今NHKの大河ドラマ「真田丸」の次週では、おそらく太閤秀吉の最後になる。思い出すのは、秀吉の辞世の句「露と落ち 露と消へにし わが身かな 浪速(なにわ)のことは 夢のまた夢」である。夢のまた夢・・・・。何という空しさであろうか。
そしてつい最近没した永六輔さんも、加藤登紀子さんに次のような未完の歌詞を残したとNHKが伝えた。 「淋しさには耐えられる 悲しみにも耐えてみよう 苦しさにも耐えてみて 耐えて耐えて 耐えられないのは虚しさ 虚しさ空しさ 虚しさが耐えられるのは ともだち あなた 戦う心」。(下写真は、歌詞の公開を告げたテレビ画面) この二人、だいぶん人物のタイプも時代も違うが、名が通り、成功した人ということだけが共通している。それにしても、成功したはずの人生の終焉を迎えるに当たって、この寂寥(せきりょう)感、に、息が詰まりそうになるではないか。この二人だけでない、人生の多くの成功者につきもののように思える。私たちはこの世での成功を、死後の世界にまでは持って行くことはできず、裸で生まれて・・・・次の世界にもまた、裸で行くのだ。
ではいったい何を持って行ける? と思う時、それはこの世で為したことと、この世でのたましいだけであることがわかる。それなら、この世で自分が為したことが天国に行けるかと問われれば、それは到底不可能だとしか思えないはずだ。なぜなら、少しは善いことや社会に貢献したことがあったとしても、大部分は自己中心の行いであり、それは罪であるからだ。ねたみうらやましいと思う心、物質欲、性的な欲望、人の心を省みない言動・・・・などなど。こう言うと「人は皆そんなものだ」と言うだろうが、どっこい天国は己が選べる道ではなく、審判され許されて行けるところである。ならばこのような道徳的罪人が行くところが天国であるはずもない。それどころか私たちの内に働く「自己正当化」というおめでたい健忘症があって、実際、多くの罪を見事に忘れているものだ。この世で良い思いをした人は、清算された次の世では、その酬い、リバウンドを恐れるのは当然だ。
聖書ではすべての人が罪を犯しており、そのままでは天国に行かれないことを明言している。かつ神を信じるには特に成功者とか賢い人など自分の判断、見識に頼るような人・・・について、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼らには愚かなことだからです(1コリ2:14)」とある。つまり、この世の智者や成功するような賢い人は、なまじっか優れているばかりに、自分に頼って罪を贖うために来られたイエス・キリストを受け入れないと明確に書かれている。
秀吉は自分の権力と知恵に頼った結果、凄惨な朝鮮征伐を起こし、秀次など多くの親族を抹殺し、千利休を殺し、長崎は西坂の丘で26人のカトリック信徒をはりつけにした。全く違うが世を明るくした歌詩の天才も、死後の世までは明るい言葉で照らせなかったのかも知れない。救いの十字架は、この世に望みの無い失敗者、貧しい人々の方が近いもののようだ。
神に献身した真のクリスチャンは、死を恐れないどころか、逆に天の父の父なる神の身許に行ける喜びであふれている。どうして死を前にして虚勢や建前でとりつくれようか。もしあなたに空しさ、死後への恐れがあるとしたら、迷わずあなたの罪の身代わりとなって死んでくださって、すべての罪を十字架で赦し、天にふさわしい罪の無い者としてくださったイエス・キリストを信じて欲しい。その十字架や救いは教会に与えられているものなので、異端ではない正当なキリスト教会に属してほしい。ただ信仰は、立派な会堂や建物にあるのではなくて(えてして逆である)、あくまで中身、信仰そのものが生命線だ。見かけで無く本当の信仰がある教会に導かれて行ってほしい。
こうしてみると人の体に必ず終わりが来るのは、次に来る永遠の世界があることを教えてくれているのだ。神はひとりとして人が滅びる(地獄に行く)ことを望んではおられない。十字架はすべての人のためであることも聖書に明記されている。 ケパ