ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

クリスチャンの喜び

2019年02月02日 | 使命
この世は競争社会である。そこではその勝者となるために、他より高い能力を持とうと努力することが前提となる。教育の場ですら「自己実現」と、他との比較ではないにせよ、より高い目標への向上意欲が賞賛される。

しかし競争に打ち勝つ勝者は、高校野球のようにほんの一握り。多くの者は疲れ、敗れ、現実に妥協し、下位の目標に甘んじざるを得ない。人間関係もその一つである。しかしそれを受け入れられない人は、不適応に苦しみ、かなりの割合で病を発症することになる。
生きるためには、開き直りとか、ありのままでいい、そう腹をくくることも大切だ。しかし、困ったことに、それが自分に甘やかし、「人間ってそんなもんよ」と本当に自分の喜びを見出せず、糸の切れたあきらめの人生、怠惰になりやすいことだ。

クリスチャンにはこの自己発展とありのままという相反する両者をつなぐものがある。つまり何者にも奪われることのない真の目的、人生だ。

人はクリスチャンになった時、以下の三つを信じている。
①自分が滅ぶべき罪人であること。②キリスト・イエスの十字架の贖いによって、信じるならばその罪がすべて赦されてること。③キリストが復活されたように、天においては住まいがあり、神と共なる永遠のいのちの暮らしがある。
しかしこれがどう、今の現実の自分と異なるのかは、次の一節によく表れている。

"わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。"(マタイの福音書 7章21節 ©️2017)

「みこころを行う」、つまり自分の向上や自分自身の目的とはならず、神の意思を行いたいと心から願い、そのご性質にあずかることが唯一の目的となる。もちろん、自分のは、一切ない。それだけ神を愛し、自分は取るに足りなくなっている。そのことは、以下のみことばにもよく表れている。

"そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。"
(コリント人への手紙 第二 8章5節 ©️2017)

そう、喜んで自分を献げることである。

神がそのいのちを惜しまずに私を愛して十字架にか架かってくださった。そこまでして愛されていることがわかった時、人は自分の醜い真の姿を受け入れることができる。いわば本当の自分・・・愚かでダメな自分自身と和解することができる。開き直りと異なるのは、神のその愛に応えたくなって仕方がないことである。

人の最大の敵は孤独であり、神の愛によって、なぜこの世に自分が生きるのかを知る。みこころを行うことは、自分のためだけに必死に向上するのにはるかに優る大きな価値がある。それ故に人は自分を神に捧げようとし、神の使命に生きることになる。
向上心と開き直りという人間の相反するものが、信仰において一つのものとなり、永遠へと引き上げられて行く。

人は自分の命と体が自分のものではなく、それを創造された元の神に返し、献げて、初めて己から解放される。そして自分が神のものとなった時、神の御心がわかり、それを実現するためにまた、再び走り出すのだ。

ケパ



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