ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

失なってはじめてわかること

2019年02月26日 | 証し

「痛い!」とドルカス。

「どこが?」

「肩、右肩の関節が。」

「関節、じゃあ六十肩でもなさそうだなぁ・・・」と言いつつ、私にはその痛みの経験がないので、ドルカスの痛みを思いやることができない。寄り添って祈ろうにも、どうも迫力が出てこない。とはいえ癒しのお祈りはした。

これは身体の痛みだが、その時なぜか、父の葬儀の時のことを思い出していた。父は長年町政の重責を果たし、在職中に突然逝った。私と言えば弱冠29才で、葬儀では境内を埋め尽くした千人近い人々に、喪主として立ったのだった。それで自宅の外を出歩くと、あちこちの人からお悔やみの声をかけられた。

口上を述べる向こうは父を知っているからだが、受ける私は相手を全く知ってない。父との関係がどれほどあって、それでどれほど悼んでくれているのか、それがわからない私にはどうにもと惑うばかりだった。

そんな中にも「実は最近、私も親を亡くしたばかりで・・・」と語りかけてくれる人がいて、そんな人に対しては私も心を開かさせられた。慰めは、体の痛みのように、同じく痛んだ人でなければなかなか通じるものではないようだ。

家族を失って12年になる。その時痛切に感じたのは、家族の大切さだった。私が学んだのは、信仰を除けば、男が外でどんなに成功しようと、出世しようと、家に帰れば荒んだ家庭、バラバラの家族であれば、そのすべては虚しいということだった。無論私は成功もしなければ、そんな家庭を顧みない男ではなかったはずなのだが、それなのにいちばん大切な家族をすべてを失うことになった。そして痛切に反省したことは、仕事のあまり、家族との時間を大切にしてこなかったことだった。夫婦のすれ違い、それは妻の心の病のせいだったと自己弁護する気は無い。私が家庭を大切にできなかった報いを受け、家族がその犠牲になったのだ。

しかし逆に神しか私に残されていなかったのは、本当に祝福だった。こんな私を神は、十字の愛を持って愛し、待ち続けたと語ってくださった。信じ難いこの神の語りかけ。この愛に比べられるものはない、そうはっきりわかった。

私は捨てられる一切を捨てて、神の導きにより上京して献身。もう一つの語りかけ、「あなたは結婚する」の通りに、上京して一年余りで再婚した。その時私が神に願ったのは、共に時を過ごすことだった。

確かに体が違えば、痛みは分からない。しかし同じ空間と時をつとめて共有することはできる。すると、確かに痛みは分からなくても、痛みを理解し、思いやることはできる。場所と時間を共有する、つまり夫婦はいつも一緒でないとしていけない。そうでないと、世界が異なってしまい、心も異なって理解し思いやる土台が困難である。

ケパ

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