今日はうれしいことがありました。それはトイレの掃除ができていて、きれいだったことです。実は船橋に行くまでは、某教会の牧師でしたが、この教会でわたしは密かに
特命を所有していました。男子トイレ掃除という特命でした。
トイレ掃除を進んでする人は、少ない?かも知れません。特に不特定多数の人が使うトイレとなればそうでしょう。某教会の男子トイレは最初、そんな感じでした。聖書には、
「からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。」 (第1コリント12:22~23)
とありますが、教会堂の中でトイレというのは、「ことさらに尊ばれる」べきだとわたしは思っています。そこで神さまに祈り、牧師であるわたしが密かに引き受けた特別な使命として、「男子トイレ清掃」を選びました。続けていると一人の青年が協力してくれたり、いろいろ感謝なことがあり、代わる代わるずっと教会を離任するまで続けられました。そして離任にあたっては、ただ一つ、後継の心配だけを残して・・・・去りました。
今日は誰か分かりませんが、わたしの時以上の輝きを男子トイレ便器が放っているのを見ました。うれしくて嬉しくて、ちょっとだけ涙が出そうになりました。トイレはこころを表すんです。神さまに、伝わっていることを感謝しました。 (ケパ)