真に信仰の証を問う映画が出た。肉の命と霊のいのち、そのどちらを選ぶのか?と。これは転びの「沈黙」と対極を為す映画だ。

皇帝ネロは、ローマの大火を当時、新興宗教だったキリスト教徒のせいだと決めつけて(スケープゴート化、実際はローマの都市改造のためにネロが焼き払ったと言われている)、徹底的にジェノサイド(虐殺)を行った。初期のキリスト教徒が受けた迫害でも最大級のもので、パウロは聖書で確かだが、伝承でもペテロまで殉教したとしている。つまりキリスト教最大の両使徒を失った迫害でもあった。
捕らえられたキリスト教徒は、街路灯代わりに街のあちこちで燃やされ(これは事実としても、その強烈な匂いの故、私は実際には街の外れだと思っている)、又はコロッセオで大衆の見せ物としてライオンの餌代わりに殺されて行った。
この映画は大火の首謀者として捕らえられたパウロを、その牢獄にルカが幾度も潜入訪問して、使徒行伝やそのほか、パウロ書簡と呼ばれる口伝筆記をしたとする設定だった。
しかし厳密にはこのルカの役割設定には幾つか無理がある。パウロ書簡や使徒の働きは、その多くがコリントやエペソという長期逗留先で書かれたものであり、遅くともかなり出入り自由であった初期のローマ幽閉時に書かれたものである。時代考証的に映画にマッチするのは、テモテ第二ぐらいである。
まっ、あまり細かいことは言うまい。冒頭に書いた通り、これは真に信仰を問う、迫真の映画であって、ご利益宗教的に教会に通っている自称クリスチャンには、ハードルが高い映画である。映画でルカがコロッセオで囚われている同信の友に語っている「殉教の死は一瞬であり、その先に永遠のいのちが待っている」は真実である。実際今でも、クリスチャンは世と永遠のいのち、その両方を選ぶことはできない。
試写会で泣いている人もいたが、私たちの群れ、主の十字架クリスチャンセンターの人は泣かないだろうと思う。常日頃から殉教の祈りをし、備えている群れなので、これは当然起こることとして、覚悟しているのだから。
とは言え、この映画は断然、実際に映画館で観られることをお薦めする。私も経験するのだが、家庭のビデオで観るのは勿体ない映画だ。
しかし1点、どうしても気になるところがある。それはサウロの時代(まだイエス・キリストと出会わず、むしろ迫害者であった時)に、自分が迫害した人々に悪夢で苦しめられるシーンだ。サウロが証人となったステパノの血、ユダヤのあらゆる所でクリスチャンを迫害し、その代表のようないたいけない少女や人々の姿が、しばしば悪夢としてパウロを苦しめていたとして、そのシーンが連続する。しかしこれは明らかに間違っている。
〈あり得ない悪夢〉パウロはキリストにあって罪の赦しを受け、信仰によって義とされることを繰り返し聖書で説いている。その彼がどうしていつまでも、自分が神を知らない時に犯した罪に縛られていることがあるだろうか?そうならばまさに、パウロは不実な嘘つきである。以下、パウロが書いた聖書何カ所を御覧頂き、この映画の誤りを正したいと思う。
"こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。"
(ローマ人への手紙 8章1節)
"この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。"
コロサイ人への手紙 1章14節
"こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。"
ローマ人への手紙 5章1節
"私は以前には、神を冒涜する者、迫する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。"
テモテへの手紙 1章13節
もう一つ。囚人管理のローマ軍の長の娘を癒すエピソードが添えられているが、これが少し疑問である。単に医者としての技術で娘を治しており、そこに何の信仰も祈りもなかった? ただ必要な物を取りに行かせ、医術だけで治しているのである。パウロがルカが癒せると、神に示されたと言うのもハッキリしない。なんじゃらほい?である。
この製作者は明らかに奇跡とか、癒しということを避けている。これは新生し神の力を体験していないと言うことだろう。それとも多数派である福音派を意識して、彼らに迎合してこうなったとでも言うのだろうか?
それでどうして殉教をまともに扱えるのだろうか。それが残念ではある。
以下をクリックすると予告編です。
映画「パウロ」の予告編
ケパ

皇帝ネロは、ローマの大火を当時、新興宗教だったキリスト教徒のせいだと決めつけて(スケープゴート化、実際はローマの都市改造のためにネロが焼き払ったと言われている)、徹底的にジェノサイド(虐殺)を行った。初期のキリスト教徒が受けた迫害でも最大級のもので、パウロは聖書で確かだが、伝承でもペテロまで殉教したとしている。つまりキリスト教最大の両使徒を失った迫害でもあった。
捕らえられたキリスト教徒は、街路灯代わりに街のあちこちで燃やされ(これは事実としても、その強烈な匂いの故、私は実際には街の外れだと思っている)、又はコロッセオで大衆の見せ物としてライオンの餌代わりに殺されて行った。
この映画は大火の首謀者として捕らえられたパウロを、その牢獄にルカが幾度も潜入訪問して、使徒行伝やそのほか、パウロ書簡と呼ばれる口伝筆記をしたとする設定だった。
しかし厳密にはこのルカの役割設定には幾つか無理がある。パウロ書簡や使徒の働きは、その多くがコリントやエペソという長期逗留先で書かれたものであり、遅くともかなり出入り自由であった初期のローマ幽閉時に書かれたものである。時代考証的に映画にマッチするのは、テモテ第二ぐらいである。
まっ、あまり細かいことは言うまい。冒頭に書いた通り、これは真に信仰を問う、迫真の映画であって、ご利益宗教的に教会に通っている自称クリスチャンには、ハードルが高い映画である。映画でルカがコロッセオで囚われている同信の友に語っている「殉教の死は一瞬であり、その先に永遠のいのちが待っている」は真実である。実際今でも、クリスチャンは世と永遠のいのち、その両方を選ぶことはできない。
試写会で泣いている人もいたが、私たちの群れ、主の十字架クリスチャンセンターの人は泣かないだろうと思う。常日頃から殉教の祈りをし、備えている群れなので、これは当然起こることとして、覚悟しているのだから。
とは言え、この映画は断然、実際に映画館で観られることをお薦めする。私も経験するのだが、家庭のビデオで観るのは勿体ない映画だ。
しかし1点、どうしても気になるところがある。それはサウロの時代(まだイエス・キリストと出会わず、むしろ迫害者であった時)に、自分が迫害した人々に悪夢で苦しめられるシーンだ。サウロが証人となったステパノの血、ユダヤのあらゆる所でクリスチャンを迫害し、その代表のようないたいけない少女や人々の姿が、しばしば悪夢としてパウロを苦しめていたとして、そのシーンが連続する。しかしこれは明らかに間違っている。
〈あり得ない悪夢〉パウロはキリストにあって罪の赦しを受け、信仰によって義とされることを繰り返し聖書で説いている。その彼がどうしていつまでも、自分が神を知らない時に犯した罪に縛られていることがあるだろうか?そうならばまさに、パウロは不実な嘘つきである。以下、パウロが書いた聖書何カ所を御覧頂き、この映画の誤りを正したいと思う。
"こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。"
(ローマ人への手紙 8章1節)
"この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。"
コロサイ人への手紙 1章14節
"こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。"
ローマ人への手紙 5章1節
"私は以前には、神を冒涜する者、迫する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。"
テモテへの手紙 1章13節
もう一つ。囚人管理のローマ軍の長の娘を癒すエピソードが添えられているが、これが少し疑問である。単に医者としての技術で娘を治しており、そこに何の信仰も祈りもなかった? ただ必要な物を取りに行かせ、医術だけで治しているのである。パウロがルカが癒せると、神に示されたと言うのもハッキリしない。なんじゃらほい?である。
この製作者は明らかに奇跡とか、癒しということを避けている。これは新生し神の力を体験していないと言うことだろう。それとも多数派である福音派を意識して、彼らに迎合してこうなったとでも言うのだろうか?
それでどうして殉教をまともに扱えるのだろうか。それが残念ではある。
以下をクリックすると予告編です。
映画「パウロ」の予告編
ケパ