなんで、だそうよ。」

「へー。そんな別荘があるんだ。」

「あら、たぶん、みんなよく知っていると思う別荘よ。
修学旅行でも行くことが多いし、テレビでもよく見かけるわ。」

「え?」

「別荘だと思っていないかもね。寺と思っているかも・・・。」

「寺・・京都は寺が多いから、どれだか・・。」


「金色に輝いているよ。」

「あ、やった!わかったー!金閣寺(きんかくじ)!」

「そう!金閣よ!正式には、寺の中にある別荘だから、
 金閣寺でなく、鹿苑寺金閣もしくは、単に金閣と記す方が正しいのよ。」


「ほえー。あれって、義満さんがつくった別荘だったんだね。」

「金箔(きんぱく)でおおえるぐらいだから、当時はそれぐらい幕府に力があったってことなんだね。」

「そうだね。そうやって文化から政治を見ていくのもよいわね。

     あと、多くの先生の授業であまり重視さえないみたいだけど、 
    私はこの北山文化こそが、日本の文化史上の大きな転換期で
    あり、また、それまでの日本のきずいてきた文化の集大成だと
    思うの。」

「え?そうなの?」


「うん。平安時代に、貴族たちが日本独自の文化をきずいたでしょ。」

「うん。」

「そして、鎌倉時代からは貴族にかわって武士が政治を行い始めた。」

「うん。」

「鎌倉時代は、武士の力強く質素な文化が初めて誕生した。」

「うん。」

「でも、まだ、その文化は、きめ細やかさや優雅さの点では、
 貴族たちの文化の足元にはおよばなかった。

 つまり、実質的な政治では貴族に勝ったけど、
 精神的な文化にはまだまだ武士は貴族に勝てなかった。」

「あ・・・。」

「それが、この室町時代の北山文化で、
 ついに、貴族と武士の文化が融合(ゆうごう:くっつくこと)する!
 武士による、貴族に負けない文化が誕生する!」

「・・・つまり、それって、武士が文化の面でも貴族と同等に並んだってこと!」

「そうなの!それってすっごく大きな意義がある。
だって、もう武士だからって馬鹿にされない。
武士にも誇れる文化ができたってことよ。」


「へー。」

「その象徴たる文化が、先ほどの金閣の内部のつくりや、
    舞台芸術「能楽(のうがく)」よ。」

「能・・?」

「能楽にはね、日本古来からある神道の神様の話、つまり天皇家とつながりがある宗教の話や、
    平安時代の貴族文化の作品「源氏物語」、
    そして、武士が主役になっている「平家物語」「源平盛衰記」
    などをモチーフにした作品を舞台化したの。

    質素を好む武士らしく、舞台には余分なものを置かないという質素な舞台にしてね。
    でもその質素さから、優雅さも見えて・・。」

「つまり、能では皇族も貴族も武士もみんな主役になれたんだ。」

「そうなの!
    義満は、貴族の舞楽であった雅楽などに対抗できるような舞台芸術はないか、と探していたの。

    そうしたら、観阿弥・世阿弥親子が、それまで民間で行われてきた猿楽などを、
    芸術分野にまで高めて、それを能楽という形で大成してくれたのよ。

    この能楽は、それ以後、武士の教養としてたしなまれたし、
    日本の舞台演劇の基礎だと言っても過言ではないのよ。」



「そうだったんだ。つまり、能楽の大成は、武士が貴族に誇れる文化が誕生したってことだね。」

「そうなの。
   
    ちなみに、能楽とは、歌舞劇(うたって舞う劇)の能と、
    笑いを主体としたせりふ劇の狂言の総称なので、
    テストでは単に「能」と答えずに、総称の「能楽」と答えた方が良いわよ。

    あとね・・この能に関しての意気込みや捉え方は私個人の意見なので、ご了承を・・。

「はーい。」

「あと、教科書での書き方も言っておくわね。
 

      北山文化は公家と武士の文化がとけあったもの。
    金閣は、1・2階は寝殿造、3階は唐模様の仏間になっているの。
     そして、観阿弥・世阿弥親子が能楽を大成。」

「ここまでが3代将軍足利義満の話ね。次は、もう1つの文化だけ説明しておくわ。
 もう1回、文化が8代将軍足利義政のころ。」

「へー、このころも平和だったのかな?」

「うーん、実はこれは例外で、戦乱の嵐のころ。今度の室町後期でそれは説明するわ。

    義政はかなり文化が好きでね。あと、義政の治世のころに、
    北山文化がさらに発展し、また禅宗の文化の影響も受けて、
    武士の質素をさらに優雅にした文化が完成したの。

    その文化を東山文化と言います。

    
    その代表例が、京都の東山にある慈照寺(じしょうじ)にある邸宅の銀閣。
    そこの一階にあるのが書院造という、
    現在の床の間の元になったつくりが誕生するの。」

「床の間って室町時代にできたんだ!」

「書院造は入試にす-っごくよく出るからしっかりおぼえておいてね!」

「はーい。」

「あの・・銀閣ってことは、今度は銀箔(ぎんぱく)が貼られていたの?」

「ううん。何も貼っていないの。」

「さっき、戦乱の嵐だっていっていたから、もうお金がなかったのかな?」

「そうとも言われているし、わざとそのままにしたともいわれているの。

 金閣はなんだかんだいってぴかぴかして貴族の華やかさへのあこがれがなきにしもないかな?
 と私は勝手に思うんだけど、銀閣って質素な美しさで、まさに武士の活きがあるって感じがしてね。」

「まあ・・たしかに、どちらの文化も貴族と武士の文化の融合体だけど、
     北山文化は貴族の文化価値比率が高く、東山文化は武士の文化価値比率が高いような気がする。
      あくまでわたし個人の意見だけど・・。」


「あと、絵画で、水墨画(すいぼくが)というものが雪舟により大成されるの。

   中国の山水画などを元にして、日本独自の絵画技法が出来たのよね。
   水墨画は、墨(すみ)一色の濃淡だけで描く絵なの。」

「うわ・・渋いね~。」

「そう、その渋さこそが、東山文化らしいのよ。」


「貴族は華やかな芸術、武士は渋い芸術ってことね。」


「そうそう。ねこちゃんは美術的感覚があるね。

  この感覚って、多くの作品をみないと身につかない感覚だし、
 大人になってから初めてわかるものだってあるから、今のうちは
 理解できなくても、わからないなりに心の底にしまいこんで
 残しておいてほしいわ。」

「はーい。」


「博物館とか美術展とかよく行って、感性を身につけよっと!」

「そうね。感性だけは、教えてみにつくものじゃなくて、
自分の中でどれだけ色んなものを観て、そしてさまざまな経験するか、
で磨かれるものだから、がんばってね!」

「はーい。」

「あと、ほかにも室町時代の文化の作品に、

   南北朝時代の騒乱を描いた「太平記」や
   庶民の生活や感情を表した絵入りの物語「御伽草子(おとぎぞうし)」などもあるわ。」

「庶民も主人公にもなれたってこと?!」

「そういうこと。それだけ、庶民にも力がついてきた時代だったってことだよね。
 

      「御伽草子」は今、みんなが知っているおとぎ話の元になっているものが多く
      入っているよ。「一寸法師」や「浦島太郎」とかね。」

「浦島太郎って漁師・・つまり庶民。庶民がほんとに主人公になれたんだ。」


「そう。物語の主人公がどういう人か、で当時の権力者や力がだれにあるかが
わかるときもあるんだよね。」

「こうみると、現代までに続いている文化が多いよね。書院造といい、御伽草子といい・・」

「うん、そうなの。室町時代に現在の私たちになじみの深い文化が多く誕生するの。」

「え?そうなの!室町おそるべし(?)」


「ではでは、今日はここまで。今度は、室町後期と、その内容に関する中期ごろの事件を説明するわね。」

「わーい。楽しみだな。」

「ではでは終わります。起立・礼!」

「ありがとうございました!」

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わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という
専門的なことを引き合いに出されても、申し訳ありませんが、
お答えできないことがあるかもしれません。
不快な気持ちになった方には大変申し訳ありません。


歴史模擬授業を書いていて・・

2010年10月25日 11時58分25秒 | 歴史へのつぶやき&興味

昨日は400以上のアクセスをありがとうございます。

今週中に室町時代の歴史模擬授業は終わらせたいな~と思います♪



室町時代のところは出来はどうあれ、鎌倉時代よりもスイスイ筆が進みます。

どうやら、私はやっぱり平安~鎌倉が一番苦手なようです。
(何度も辞書を片手に確認しないと文章が書けなかった状態でした。)

また、平安・鎌倉時代を好きな友達が多いため、
その人に対する遠慮という気持ちも強いのかもしれません。
平家のこと悪く書いたら、あの人が不快に感じるかな~、
でもあの人はそんな狭い心の持ち主じゃないはず~、
でもやっぱり、あの人の好きな歴史人物に対してこの書き方は・・と
ぐるぐると感情が動いていたりも・・。


室町時代は、私個人は
古墳・飛鳥・奈良・大正・昭和時代ほど
好きってわけではないけれど、
愛着がある時代です。

大学で日本文化学科に入ったはよいものの
日本文化のよさが全然わからなくて、
美術館とか行きまくり、文書も読みまくり、
部活も能楽部に入って、とにかく研究しまくったおかげで、

日本文化らしさを象徴する「幽玄」「わび」「さび」の
渋さのよさが少しだけ分かったのです。

なので、その「幽玄」「わび」「さび」の
世界が大成された室町時代は、
なんとなーく懐かしさがこみ上げてきます。


また、室町時代好きって、まわりには旦那しかいないので気楽です。
(旦那は私のブログを読まないのです。)
しかも、旦那は太平記の世界(南北朝の動乱)や戦国時代に詳しいので、
その文章を書く際に色々質問しながら、歴史模擬授業を書いています。

歴史話したがりの旦那も、そういうことを聞かれてうれしそうでした。

では、またがんばって続きを書こうと思います♪


歴史模擬授業(第16回 室町時代 初期)②-1

2010年10月24日 19時12分34秒 | 歴史☆模擬授業
今回は歴史模擬授業16回目です。室町時代初期です。
(詳細は、もう1つ前の記事をご覧ください)

室町時代は200年以上続いた長い時代で
さらに、内容がもりだくさんなので、
内容ごとに3つに分けたいと思います。
3つの区分は、

初期:建武の新政~南北朝の動乱、

中期:3代将軍足利義満~8代将軍足利義政

後期:応仁の乱(8代将軍義政)~戦国時代


という形にします。中期と後期は時代が被っていますが、
内容的に、中期では義政の時代の文化を、
後期では義政の時代の戦乱(応仁の乱)を、という形にしております。

ではでは、今回は室町幕府初期の授業を始めます。
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キンコーンカンコーン

「さて、今日は室町時代を始めますね~。」

「室町時代かー。」

「この時代は、すーっごく濃ゆい!歴史の動きが激しい。
    さらに、現代日本の生活形態の基礎ができたころだし、
    文化も現代まで続く伝統文化もあったりね。」

「そうなんだ・・・。」

「ではでは、まずは、室町時代の前に、鎌倉幕府の滅亡からいくね。
前回の鎌倉時代で、簡単に説明したけど、もう少し、詳しくみていくわ。」

「はーい。」

「元寇のあとで、御家人たちに鎌倉幕府は十分な恩賞を与えることができなくて、
徳政令とかも出したけど、それも一時的な効果に過ぎなかったよね。
それで、だんだんと鎌倉幕府に不満を持つ武士たちが現れた。」

「そうだったね。」

「そして、ついに、朝廷が幕府を倒すときがきたの。

その中心人物が、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)。
後醍醐天皇は、幕府を倒し天皇中心の政治を取り戻そうとして、
幕府に不満を持つ武士たちに呼びかけて、彼らに兵を挙げさせた。

その中で有名な武士が、楠木正成(くすのきまさしげ)ね。

そして、幕府は、京都に兵を出したんだけど、
御家人の足利尊氏(あしかがたかうじ)という人物は幕府にそむいてね。」

「鎌倉幕府を裏切る御家人たちもあらわれるんだね。」

「うん。そして足利尊氏は、京都の六波羅探題を攻め落とすの。」

「六波羅探題って、鎌倉幕府が設置した朝廷を監視する機関だったね。」

「そう。そして、ついに、新田義貞(にったよしさだ)という人物が、
幕府の本拠地、鎌倉に攻め込み、
1333年、鎌倉幕府は滅んでしまったの。」

「じゃあ、ここからが室町時代の始まりなんだね。」

「うん。(色々と説はあるけれど、一般的にはそうなります。)」

「鎌倉幕府が滅んだから、どうなるかというと・・・。」

「新しい幕府がたつの?」

「ううん。よく考えてごらん。鎌倉幕府を倒したのは・・。」

「後醍醐天皇」

「あ!そっか、天皇だから・・・、平安時代までの朝廷中心の政治形態に戻ろうとするのか!」

「そういうこと!後醍醐天皇は、天皇・公家(貴族)中心の政治をしようとしたの。

その政治ことを、建武の新政というのよ。」

「新しい政治だから、新政っていう用語が使われるのね。」

「そうね。」

「でも、そうしたら、鎌倉時代のときに活躍していた武士たちが不満を持つんじゃ・・・。」

「良い考えだね。そうなのよ。
「建武の新政って・・何、時代錯誤のことしてんの?」とね。
さらに、もらえた恩賞も不平等だったもんだから、
武士の不満は高まること高まること。」


「そうだよね。もう武士中心の政治が当たり前の時代だったもんね。
うまれたときから鎌倉幕府はあったわけだし。」

「それで、ついに、鎌倉幕府を滅ぼすのに手をかした
、さっき出てきた足利尊氏が、
武家政治の再興を目指して、
光明天皇という新しい天皇をたてて、京都を占領していまうの。」

「実力行使に出たんだ。でもそうしたら後醍醐天皇は?」

後醍醐天皇は、逃げるの。吉野という奈良県の山に。
吉野って昔から、天皇たちや時の権力者たちの逃げ場所だったの。
自然の要塞(ようさい)でね。
壬申の乱をおこす直前の天武天皇とか、
(天皇じゃないけど)頼朝に追われた源義経とかも一時的にそこに逃げたりしていたしね。」

「じゃあ、なかなか吉野に逃げられたら、手が出せないのかもね。」

「それで、結局、日本に同時に2人、天皇が存在することになったの。
お互い、俺が正統な天皇なんだ!と主張して。
 
天皇がいる場所が朝廷ということなので、朝廷が2つに分かれたという見かたもできるの

 足利尊氏率いる光明天皇のいる京都の朝廷を北朝
後醍醐天皇のいる吉野(奈良)の朝廷を南朝と言って、
 約60年間、北朝と南朝の争いが続くの。

その時代のことを南北朝時代(南北朝の動乱・南北朝の内乱)と言います。」

「えー!どうしてそうなるの?」

「お互いに言い分があるのよ。

北朝の言い分は、
「天皇の家系図、順番的に、後醍醐天皇が天皇の地位についたのはおかしいから、
順番的に私たちが正式な天皇だろ!」ということみたい。」

「飛鳥時代の壬申の乱のときの、
天武天皇側の言い分みたいだね。
(皇族の母を持っていない天皇は、
天皇になれないのが当時の風潮(通説?)だったので、
皇族の母を持っていない大友皇子が天皇になったのはおかしい、
という言い分)」

「そして、南朝の言い分は、
「天皇というのは、三種の神器というアイテムを持っているのが天皇のあかし。
こちらに三種の神器はあるのだから(後醍醐天皇が京都から逃れるときに三種の神器を持っていった)、
こっちが正しい天皇だ!朝廷だ!とね。」

「三種の神器っていうアイテムが天皇のあかしって、
ファンタジーの世界みたい。(馬鹿にした意味ではなく、イメージ的に)」


「それで、北朝はその三種の神器を奪おうと南朝に忍び込んで戦ったり、
南朝も北朝に忍び込んで戦ったり、としていたそうよ。」

「戦争の時代だったんだね。」

「そうなの、その南北朝の動乱の間に、
足利尊氏は、北朝の天皇から征夷大将軍の位をもらい・・。」

「征夷大将軍の位をもらうってことは、幕府をひらくってこと?!」

「そういうこと。1338年に足利尊氏室町幕府を開きます。」

「おー。ごたごたしている中で室町幕府は成立したのね。」

「室町幕府は、鎌倉幕府みたいに朝廷から
遠く離れたところにすると都合が悪いと思ったので・・」

「そうだよね。いつ、南朝が攻めてくるかわからない事態だもんね。
北朝が負けたら、幕府も共倒れになっちゃう。」


「ということは、室町幕府はどこにおいたのか?」

「北朝のあるところ・・・・あ、京都?!」

「そういうこと!ということで(?)、室町幕府のしくみを見てみようか?!」

「はーい。」






「鎌倉幕府と大きくは変わらないんだけど、いくつか違いがあるから見ていきましょう。」

「あ、将軍の補佐をする役職の名前が変わった。
執権じゃなくて、管領(かんれい)って名前に。」

「よく気がついたね。この将軍の補佐をする役目が幕府ごろに異なるから、
執権と書いてあれば鎌倉、管領と書いてあれば、室町と思えば良いわよ。」

「はーい。」

「あと、政所・問注所・侍所という名称は変わっていないんだけど、
内容がちょこっと変化があるの。

政所は財政のみになっているし、問注所のしていた裁判は侍所に移され、
問注所は文書などの記録の保管を
するように変わったみたい。

まあ、細かいそれぞれの仕事は入試では出ないんで、
すこし内容がかわったんだ~とここは思ってくれればいいわ。」


「はーい。」

「そして重要なのは地方のほう。」

「あ、六波羅探題がない!」

「そう!なんでかな?」

「え・・・」

「六波羅探題の役目って何?」

「えーと・・、京都(朝廷)をみはる・・」

「うん。じゃあ、室町幕府はどこに置いたんだっけ?」

「えーっと・・・京都。」

「あ!わかった!幕府そのものが京都にあるから、
わざわざ見はるための新しい機関をつくらなくても、
 幕府みずからが朝廷を見はれるんだ!」


「ああ・・そういうこと!」

「あ、でも、鎌倉府というのが新たに設置されているよ。」

「あ、わかった!鎌倉幕府に尽くしていた人たちは、
まだ関東あたりにいるだろうから、その人たちを見はるためだ!」


「よくわかったね。そういうこと。
今度は、遠く離れた関東地方の武士たちを見はらなきゃいけないから、
鎌倉府というものを置いたの。」

「ほえー。時代ごとに設置されるものには意味があるんだね。」

「うん。だから、言葉だけを覚えていては意味ないんだよね。内容も一緒に理解しないとね。」

「はーい。」

「あと、これからの後の歴史に重要なのは、守護と地頭の位置関係。」

「あ、鎌倉時代と違って、守護の下に地頭が入っている。」

「・・ということは、地頭は守護の言うことを聞くってことになるよね。」

「そうなの!で、しかも、幕府設立当初は、南北朝の動乱の時代でしょ。
幕府の中央は地方の政治どころじゃない。」

「そうだよね。」


「そこで、守護が国内の地頭を家来して、
自分の国内を支配し、次第に強くなっていったの


そのような、守護から発生した一国の強い主を、守護大名というの。

室町幕府は実質的に、将軍と守護大名の連合政権だったそうよ。」

「地方の人々も強くなっていったんだ・・。」

「そう、これが、後々の戦国時代を引き起こす要因になるんだけど、
細かいことはまた今度ね。」

「はーい。」


「ではでは、今日はここまでにします。次は室町時代中期ね。」

「まだ動乱が終わっていないよね。いつ終わるんだろ。ドキドキ。」

「お楽しみにね。ではでは、終わります!起立・礼!」

「ありがとうございました。」

キンコーンカンコーン
ーーーーーーーーーーーー

わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という
専門的なことを引き合いに出されても、申し訳ありませんが、
お答えできないことがあるかもしれません。
不快な気持ちになった方には大変申し訳ありません。


歴史模擬授業(第16回 室町時代)①-1

2010年10月24日 19時10分50秒 | 歴史☆模擬授業
今回は歴史模擬授業の室町時代です。

室町時代は200年以上と長く続いた時代なので、内容ごとに3つに分けたいと思います。
内容ごとに分けているので、多少かぶっている時代もありますが、そこはご勘弁ください。

初期:建武の新政~南北朝の動乱・室町幕府の成立
中期:3代将軍足利義満~8代将軍足利義政の時代&文化
後期:応仁の乱・戦国時代

となります。

今日は、初期のみを行います。
まとめの画像は中期まで一緒に書いたため、中期が終わり次第アップしたいと思います。

また、次の記事の授業内での、「室町幕府のしくみ」は縮小してしまったため、
多少文字が読みづらいと思いますので、
こちらでアップさせて頂きます。




「歴史模擬授業」という記事を数か月に数回更新していきたいと思います。

これは実際の授業形式を文字であらわしていこうというものです。

劇の台本みたいな感じになると思います。 定期的に内要がまとまったら、
HP「しゃかしゃか★ぶりっじ」にて改定してアップする予定です。

読むときに、 →先生、 →生徒その1(ひなちゃん)、 →生徒その2(はむちゃん)、→生徒その3(ねこちゃん) だとだと思って読んでください。

(みんな、びっくりするぐらいいい子ですが、そこはご勘弁を・・)

また、設定は、私立中学入試をひかえた小5の授業(塾)だと思ってください。


今回は文字数が最大数を超えてしまいそうなので、もう一つ記事を作ってアップさせていただきます。

わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを
引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。
不快な気持ちになった方には申し訳ありません。

歴史模擬授業(第15回 鎌倉時代)③ おわび・画像アップ

2010年10月17日 23時57分19秒 | 歴史☆模擬授業
先ほど、歴史模擬授業の記事を読んだら、画像が大きすぎて、
文章を横スクロールしないと見えず、
いちいちスクロールするのは大変だと思いましたので、
急きょ、画像を小さくさせていただきました。
そうしたら、一部の画像にある文字がみえなくなってしまったので、
こちらでもう一度、画像をアップいたします。


大変失礼いたしました。

本来なら、文字を折り返せば済む話なのですが、それだと時間がかかるため
一時的に急きょそのような形にしました。

今後は、必ず改行をこまめにしていきたいと思います。

大変失礼いたしました。






















歴史模擬授業(第15回 鎌倉時代)②-5

2010年10月17日 12時20分20秒 | 歴史☆模擬授業
さきほどの歴史模擬授業の鎌倉時代のまとめをここにアップいたします。

鎌倉時代は、約100年という短い期間なので、すぱすぱと授業が進められることも多いのですが、
今までと全然違う政治形態になってしまったので、現代の私たちが勉強するにはすごく重要で、
頭の切り替えが大変な時期なのかな~と思っています。

私は、鎌倉という地が好きで、よく遊びに行きます。
とくに鶴岡八幡宮が好きで、鎌倉に行くごとにお参りに行きます。

鶴岡八幡宮ではキティちゃんが流鏑馬をしているイラスト入りのお守りが売っていたので、それを購入し、
今でも大切にしています。さらに、そこで買った、鶴の蒔き絵シールも携帯に貼って大切にしています。

また、江ノ電が好きで、それに乗りながら湘南の海を見つつ、江の島で泊まるのも好きです。
江の島はネコが多いので、いつも癒されます。

あと、どんどん勉強からの話からずれていっていますが、私は、鳩サブレが大好き!
鎌倉行ったら鳩サブレです!

横浜でも東京でも売っているので、関東地方に行ったら必ず鳩サブレ!

鎌倉は他にも多くの寺社仏閣がみどころ満載なので、また行きたいです。







歴史模擬授業(第15回 鎌倉時代)②-4

2010年10月17日 12時10分06秒 | 歴史☆模擬授業

先ほどの記事(歴史模擬授業第15回 鎌倉時代 ②-3)の続きです。
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「では、最後の鎌倉時代の人々の生活や文化について行います。」

「わー、また平安時代のようにいっぱい覚えなきゃいけないのかなぁ。」

「ううん。今回はそうでもないよ。」

「え?そうなの?」

「なんでかっていったら、平安時代は貴族文化がやっと花開いた時期で、代表的な作品が多いんだけど、鎌倉時代ってのは、今までと違った新しい身分が政権を取った時代でしょ。」

「天皇・貴族たちにかわって、将軍・御家人たちの武士たちだったよね。」

「そうそう。だから、国造りに精いっぱいなので、文化はそこまで花開いたわけではないの。
でもだからって文化がないわけでもないし、今までに残る素晴らしい文化財も多くあるわ。」

「文化はすぐには育たないんですね。」


「まずは、武士たちの生活を見ていきましょう。武士たちは、戦いが仕事ではあるのだけど、普段は自分の領地に住み、武芸の訓練をし、下人を使って耕作をさせ、戦いがあれば出陣する・・という生活をしていたの。

武士たちが住んでいた住居は、武家造りと呼ばれる屋敷で、貴族の寝殿造の邸宅とは違って、質素なものだったそうよ。

あと、武芸の訓練として、犬追物(いぬおうもの)・笠懸(かさがけ)・流鏑馬(やぶさめ)があったの。
これは、全部、何かを的にして、それを馬に乗りながら矢を射るというもの。的が犬だったら犬追物・笠(帽子)だったら笠懸(かさがけ)、板だったら流鏑馬(やぶさめ)だと思ってもよいわ。下の図も参考にしてみて。
(ただ、作者が適当に描いた絵なので、若干史実に忠実ではないのはご勘弁を・・。)」



「馬に乗りながら、的を射るなんて難しいだろうな。でも、戦争では必要な技術なんだろうね。」

「犬追物は残酷・・・。」

「あと、農民たちの生活はどうだったか。・・・実はすっごく苦しかったの。荘園ごとに地頭がおかれたじゃない。でも、鎌倉以前からいる荘園領主もそのままいて・・地頭と荘園領主の二重支配で苦しんだそうよ。

ただ、この時期に農業は進歩したの。たとえば、馬や牛を使って農業をするようになったので、力仕事が少しは楽になったり、西日本では二毛作(春には米を、秋からは麦や大豆を作るなど、同じ耕作地で1年内で2回別の作物をつくるやり方)が始まったり。」

「そうなんだ。」

「あと、農業が進歩したら農業の生産率もあがるでしょ。そうした生産物などの商品が多くなるから、それを売る場所も定期的に現れるようになったの。
それが、定期市というもので、鎌倉時代では月3回、定期市が行われるようになったらしいわ。」

「色々と、庶民の生活も進歩していったんだね。」


「そうね。では、次は、宗教。今までの仏教って、おもにインテリ貴族たちがたしなむもので、国家全体の平和や豊穣などを願うものが一般的だったの。でも、もうインテリ貴族でなく、力中心の武士たちの時代になったでしょ。

それに、源平の合戦などもあって、戦乱の苦しみも多かった。

それで、国家全体ではなく、個人を救う仏教の宗派ができたの。しかも、武士たちは貴族たちのように時間をかけて勉強するわけではないので(実際には武士たちも勉強もしていますが・・)、小難しい内容よりも、誰にでもわかりやすい教えの方がありがたいわけ。

そこで、新しい仏教の宗派が生まれるの。」

「政権のトップがかわると、色々なものが生まれるんだね。」

「新しい宗派は6つあるんだ。浄土宗・浄土真宗(一向宗)・時宗・日蓮宗(法華宗)・臨済宗・曹洞宗。」

「うわー。これは覚えれるかな・・。」

「言葉だけ覚えると苦痛だよね。覚えたとたんすぐ忘れちゃうし。
 なので、簡単にそれぞれ説明するね。

 栄西が開いた臨済宗道元が開いた曹洞宗は肉体的に厳しい修行をするものなの。
 座禅って聞いたことがあるかな?
 じっと座って、少しでも動くと、バシっとたたかれる、というイメージのもの・・。
 
 あれは、心を「無」にすることで、悟りを開く、というもの。

 難しい言葉とか覚えるよりも、まずは、座って心に無にして悟れ!というわけ。(実際に勉強そのものはします)

 それで、臨済宗と曹洞宗の違いは、その宗派の支持者が違うことが大きい。

 臨済宗は、幕府の上級武士が支持していたんだけど、

 対する曹洞宗は権力をきらって、地方武士たちが支持者なの。あと、曹洞宗のお寺である「永平寺」は有名よ。

あと、自分の力で悟りを開くのが中心だった、臨済宗と曹洞宗に対し、
浄土宗・浄土真宗・時宗の3つの浄土宗系は、あることをすれば極楽浄土に行けるよ、という考え方。

 浄土宗、法然が開いた宗派で「南無阿弥陀仏」という念仏をひたすら唱えることで誰でも極楽浄土に行ける、という考え方。
浄土真宗は法然の弟子の親鸞(しんらん)が開いた宗派で、悪いことをしてしまったら二度と極楽浄土に行けないわけではない、自分の犯した罪を自覚すれば、極楽浄土に行けるよ、と言ったの。」

「今、私たちが仏壇の前などで、「南無阿弥陀仏」と言うことはここからつながるのね。」

「え?うちは「南無妙法蓮華経」だよ?」

「「南無阿弥陀仏」だと浄土宗系なんだ。そして「南無妙法蓮華経」は、日蓮宗なのよ。」

「そうだったんだ・・・。」

「日蓮宗の詳しいことはあとでやるね。

では、浄土宗のもう1つである、時宗を行うわ。

 時宗一遍が開いた宗派で、踊り念仏という、念仏を唱えながら、笛や鼓の拍子に合わせながら踊り歩くこと  
 をしたの。そして念仏を記した算(ふだ)を配り、それを受け取ったものが往生(おうじょう)できるよ、としたの。」

「今の盆踊りやお守りみたいだね。」

「そして、最後に日蓮宗。開いたのは日蓮で、法華経というものが唯一の釈迦の教えと言ったの。」

「ああ、だから、日蓮宗だけ、念仏が違うのね。」

「日蓮宗の支持者は、武士もいたんだけど、商工業者も多かったのが特徴ね。」

「色々と新しい宗派ができたんだね~。」

「うん。では、下にその宗派の簡単なまとめを書いたので確認しておいてね。とくに、浄土真宗(一向宗)は室町~安土桃山時代にまた出てくるので、よく覚えておきましょう。」

「はーい。」





「では、次は、鎌倉時代の作品にいくね。」

「いつもの、文学とか建造物ね。」

「さきほどから何度も言うように、鎌倉時代になって、政治の中心は武士になった。当然、だから文化も武士中心になっていくんだけど、貴族がほろんだわけではないから、ちらほら貴族の文化も入り込んでくるのよ。

ただ、「鎌倉時代の文化の特徴は?」と聞かれたら、武士の文化のほうを中心に考えればいいわ。

武士というのは、戦争が仕事、ということは力強い。そして、貴族のようなゴテゴテした飾りよりも、質素なものを好む・・、ということで、鎌倉時代の文化は、素朴で力強い武家文化、と言われることがおおいわ。」


「今までと全然違うのね。」


「とくに彫刻とか見ると、とくにわかるの。前、私は仏像展に行ったんだけど、同じ仏教の神様を彫刻でも、筋肉の付き方が全然違う!鎌倉時代のものは、筋肉むきむきのむきっむき!
逆に、平安時代までのものって、ひょろっとしていたり、若干メタボっていうものも多かったり。(笑)(もちろん全部が全部、そうではないんですが・・。)」

「そうなんだ。比べると面白いね。武士たちはかなりマッチョな人たちもいたのかなー。」

「その鎌倉時代の代表的な彫刻が、運慶・快慶がつくった金剛力士像。」


「あ、それ、みたことがある!東大寺に行ったときにみた!」

「そうそう、それよ。東大寺に入る前に大きな門があったでしょ。その左右に置かれている2つの仏像がそれよ。
上手に描けなかったけど、一応、私が描いてみた金剛力士像も載せてみるね。」





「う・・、力強さがない・・。」

「画力の限界が・・・。まだまだ絵の勉強はしなきゃいけないわねぇ。でも、運慶・快慶さんのダイナミックさは本当にすばらしいわ。あこがれ!」

「あと、その金剛力士像がいる門を、東大寺南大門というの。これも、鎌倉時代を代表する建造物よ。

 東大寺は奈良時代にできたものだけど、東大寺南大門は鎌倉時代のものなので気をつけてね!」

「1つの敷地も、長い時間をかけて、いろいろな建造物が建てられていって、いろいろな時代がくみあわさって1つの唯一の空間ができあがるんだね。」

「あと、有名な建物に、鎌倉にある円覚寺舎利殿があります。
 舎利殿とは仏舎利(釈迦の遺骨)を安置するお堂で、この円覚寺の舎利殿は禅宗建築様式の代表的なもので国宝よ。(この舎利殿は鎌倉時代でなく室町時代の建築物ということが明らかになっていますが、鎌倉時代のときに習うものなので、こちらで紹介させていただきます。)」

「へー。」

「円覚寺舎利殿は、愛知県の高校入試ではほとんど出ないんだけど、私立中入試ではときどきでるので注意してね。」

「はーい。」

「あと、文学。軍記物という合戦を主として展開する物語がつくられる。

     代表的なものが「平家物語」と「源平盛衰記(げんぺいじょうすいき・げんぺいせいすいき)」。

     「平家物語」は平安時代末期に隆盛をほこった平氏が源平合戦で滅亡するまでを描いたもので、
    「源平生盛衰記」は、平清盛の栄華を中心に平氏・源氏の栄華と衰退を描いたもので、
     源頼朝の挙兵や源義経の最期に詳しいの。」


「すこしまえにおこった源平合戦を描いたんだね。」

「そうね。今から話すことは1つの説として聞いてほしんだけど、このような作品が書かれるようになった背景には日本のある考え方があるの。悲惨な死に方をした人たちを成仏させるためには、その人たちの物語を書く、こという考え方がある。だから、滅亡という悲惨な死に方をした平家、兄に裏切られ殺された源義経を、美しく書くことで、彼らを弔ったという説もあるそうよ。

私は「平家物語」を中2の国語の授業で読んだときにすごく違和感を感じたの。なんで、平家をそこまで美しく描くの?と。でも、この説ですっごく納得いったのよね。そういう考えが、のちに日本人の判官びいき(弱者をひいきする傾向)につながったのか~と勝手に思ったりも・・。」

「へー。」

「あ、でも「平家物語」などがなぜ誕生したのかの説は色々あるから、これは多くある中の1つだからね

 入試で出るのは、「平家物語」が琵琶法師という盲目で琵琶を弾くお坊さんによって語られたことだけかな?
あとはそれぞれの作品の名称。」

「はーい。でも、色んな先生の考え方を聞くのは楽しいよ。私たちの先生って感じがするもん!」

「ありがとう。教科書に書いてあることを基本にはしなきゃいけないけど、どうアレンジするかで、生徒に何を伝えたいかがかわってくるものね。」

「あとは、和歌集。平安時代につづいて勅撰和歌集(天皇が作れ、と命令してつくられた和歌集)は存在してて、朝廷にいる貴族たちがつくった勅撰和歌集が鎌倉時代にもあるの。

それが、藤原定家(ふじわらのさだいえ)が中心となってまとめた「新古今和歌集」」

「平安時代の「古今和歌集」に「新」がついたんだね。」

「そうね。あと、入試には出ないんだけど、この「新古今和歌集」をまとめた藤原定家が編集したもので、もっとみんなに知られているものがあるの。それは、小倉百人一首という、百人一首の中で最もメジャーなものなの。」

「あ、ぼく、正月によくやるよ!」

「あの百人一首は、藤原定家さんがつくったんだァ。」

「あと、随筆で、吉田兼好(兼好法師)が作った「徒然草」や、鴨長明の「方丈記」があるわ。

 この二つはあまり言葉を書かせる問題は出ないんだけど、
「徒然草」が鎌倉時代のもの・・ということがわからないと問題が解けないものもあるので、
この2つの作品及び作者が鎌倉時代のものだということは覚えておいてね。」

「はーい。」

「あとは絵画。

このころの絵画での肖像画(人物画)は、その人物に似せて描こうとした写生的なものが多いの。
そのような肖像画のことを、似絵(にせえ)というわ
よくみんなが見る源頼朝の肖像画もそれね。(一説には、あの絵は頼朝像ではないという説はありますが、似絵であることにはかわりありません。)」

「はーい。」

「以上ね。文化・生活はこの下にまとめておいたから見ておいてね。」

「長かった・・・。」

「新しい政治体制だったもので、どうしても説明が長くなってしまうのよね。  ではでは起立・礼!」

「ありがとうございました!」

キンコーンカンコーン

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わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不快な気持ちになった方には申し訳ありません。


歴史模擬授業(第15回 鎌倉時代)②-3

2010年10月17日 12時08分58秒 | 歴史☆模擬授業

さきほどの記事(歴史模擬授業第15回鎌倉時代 ②-2)の続きです。
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「さて、これで鎌倉幕府全体の仕組みはわかったかな!」

「難しいけど・・・はい、なんとか・・・。」

「では、次は、この鎌倉幕府がどのような歴史を歩んでいったのかを見ていきましょう。」

「はーい。」

「まず、一代目将軍の源頼朝、そして2代目、3代目の源実朝(みなもとのさねとも)と
源氏による政治が続いて行ったんだけど、3代目の源実朝が死んでしまい、源氏の家系が絶えてしまうの。」

「あらら・・。」

「そこで、どうするかというと・・・、さきほどの幕府の仕組みで出てきた将軍の補佐役の・・・。」

執権!」

「そう、執権が中心となって政治をするようになったの。名目上の将軍は立ててはあるんだけど、将軍はただのお飾りなのよ。

 その執権が中心となっておこなった政治のことを、執権政治と言います。
そして、その執権の地位についた一族が北条(ほうじょう)という一族。
頼朝の奥さんは北条政子というんだけど、その奥さんの家系が源氏にかわって幕府を動かしていくことになるの。」

「ほえー。」



「また、源氏が絶えるなど、色々と幕府が混乱していたから、それに乗じて、幕府を倒そうと思った人たちがいたの。」

「え?そうなの?」

「よく考えてごらん。幕府に不満があるのって・・・、幕府は武士中心の政治をするでしょ・・・それで幕府ができる以前は違う人たちが政治を動かしていて・・その人たちは幕府に心から賛成しているわけではないから・・・。」

「あ!わかった!朝廷だ!天皇率いる朝廷!」

「そういうこと!天皇ではなく上皇なんですが、上皇がついに、幕府を倒そうと動き出します。

それが1221年承久の乱というもの。
承久の乱を起こした天皇は、後鳥羽上皇。」

「成功したのかな?」

「「乱」という文字がつく場合は、世の中が乱れてるときの戦い名なんだけど、たいがい、起こした側が失敗するときによく「乱」はつけられるの。(絶対ではないけれど)」

「・・・ということは、後鳥羽上皇が失敗した。」

「うん。それで、上皇は、隠岐(おき:中国地方の島)に島流しになったの。」

「将軍が絶えて混乱状態だったのに、よく幕府が勝ったよね。」


「このときに、さっきの「御恩」と「奉公」の関係が力を発揮するの!」

「あ、「奉公」って、たしか・・幕府に何かあったときのために幕府のために戦え!ってやつ!」

「その「幕府におきた何か」が「承久の乱」だったのね。」

「そうなの。頼朝の奥さんの北条政子がそのときに言ったことばが有名なんだ。
「亡き頼朝が君たち御家人にしてやったことを忘れたか?!その深い情けをわすれて、京都(後鳥羽上皇)に味方するのか、幕府につかえるのか、どっちだ!」という内容でね。(意訳です。)」

「それで、御家人たちは、御恩に報いるために、一所懸命(一生懸命)がんばって戦ったのね。」

「こう考えると、相手に何かをしたことや制度をつくることって大切よね。自分がいなくなっても、それが後々、機能してくるんだから。」

「そうなのよね。ではでは、承久の乱で御家人たちの活躍で勝った幕府。
そして、また同じような反乱がおきないように、京都の朝廷を監視する機関を京都に置くようにしたの
その機関を六波羅探題(ろくはらたんだい)というの。」

「あ、さっきの幕府の仕組みに書いてあったやつね。」

「うん、もう一度、参考のために、幕府の仕組みをここでみてみようか。」



「この六波羅探題なんだけど、
入試で、「何の事件のあとで六波羅探題は置かれたか」とか「承久の乱のあとで置かれたものは何か。」とか
「六波羅探題とは何か説明せよ。」とか、いろんなパターンでよく出るから、よーく、覚えておいてね。」

「はーい。」

「それで、そのあと、さっき話した執権政治が続いていくの。それで、習う執権が2人出るから、覚えてね。

 まず、一人目は、北条泰時(ほうじょうやすとき)。彼は、武士の慣習(風習・行動様式)をまとめて、武士の初めての法律をつくったの。それが御成敗式目(ごせいばいしきもく)というもの。」

「武士も、やっとここで法律ができたんだね。」

「天皇たちの朝廷の法律とかは、大宝律令などの法律があったけど、武士では初めてなの。
      つまり、法律をつくれるぐらい、もう武士の政治機関もまとまってきたってことね。」

     そして、そのあと、覚えておいてほしい執権は、北条時宗
    彼が執権の地位についていたときには、外国が攻めてきて、大変だったの。
     ・・ということで、その当時(前後)からの外国の状況を説明するね。」


「久々に国際的な話になったね。」


「13世紀のはじめごろに、モンゴル民族が大きな帝国を築いたの。最終的にはアジアの大半とヨーロッパの一部まで広がった一大帝国を。」

「うわ!でちゃでかい!(とても大きい!)」

「その大きな帝国を、モンゴル帝国と言って、その帝国を築いたのが、チンギス=ハンという人物。

そして、チンギス=ハンの息子たちがどんどん領土を拡大していったの。
でも、あまりに領土が広がりすぎちゃったから、そのあとで、チンギス=ハンの4人の息子たちの一族たちでそれぞれ領土を分けて、それぞれの領地に名前をつけて、統治することになった。

そのときに中国の地域を支配したのがフビライ=ハンという人で、その領地を「としたの。」

「「元」は繁栄を極めていたそうよ。その当時、イタリア人のマルコ=ポーロという人が元に来て、フビライ=ハンと会って、いろいろな話を聞き、「東方見聞録(『世界の記述』)」と文書も残っているわ。
その「東方見聞録」に書いてあったことが、後々の江戸末期~明治に関係してくるの。

なぜかというと、彼が日本を「黄金の国ジパング」と記述したことから、後々のヨーロッパ人は「日本には金がたくさんある!」と思い込んで、日本をほしい!と思うようになったという説もあるの。」


「へー、そうつながっていくんだ。」

「では話を戻すね。元のフビライ=ハンは、さらに元の領土を増やしていこうとして、アジアの色々な国を攻めていくの。そしてもちろん日本にも来た。」

「あ、それが、北条時宗が執権をしていたとき?」

「そういうこと!その元が日本に攻めてきたことを「元寇(げんこう)」と言うの。2回にわたって元は攻めてきたので、1つ1つの戦いで言うと、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)。」

「それで、日本は大丈夫だったの?」

「2回とも暴風雨におそわれたために、元軍は退いたの。なので、日本は自然現象のおかげで、元に支配されなかったの。」

「神風だ!かみかぜ!」

「うん。まさに神風だね。この元寇のときの暴風雨を「神風」というのよ。」

「あ?そうなの!」

「日常で使っている言葉で、歴史に関係していることっていろいろあるんだね~。」

「この戦いで、元の集団での攻め方や、火薬に日本軍は苦戦したそうよ。
    なにせ、初めて見る兵器(戦法)だったからね。」

「そうなんだ・・。」

「この元寇で元に日本は支配はされなかったんだけど、これが結果的に鎌倉幕府の終わるきっかけになるの。」


「え!?」

「さっき、承久の乱では、御恩と奉公のおかげで勝ってよかった!という話があったでしょ。元寇のときだって、同じで、御家人たちは幕府を守るために必死に戦った。多くの費用も使った。戦いがおわったあとの御恩を期待した人だっていたはずよ。
しかし、元寇が終了したあとに、幕府はがんばった御家人たちに十分な恩賞を与えることができなかったの。」

「うわ・・、じゃあ、戦い損じゃん!」

「そうなの。だから、御家人は幕府に対する不満が高まったの。
さらに、借金を抱えている御家人たちだっていたから、さあ大変。」

「わあ。そりゃ大変だ!」

「それで、幕府は、じゃあ御家人の借金を帳消しにすれば何とかなるかも・・と思い、
 借金帳消しの命令を出したの。

借金を帳消しにする命令を徳政令(とくせいれい)と言って、

この時期の1297年に出した徳政令を「永仁の徳政令」というの。」

「それで、万事オッケーになったの?」

「ううん。効果は一時的なもので、逆に社会は混乱して、幕府は信用をなくしてしまったそうよ。」

「借金があるってことは、お金を貸している人もいるってことで、徳政令のせいで、その貸した人は困るもんね。」

「それで、ついに、1333年に、鎌倉幕府は滅亡してしまうの

楠木正成(くすのきまさしげ)・足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)と、
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)によってね・・。」

「御恩と奉公のおかげで、承久の乱のときは幕府は存続し、最後は、それが仇となったんだ・・。」

「滅亡の詳しいことは、次の室町時代に行うわね。」

「はーい。」

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文字数が多くなってしまったので、もうひとつ別の記事(②-4)で行います。

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わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不快な気持ちになった方には申し訳ありません。


歴史模擬授業(第15回 鎌倉時代)②-2

2010年10月17日 12時08分13秒 | 歴史☆模擬授業

先ほどの記事の続きです。(歴史模擬授業 鎌倉時代 ②-1の続き)

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「さて、では今度は、源頼朝がどのように政治をしていったかを見ましょう。」

「はい!」

「頼朝は平氏と違い、朝廷にあったもともとの権力にすがろうとしないで新しい権力をつくるの。

頼朝は、朝廷から征夷大将軍という役職をもらい、
朝廷とは別の、幕府という新設の政治機関をつくって、そこで政治を始めるの。」

「え?え?むずかしいよ。」

「征夷大将軍っていう言葉聞いたことあるんだけど。」

「うん、平安時代に習っているよ。漢字を見て、思い出さない?」

「あ!思い出した!蝦夷(東北)を平定する役割だ!坂上田村麻呂が征夷大将軍になっていたよね。」


「そうそう。その征夷大将軍に頼朝もなったんだけど、
 坂上田村麻呂のただの兵士としての将軍ではなく、政治権力まで握る将軍になったの。」

「ほえー。それを朝廷が許すほど、源頼朝は強くなっていたんだね。」

「そうね。下の図で朝廷と幕府の違いを解説するわ。」






「政治をする権力を政権というの。
その政権をもともと持っていたのは、古墳時代の大和朝廷の血をひく天皇家率いる朝廷だったの。
藤原氏が摂政・関白で政治を動かそうが、上皇が院政しようが、平氏が太政大臣の役割をもとうが、あくまで名目上は天皇がトップだったし、朝廷内だけの権力闘争の話だったわ。

しかし、幕府は朝廷とは全然違って、朝廷から政権だけもらい、
武士から成り立つ新しい政治機関(幕府)として政治をするの。」

「え?じゃあ、朝廷は幕府ができたからなくなっちゃったの?」

「ううん。これが、日本独特なのよね。他の国だと、新しい政治機関ができると、それまでの政治機関って滅ぼされることが多い。でも、日本は、「天皇は神の子孫だ」という信仰も根強く、朝廷は朝廷として残して、政治をしよう、ってことになったみたい。」

「今もそうだよね。朝廷って言葉じゃないけど、天皇家は続いていて、政治をするのは内閣で。」

「お!よく知ってるね。そうなのよね。幕府の将軍は世襲制(一族でついで)で、内閣は毎回選挙で選ばれるところは違うけど(国会議員を選んでという感じで)、イメージとしてそう考えるのは良いわね。」

「えへへ。」


源頼朝は、1192年に、源氏にゆかりのある鎌倉(神奈川県)で、鎌倉幕府を開くの。
   鎌倉の地に幕府を置いたのには、ちゃんと意味があるの。」

「そうなの?」

「うん。さあ、下の図を見て。これは、鎌倉幕府を上から見た模式図なんだけど・・。」





「あ、海と山に囲まれている!」

「そうそう。つまり・・それって・・。」

「あ、守られている?自然で。」


「そういうこと!今みたいに、戦闘機のように上から攻撃できる兵器はないでしょ。」

「ということは、徒歩か馬に乗るか、船か・・だよね、交通手段は。」

「そうそう。それで幕府を攻撃しようにも、馬で山を歩くのは大変。船だとすぐ気がつかれる。
    しかも、切通しという狭い道でしか鎌倉に入れなかったから、重装備では鎌倉に入れない
    し、そこを通ったら、幕府の役人にすぐ気がつかれるしね。」

「そうかー。頼朝さんも色々考えているんだね。」

「よく、愛知県の私立中学入試の記述問題で、
    「なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたのか。」という問題がでることがあるんだけど、
    その場合は
    「三方を山でのこりの一方を海で囲まれていて敵に攻撃されにくいという地形的利点があるから。」   という内容を書けばオッケーよ。」


「さて、次は、将軍源頼朝と、その仲間たちとの関係を見ていくわね。
彼らの武士たちたちの上下関係は、シビアな関係というかドライな関係だったのよね。
天皇と貴族の結びつきは血縁関係および精神的な結びつき、という形だと極端な言い方をすれば、
将軍と部下の武士たちの結びつきは、実用的な土地・地位による結びつきだったの。」

「今の会社みたいなもの?給料や会社での役職(仕事)をもらうかわりに、会社につくす、みたいな?」

「お!おもしろいたとえするね。たしかに、現代に即して考えてみるとわかりやすいかも?

 天皇・貴族は今の家族の親子関係、将軍・武士は今の会社での社長・社員関係だと言えるかもね。(注意;わかりやすく説明するためです。明確には違います。
 子は親の言うことは(ある程度)聞くけど、社員は社長のことを聞きたくなければ聞かないものね(それではクビになることはあるけど)。」

「じゃあ、天皇と貴族は結びついちゃったら、ある程度何ももらえなくても結びつきは続くけど、将軍と武士は、気にいらないことが
あれば、関係がきれちゃうじゃん!」

「うん。だから、鎌倉幕府は、次のように、部下たちとの関係を明確にし、結びつきを強くしていったの。」

    まず、幕府(将軍)に味方する武士たち、つまり頼朝と主従関係を結んだ武士を御家人というので、
    覚えてね。 御家人という言葉が出てきたら、鎌倉幕府の味方の武士たち!と思ってね。

    そして、将軍と御家人は次の図のような関係を結びます。」


 



「このように、土地(領地)や守護・地頭の役職を御家人に与えるかわりに、御家人は幕府に忠誠をつくして、
 幕府に何かあったときに助けてね!という領地を仲立ちにした実用的な関係になったの。

 この将軍が御家人に領地などをあげることを御恩御家人が幕府のために戦うことを奉公と言います
 そして、このような主従関係で結ばれた社会のしくみを封建制度というの。

  封建制度の形は幕府というものが存在している限り続く。つまり江戸時代まで封建制度は続くよ。」

「へー。」

「あと、この関係から生まれた言葉があるの。1つのところを必死に守るってことから・・・「一所懸命」っていう言葉が生まれたの。それが後に「一生懸命」という言葉になったの。」

「びっくり!」

「この「一所懸命」は愛知県の私立入試でも出たことがあるので、覚えておいてね!また、あとで、この御恩と奉公の関係が出てくる大きな事件があるので、忘れずにね!」

「はーい。」







「そして、幕府の政治のしくみを整えていくの。下の図を見てみて。」




「鎌倉幕府は、実質的で簡単なものだったそうよ。」

「いまだかつて存在していなかった新しいものもんね。実質的にちゃんと機能しなきゃ意味ないもの。」

「一番トップは、もちろん・・・」

「征夷大将軍!」

「そう!征夷大将軍。略して将軍ね。将軍は、源頼朝の一族、つまり源氏が継ぐことになるの。


   そして、その将軍の補佐をするのが、執権(しっけん)ね。
   執権については、後でまた出てくるから、覚えておいてね。」

「はーい。」

「あとは、中央と全体の統率機関と、各地方ごとにそれぞれおかれた機関があるの。

 

    まず、鎌倉幕府のある中央では・・・

   侍所(さむらいどころ)、政所(まんどころ)、問注所(もんちゅうじょ)の3つ。

 侍所は、御家人(武士)の取り締まりや軍事・警察の役割をするの。 
 侍所は漢字を見ると・・・侍ってことだから・・・侍は武術・軍事関係をするから・・軍事は戦争をして国を守り、ふだんの生活で国(国民)を守るのが警察・・・と関連付けると仕事内容がすこしは分かりやすいかな?

 あと、政所の「政」という漢字からどういう機関か想像できるかな?」

 「政・・政治?読み方は違うけど・・。」

 「正解!そう、政所(まんどころ)は、政治をするところなの

  そして、最後の問注所は問いただすところ・・・相手に問いただす政治機関・・・と考えると楽かな?
  問注所は裁判をするところです。」

 「漢字で考えるのは大切だね。」

 「そして、地方の方を見るね。置いた場所ごとに役職が違ってくるの。
     
     国ごとに置いたのが、守護荘園ごとに置いたのが地頭。」

 「荘園って個人の所有地(私有地)だったよね。寺社や貴族も持っていた・・。」

 「そうそう。
     
    地方を全体的に統括(とうかつ)したのが守護で、仕事内容は、中央の侍所のスモール(地方)版。
    侍所が全体的な御家人(もしくは大手の御家人)の取り締まりなのに対して、守護は自分の国内の御家   
     人の取り締まり&軍事・警察、が仕事になるの


    そして、荘園ごとにおいた地頭は、その土地の管理とか年貢の取り立て&警察のお仕事をします
    守護の個人宅見はりバージョンみたいな感じね。」

「そういう風に、考えると少し楽かも?」


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文字数の関係で、もう1つ別の記事(15回 ②-3)を作って、アップいたします。


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わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不快な気持ちになった方には申し訳ありません。





歴史模擬授業(第15回 鎌倉時代)②-1

2010年10月17日 12時07分45秒 | 歴史☆模擬授業
今回は歴史模擬授業15回目です。鎌倉時代です。(詳細は、もう1つ前の記事をご覧ください)

鎌倉時代は、平安時代の源平合戦の時期から続いている内容なので、

もういちど平安末期からの説明をし、平安末期よりもより詳しくみていきます。

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キンコーンカンコーン

「さて、今日は鎌倉時代・・・とその前に恒例の前回の復習。

しかも、前の内容をさらに付け加えていく形にするわよー。」

「なんで?」

「鎌倉時代と、平安末期は大きなつながりがあるから、そこから説明した方がわかりやすいんだ。」

「あ、そうなんだ。そうだよね。その時代に生きている人は、「今日から鎌倉時代が始まりました~」て言われて鎌倉時代を始めたわけじゃないもんね。」

「○○時代っていうのは、現代の私たちが少しでも理解しやすいように、分類しているだけだもんね。」

 「そうそう。では、平安末期の源平合戦のころから行くわね。

    下の史料を見てみて。

    源平合戦とは、源氏と平氏の戦いの総称で、

     実際には、何度か戦いをしているの。」





「そうだよね。一回じゃ決着つかないよね。」

「さて、うえの史料を詳しく見る前に、復習!平治の乱で負けた人って誰だっけ?」

源義朝だったよね・・。」

「正解!では、義朝の子供で習ったのは?」

 源頼朝義経!頼朝の方がお兄さんだったよね。」

「そうそう!平治の乱以降は平氏が朝廷の政権を握ったんだけど、平氏は、藤原氏と同じように天皇家と婚姻関係を結んでいって・・・。」

「たしか・・・、それまで力を握っていた摂政・関白をしていた藤原氏には不満があったんだよね。」

「天皇家だって、平家の人形になることを、全員が望んでいたわけではないよね。」

「あと、平氏が結局貴族と同じような政治をしていたから、武士たちは「それじゃあ!平氏が貴族の仲間入りしただけじゃん!」と思って、不満タラタラだったんだよね。」

「みんな、よく覚えているね♪

武士の生活は豊かではないので、平氏が政権を握ったら、すこしは武士のための政治をしてくれるかな~と期待している人もいたかもしれないんだけど、平氏は自分たちが貴族たちの仲間入りして自分たちのことばかり考えている人が多かったようなの。」

「それじゃあ、源義朝の子供たちが大きくなったら、平氏の政治に不満を持っている武士たちと一緒に平氏を倒そうとするのはわかる気がする。」

「そうそう、それで源頼朝は1180年に石橋山の戦いで平氏と戦うんだけど・・・、負けちゃうんだよね。」

「負けちゃったんだ・・。」

「頼朝はあまり軍事関係は得意じゃなかったみたい。それでも戦っていって、結果的に負けなかったこともあったみたいなんだけど、ある人物が登場することによって、源氏が次々と勝っていくの。」

「あ・・それがもしかして弟の・・義経?」

「そうなの。源義経は軍事能力には長けていたので、次々と勝っていくの。

   有名な戦いに、1184年の一の谷の戦い、1185年の屋島の合戦、そして壇ノ浦の戦いがあるわ。」

「上の史料を見ると、だんだんと南の方に戦いが移っていくね。」

「それは何を意味するのかな?」

「平氏が逃げながら戦っているってこと?天皇のいる京都に政権を握っていた平氏たちは多くいたけど、京都から逃げたってことだよね。」

「そうそう。一の谷では、前方には海、後方には山があるから大丈夫だ!と言って気が緩んでいた平氏たちをびっくりさせるような戦い方をしたので有名。なんと、義経たちは山から突撃してきたの。」

「まさか、その日に源氏が攻めてくるとは思わないから、平氏もびっくしただろうね~。」

「そうなの。それで不意をつかれた平氏は負け、源義経が勝利したのよね。」

 「へー。義経の作戦勝ちだね。」

「そして屋島の合戦などを経て、ついに最終決戦。」

「山口県の壇ノ浦の戦いだね。」

「そう。しかし、ここで義経は、大きな失敗をしてしまうの。」

「?」
「平家が政治権力を握っているのは好ましくない、
ってことで源氏は戦っているはずで、平氏そのものを全員殺す必要はないよね。」

「うん。たしかに。平氏が弱くなればいいだけのこと・・。」

「でも、壇ノ浦の戦いで結果的に平氏を滅ぼしてしまうの

しかも、一緒に逃げていた天皇まで一緒に死んでしまって。
まだ天皇はまだ小さい子だったので、よくわからないまま、入水(水に自ら入って死ぬこと。)したそうよ。」

「やりすぎちゃったのね。」

「うん。さらに、義経は、兄の頼朝に無断で天皇から位をもらったりして、ついに頼朝が怒るの。

   「何をやってるんだ!平家を滅ぼし、天皇まで殺してしまって!また無断で位ももらいおって」
(平家滅亡よりも位を義経がもらったことで、自分主導の政治ができないことが頼朝の一番のネックだったと
一説には言われています。)」

「義経はそれでどうしたの?」

「義経からしたら、頼朝の言っていることが不思議なの。「だって、父を殺したのは平氏。だから僕は仇打ちをしただけです。それに、ほら、ぼくが正しいということで、天皇に位を頂けたし!お兄さんほめてよ!」と思うの。」

「たしかに、そういえばそうね・・。それがよいかは別として。」

「さらに頼朝は、
「天皇から位をもらってよろこべと!

おまえは、なぜ俺が平氏を倒そうとしたかわかっているのか?
俺は、平氏とか源氏とかひっくるめて武士という身分の生活が豊かになるために、そうしたんだ!
おまえがやろうとしているのは、平氏が持っていた地位がそのまま源氏にかわっただけで、
これじゃあ、平氏と全然かわんないだろ!」とね。」

「うーん。ビジョンの違いなのね。父の仇打ちとしてなのか、これからの武士の未来を考えてなのか・・と。」


「そうなの。それで、頼朝は義経を追い出すの。平家討伐の英雄の義経は人気があったから、自分の描く武士の未来には邪魔だったのよ。」

「兄弟なのに・・。」

「当時は兄弟で争うことなんてよくあったから、不思議ではないと言えばないのよ。そして、義経は逃げて、最終的に、奥州の平泉というところで殺されたの。」

「きびしい世の中だったんだね。」

「そうね。ちなみにわかりやすい説明をしただけなので、実際に頼朝・義経がこういう会話をしたわけじゃない(実際には会っていない)し、頼朝の義経討伐の理由はさまざまな説があるので・・。」

「はい♪誰にも指摘されないようにしてほんわかした輪郭の見えない授業より 1つの筋をたててもらえたほうが、理解しやすいから、大丈夫だよ、先生。」

「そう言ってもらえるとうれしいわ。では、次は、頼朝がどのように政治権力を握っていくかをやっていくわ。」

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文字数の関係で、別の記事(②-2)で続きを書きます。

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わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不
平氏については、悪気があってこのように書いたわけではありません。平家も大好きで尊敬しているところもあります。
不快な気持ちになった方には大変申し訳ありません。