「神は愛なり」
むかしのことで恐縮だが、小原国芳という、玉川学園の創始者がまだ生きていておられて、たぶん最後の講演を、全国からのスクーリング受講者が集う夏に行われた。教員になるために通信教育で単位取得にいそしんでいたが、スクーリングという、実際に玉川の丘に集ってでないと取れないいくつかの必須教科があった。ほぼ40日、毎日講義を詰め込まれたが、そんな全国の教員の卵に向け、創始者は最後の息吹を吹き込もうとしていた。
講演後、小原氏のもとに多くの者がサインをしてもらいに行くから、私も並んだ。大抵は著書にサインをしてもらうのだが、わたしは持参していた聖書にサインを頼んだ。今でも忘れないが、その差し出された聖書にマジックで大きく「God is Love 小原国芳」とサインしてくださった。
それからである、「神は愛なり」をいつも考えるようになった。クリスチャンであるから、言葉はもちろん知っているし、聖書の重要な内容であることもわかっている。しかし、このことばを自分で体験をしていないこともわかっていた。そしてそれがきっと決定的に重要なことだということも・・・・・・。
それから1/4半世紀後、長い月日をかけて家庭は崩壊し、自分を築いて来たあらゆるものを失って、最後に自分までなくしそうになった時、「God is Love」を体験した。
「(神である)私が(野壺の肥だめの中、ウジ虫で腐敗中であった)あなたを、どんなにか愛していることか。あなたが私を求めないからです。」そう言う感じで・・・・。その通り、私は神を心から求めたことは、無かったのかも知れない。そして神はその聖なる御手を汚い汚物の中に差し入れられ、私は瀕死の状態で救い出された。私は涙が出る前に体ががたがた震え、まさに嗚咽状態で神の愛を知らされた。神は人格をお持ちで、それは愛そのものだった。
五十歳のその体験から、私の人生は180度回転した。もう迷うもの、何ものも私を引き留めるものは無かった。神の愛に応えたい、このような者でも、どうかお役に立ちたい、それしか考えなくなっていた。今もその時と変わらず・・・・・私は同じ幸せで、喜びにあふれている。 ケパ