今更ながら、である。教会の大切さを思った。
聖書では教会はキリストの体(からだ)である。キリストの体に例えられた教会は、目や耳、手や足という各肢体の部分となる教会員で構成されている。
※「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です」(1コリ12:27 ©️2017)
体であれば、不要な部分は何一つ無いし、どこか体の一部が怪我をしたり、痛めば、それは即座に全体が痛むのは当然だ。だから教会では互いに助け合うし、祈り合う。(写真は最近訪問した教会)
それ以上に大切なのは、教会は聖書を教え、信仰を育てる母体である。罪を教え、悔い改めの洗礼を授け、証と伝道の器と変えられていく。大切なのは、聖霊を宿す自分を、教会という御体の中にはっきりと属させることだ。教会に属し、その体の部分として立っていないクリスチャンは、例外なく信仰を失うか、挫折して行く。
それはまるで、植物が発芽しても根を張れず、幹とか茎がふにゃふにゃしてしまい、しっかりと立てないでいるようだ。
また伝道という面からも、個人的に伝道しても、本当に相手を思うなら、必ず教会に誘い、教会で牧師を通してのきちんとした信仰を持つ必要がある。(牧師夫妻です)
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教会に属すると言うこと、教会の大切さを知っていることは重要だ。現代ではインターネットが普及し、オンライン会員としての存在も認知されるようになって来た。しかしできるだけ出張や直接行動して、礼拝や集会に機会を捉えて参加する、顔を覚え合うことは必須だと思う。何よりも互いの祈りが異なって来るし、一致が進んでくる。この時代、そのような道具が一般化しているので尚更だ。
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を離れて