ドルカスの実家に行くと、たいてい夕食時に義兄に「酒をつきあえ」と言われる。「酒が飲めないわけではないのに、どうして飲まないのか?つきあいが悪い奴だ」と思うようだ。
かつて私にも酒を飲んでいた時代が長くあって、酒をまったく飲まない人と同席するのは苦手だった。よく知らない人がしらふで自分の話を聞くかと思うと、「酒席での打ち解けた話」とはならない。そう思うと緊張するし、酔いも飛んでしまう。だからできれば同席は避けたい相手だ。
そういうわけで義兄の気持ちもよくわかるのだが、固辞している。どうしてクリスチャンは酒・タバコを飲まないのだろうか?(※すべてのクリスチャンが禁酒禁煙をしているわけではありません。)
多神教の神々は、人間と取引(豊作のための○○奉納、合格祈願のための賽銭)をし、また人間の個々の日常生活にまであれこれ規制することはない。しかしキリスト教はこの点がまったく異なる。もしクリスチャンになって、その人の品性に何の変化も見られなかったとしたら、その信仰は大いに疑わしいのだ。
クリスチャンとなった者が相変わらず浮気のようなことを続け、酒を飲み、心に淫らな思いが払拭できず、高慢であるならば、信じた者にあらわれる神の力はその人にはないと言うしかない。「神の力」とは永遠のいのちへ導く(エペソ1:19、ヨハネ3:15-16、5:26、1ヨハネ5:5)もので、世の力に勝利するものだ。
酒やタバコそのものがいけないのではないし、それを楽しむことがすべて悪いとは私は思わない。ではクリスチャンは品行方正をめざして禁酒禁煙をしようとしているのか、そうならそれを偽善と言う。ある先輩クリスチャンは「アル中などの人々の躓(つまづ)きにならないためだ」と言った。ナルホドと思ったが、でもそんな人がいない教会では必要ない、と思った。長い間、どうして禁酒禁煙なのか、私は堂々巡りを繰り返した。
バプテスマを受けて30年後、聖霊のバプテスマを受けてわかった。臨在(聖霊がその人に留まっている状態)は、タバコや酒からまったく自由にされるのだ。これらは結果として習慣によって、人を縛るものだ。酒が飲めないと話しにくい。タバコがないと落ち着かない。神の聖さが、この人間の弱さの鎖を断ち切り、開放してくださる。だからクリスチャンには必要がないのである。必要のないことは、ふつう、しないのです。
実際,水のバプテスマだけでは苦しくも激しい戦いを余儀なくされるが、聖霊のバプテスマを受けたその時から、タバコも酒も飲むのを忘れてしまって、気がついたら1ヶ月経っていた。その間、なんの酒への要求も感じず、もちろん飲まないからと言って苦しいこともない。不思議だ!と言う証をいくら聞いたことだろう。むろん私自身もそうだった。何の努力も必要ない。牢屋からいきなり釈放されるように、解放されるのだ。二度とあの牢獄に戻りたくない、ただ、そうなのだ。 ケパ