ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

狭き門より入れ

2019年05月22日 | 信仰
「狭き門」とは聖書の言葉だが、同時にアンドレ・ジッドの小説名でもある。私はその初めのページに掲げてあるこの聖句を先ず覚えた。そして下にあった「ルカ伝十三章二十四節」に、深い関心を覚えた。
 
私とキリスト教との始まりは私立中学1年、その寄宿舎の中、読書灯を自室ベッドの布団にくるんで読み耽ったこの小説からだった。この小説からキリスト教と語りかける神について、聖書というものについて、初めて知った時になった。(写真は当時のそのものではないが、その後に思い出としてもう一度買い足した「狭き門」。中は紙が茶変し、読みにくく、半世紀以上の時を感じさせる)
閑話休題〜聖書について
当時既に1955年に口語訳聖書が世に出ていたが、この頃はまだ8年ぐらいしか経っておらず、多くの人はまだ文語文聖書だったと思う。今読み返しても文語文聖書は力強く、名訳だと思う。文語文で覚えてしまった御言葉は、日常どうしても口語より、文語の文での方が先に口に出てしまう。
今は新改訳2017の時代だが、発刊されて1年半経っても多くの人はまだ第三版のようだ。私見であるが、2017は文語文聖書と並び称される、日本語聖書の金字塔となる名訳だと私は高く評価する。忠実であろうとして、変な言い回しに陥っていた本文がかなりこなれ、読んでいると意味がストレートに入って来る。こうして違和感のない日本語になるまで、六十年余りの口語訳聖書の年月が、歴史が要ったわけだ。
 
しかしこの2017にこの群れでもなかなか切り替わらないのは、文語文聖書で覚えた言葉がなかなか消えない私のように、慣れ親しみ、覚えた御言葉が変えられてしまうことに、抵抗があるのだろう。
けれども逆に言うなら、どうせ何年かしたらこれに必ず切り替わるのだから、そして2017は多分これから世が終わるくらいまで、半世紀ぐらいは用い続けられるようになるのだから、一刻も早く2017にして、慣れ親しみ、2017で覚えて行った方が良いのではないだろうか。この世に当分、使命がまだ残っているならば。
 
本題に戻る
「狭き門より入れ」の御言葉。ルカ伝から。
イエス教えつつ町々村々を過ぎ、エルサレムに旅し給ふ時、或る人いふ「主よ、救はるる者は少なきか」 。イエス人々に言ひたまふ「力を盡して狭き門より入れ。我なんじらに告ぐ、入らん事を求めて入り能はぬ者おほからん。
 
上記のルカ伝と、マタイ伝の狭き門とでは実はかなり意味が違ってくる。ルカ伝ではいよいよエルサレムに向かう途上での出来事であるが、マタイ伝では、最初の本格宣教である山上の垂訓の続きである。内容もルカ伝では救いの時である門限に間に合うように、との意味合いに受け取れる。しけしマタイ伝では狭い門と広い門(滅びの門)とがあって、選ぶ門そのものの選択が問われているからである。
 
ジッドが選んだのはルカ伝の狭き門だが、私は(自伝的な装いながら、実はかなり虚偽のある)この作品の内容からすると、マタイ伝の方が適切だったのでは思っている。ジッドはあまり聖書を読んではいなかった? さて詮索はそれぐらいにして・・・と。
 
(「狭き門より入れ」のイメージはこれ。茶の湯のにじり戸。頭を下げ、へりくだって距離が取れない狭い部屋に入る。非常に聖書的である)
 
本題〈狭き門より入れ〉
人生にはいくつかの重要な選択をしなければならない。そして人々は合理的で妥当だと思える道を選択をする。いわゆる広い門から入ろうとするのである。
私の人生における最初の仕事は、広い門であった。大学を出て広島に帰っての仕事は、掲示板にある求人表の中で、条件の良いものを選んで入社した。中四国地方では最大手の製版会社であった。 私はそこで幹部候補社員として現場を2年勤め、3年目に営業に回された。得意先周りなどを通して業界の実態を知るにつけ、私は会社と業界の将来性に夢を感じられず、先行きがくらい事を知った。
ついに転職を考えたが、多くの同僚たちは身につけた力を元に、勤めていた同じ業界に転職して行くのを良かれとは思わなかった。
 
この時このジッドの小説の題名でもあり巻頭言でもある「狭き門より入れ」が脳裏に響いた。それで祈っていると面白いもので、それまで決してなりたくはなかった仕事、教師への志が湧いてくるのだった。「あんな偽善的な仕事をよくするよな」から、「金に頭を下げるのではなく、偽善的ではあるけれども、建前に殉じれる珍しい職業」だと。
 
今よりも当時は、教師への道はかなりの狭き門であった。デモシカ先生は私が卒業する数年前の過去のこと、今や不況の時代にあって、教師は競争率十倍以上の難関。地元の教育学部を出ても難しいとされていたのだ。それに免許状すら持たぬ者が、ひょっとして一生涯、日雇い的な臨時採用のリスク覚悟で挑むのである。
 
神の導きは素晴らしく、私は2年で免許状資格を取り、晴れて採用となった。そして私が勤めていたあの製版会社は、なんとそれから20年後、不渡り手形から倒産してしまった。あのまま私が残っていたら、と背筋が凍る思いである。
 
牧師に召されてつくづく思うことに、教師は牧師に最も近い職業であると思う。集団を指導する力、個々の問題に向き合う力、個性や障害と向き合う大切さを学ぶことができた。
今のアルバイトは子どもと向き合う仕事だが、やはり教職経験は役立っている。
神の成されることに無駄がなく、一切を見通されて全てが益に用いられて行くことがわかる。
 
さあ、神を信頼し感謝しよう。
 
ケパ
 
 
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聖会

2019年05月22日 | 聖会・キャンプ・集会
今週はパウロ牧師ご奉仕で月曜日に、郷里の上田から聖会始まり引き続き北陸各地で今日まで開催中です。
 
 
そして、船橋にも連絡が入りました、
6月14日の予定です。
船橋勤労市民センター 地階 第一音楽室
17:45pm〜20:30pm
 
第一セッションは、J.Gospel ミニコンサート
都内中心に全国展開活動中の、おなじみ「GIFTS」
 
第二セッションは、カリスマ聖会
東京から、パウロ秋元師をお迎えして開きます。
(Photoは、いずれも前回の聖会から)
 
私たちはその日のために。祈りと準備始めます。
近隣の方々、ぜひおいで下さい。
 
 
ドルカス
 
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