ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

猫を見かけて

2016年05月05日 | ネコのコールと‥‥
暖かくなって、猫たちをいろいろ見かけるようになった。昨夜も自宅へ歩いていると、婦人の後を猫がずっとピタッとついて歩いていた。てっきり猫との散歩?珍しいと思って見ていると、途中で一生懸命ニャアニャアと自分をアピールしていて、どうやら野良で飼い主探しをしているようだった。猫も生きるために、必死である。

船橋では「市民猫」と称して猫を管理しながら、世話をしているところがある。きちんと耳の角を切ってある、去勢済みの猫たちがいた。とは言っても猫は基本的には、家族の一員として人とともに生きるようになっている。だから町でノラ猫を見かけるといつも「大丈夫?」と気になる。野良は例外なく幸せそうな顔をしていなくて、寿命も極端に短い。

子供の頃、堤防や橋の下に捨てられていた犬や猫をなんども拾って帰って、見つかっては「もどしてきなさい!」と叱られた。戻すのは辛かった。猫は基本的に人と共に生きているのだから、捨てる人がいないと、野良は発生しない。殺すに忍びないから捨てる。やりきれない話である。どうして次の飼い主を見つけるまでの責任を取れないのだろうか?

もちろん野良猫同士でたくましく生きて、それで増える、ということはあるかもしれないが、基本、野生の猫はいないわけだから、どこかで市民猫のように、支えている人間の存在があってのノラ猫の命である。この国に野良がいなくなる日が来ることを期待したい。それは人間の責任でもある。(写真はパソコン作業を見守るコール)
ところでコールは、本当に恵まれていた猫だった。私たちの心配は、地震などで避難した際のことや、夫婦が共に携挙されたらどうしょう、ということだった。でもそれは心配ないという示しだったし、事実杞憂であった。最後までコールは、猫の身体をしていた大切な家族の一員であった。
私はコールに上から目線ではなく、言葉が通じない相手だからこそよく観察しようとした。本能ならどんな習性を持っているのだろうか?その場の状況と耳や尻尾の動き、鳴き声を。特に目を見て理解しようとした。その成果か、かなり猫との付き合い方がわかり、意思の交流ができるようになった。ドルカスという師匠がいた面もあるが・・・。
結果、たかが猫どころか、その侮れない知恵と、私たち家族という仲間への猫愛を見た。今夜帰りがけに見た飼い主を探すノラ猫を見、もしかして家族から捨てられたのであれば、それは悲しくて想像ができない。

今日も出かけに、「コール、行ってくるよ」と声をかけそうになった。そして彼の長い毛に顔を埋めて寝そべっていたことを思い出した。いい匂いがした。猫毛アレルギーを発症しそうになっていたこの私が、である。体の症状とは、ある意味、心の体現であるとわかった。猫を捨てる人は、猫と共に自分の心をも捨てている。してみると素晴らしく幸せな時を、私たちはコールと共に過ごしたのだ。 ケパ



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