Happyday of LUCKY

日々の気付きと感謝を忘れないように綴るページ

おじいさんのバルナック

2017年06月30日 | Life
先日、仕事でごいっしょしたカメラマンのIさんは、笑顔を絶やさない好青年でした。幼稚園児の撮影では撮影の技術以前に、顔の表情や声のかけ方が大切で、そのカメラマンと園児との心理的な距離によって、撮れる写真が大きく変わってきます。その意味でIさんの笑顔はとても素敵だと思いました。

昼休みにすこし待ち時間があったのでいろいろ話をしていると、彼はふだんは婚礼を撮っているそうです。結婚式は人生にたった一度のハレの舞台ですから、失敗はゆるされない撮影です。それこそ新郎新婦との心理的な距離感をできるだけ近づけて撮らねばならない。なので、わたしの知っている婚礼を撮るカメラマンはみなさん例外なくいい笑顔をもっています。自然な笑顔というのはカメラマンの必須アイテムなのです。

Iさんは婚礼のほかにもブツ撮りの仕事もしてるというので、若いのにいろんな仕事をされているなあと感心しました。あしたはその撮影があって、クライアントがスタジオに来てその場で画像を確認するらしく、「緊張する」と言ってましたが、彼の話っぷりはどこか楽しげでもありました。この人は写真を撮るのが本当に好きなのだなとわかります。さまざまなタイプのカメラマンがいるけど、やはり仕事の撮影でも楽しんで撮れる人が一番いい仕事をするような気がします。

さいごに彼のおじいさんからもらったというカメラの話になりました。そのカメラはライカのⅢfというもので、わたしも以前使ったことのあるカメラです。いわゆるバルナック型とよばれる小さくてかわいいカメラです。小さいといっても35ミリフィルム(今でいうフルサイズです)を使うカメラで、かつて戦場でキャパが使っていたし、写真の神さまとよばれるブレッソンだって使っていました。小さくてシンプルな機械だけど、性能は非常にいいカメラなのです。
Iさんはそのカメラの独特なフィルムの入れ方をおじいさんから教えてもらっていました。つまり自分でも使ったことがあるということです。なんかバルナックライカを持っているというだけで親近感を抱いてしまいます。

「共謀罪」法に憂う

2017年06月17日 | Life
「共謀罪」の構成要件を改め「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案(以下「共謀罪」法)が、6月15日早朝、参院本会議で可決・成立しました。

昨今の国際情勢を見れば、いつ日本でテロが起こってもふしぎではない。そうしたテロを未然に防ぐためには、計画段階で根絶やしにしていくことが重要であって、そのためのものなのだからこれは必要な法案だと賛成する声もあります。
たしかにテロを計画している組織を罰するのは必要なことでしょうが、注意すべきことは「テロ等準備罪」の「等」に含まれる犯罪についてです。これは「4年以上の懲役または禁錮の刑が定められている罪」すべてについて「共謀」した者を罰する法案で、細かく見ると窃盗、 収賄、傷害、詐欺、恐喝、有印私文書偽造など277の犯罪が「等」に当たります。テロはそのうちの一つです。

わかりやすい例を考えてみました。
いつも上司からパワハラを受けているAさんが同僚のBさんにこんなLINEを送りました。
A「きょうも課長から無理難題をいわれた。あー、もうぜったい無理。いっそ殺してやりたい」
B「よし、こんど課長と飲みに行ったら、酔った勢いで殴ってやろう」

はい、このやりとりは立派な傷害罪になる計画で、Bさんも共謀者です。未遂であっても二人は処罰の対象になるでしょう。LINEなんて捜査機関にまっ先に調べられる危険なツールなので言い逃れできません。
つまり「共謀罪」法はテロ組織だけでなく、なにか悪だくみを相談する二人以上の人間ならだれにでも適用されるおそろしい法案なのです。

じつはこの「共謀罪」法案は過去3回も国会に提出されていますが、野党の猛烈な反対によっていずれも廃案になっています。国民を監視し、えん罪を生む法案として非常に危険なものだからです。それを東京オリンピック開催のためのテロ対策と言い替えて、今国会で強引に可決させたのです(委員会での審議もせずに中間報告でいきなり本会議にかけるという暴挙にはあぜんとした)。
2013年12月の特定秘密保護法案、2015年9月の安保法案につづく、今回の「共謀罪」法案の強行採決というアベシンゾー内閣のめちゃくちゃなやり方は、立憲主義・民主主義の国であるはずの日本の根幹が揺らいでいると言わざるをえません。ありていに言えば、どうせ国民はなにもできないと、アベシンゾーになめられています。

いい歳の大人がだんまりを決めているから子どもたちも動かない。こんなひどい政治をゆるしているわたしたち大人の責任です。なんの生産性もないSNSで時間をつぶしている暇があったら、なにかアクションを起こした方がいいと思い、久しぶりに投稿しました。みなさん腹立たないですか? 僕は腹が立って夜もよく眠れません。

スリランカで考えたこと

2017年03月09日 | Life
先週、妻の友だちの結婚式に招かれて、スリランカへ行ってきました。せっかくなので結婚式のつぎの日から、シーギリアロックに登ったり、カウドゥラ国立公園で野生動物を見ました。また伝統的な家屋にくらす人々の集落で、昔ながらの調理方法でつくったカレーをいただきました。とても美味しかったです。
そのなかで言葉ではいい表せない多くの気づきと学びがあり、いま頭のなかを整理しているところです。うまく言えないのですが、自分の殻が一皮むけたというか、僕が今まで感じていたことの確信が持てたような気がしています。

あるいは僕の人生でなにが大切なことなのか、それがわかったというか。すこし大げさですが、人生の道筋が見えたような気もしています。非常に個人的なことだけど、きっとすべての人たちにも共通するような、そういう普遍的なものなのだろうと思います。
言葉にするととても陳腐に聞こえるので、あえてここには書きません。気づいた人が行動にうつしていけばいいのだと思います。

僕は今年55歳になります。何歳まで生きるのかわからないけれど、若いころのようにたくさん時間があるわけではない。限られた時間をどう使うか、よく考えないとあっという間にタイムアウトです。あれもこれもと欲張ってると、結局なにもできないまま死んでしまうかもしれません。べつにそれでもいいのだけど、とにかく一番やりたいことをできるだけやってから死にたい。そう考えました。




そんなわけで、このブログはしばらくお休みすることにしました。また、なにか書きたくなったら書くかもしれません。

神は存在するか

2017年02月21日 | Life
人間の孤独を癒すものが宗教だとすれば、信じる神さまはキリストでも仏陀でもアッラーであってもいいと思う。神さまとつながっていさえすれば孤独ではないのだから。
無宗教のわたしは毎朝義母の遺影に水とごはんをお供えして「きょうも一日見守ってください」と拝んでいる。そうすることで神的なものが自分をよい方向へ導いてくれるような気持ちになるし、じっさいうまくいっている。困ったときの神頼みではなく、毎日頼んでこそなのである。



聖書すらまともに読んだことのないわたしがキリスト教について語れることはなにもないのだけど、遠藤周作の小説は多少読んでいるので、それを下敷きに軽い話はできると思う。
いま上映中の「沈黙-サイレンス-」の原作はご承知のとおり遠藤周作の「沈黙」であるが、この小説をすでにわたしは2〜3回読んでいる。何度読んでも最後の日記の部分がうまく読めないが、話の内容は江戸時代はじめのキリスト教徒弾圧下の長崎を描いている。

きょう映画を観たが、さすがはマーティン・スコッセシ監督、原作を忠実に再現している。つまり映像的にはかなり残酷なシーンもあるということ。隠れキリシタンが十字架に組んだ木にくくりつけられ、水磔(すいたく)に処せられる場面はむごすぎて正視できないほどだ。
そうした公開処刑は隠れた信者を棄教させるための脅しなのであるが、同時にポルトガルからやってきた宣教師ロドリゴを「転ばせる」ための見せしめでもある。
自分が転びさえすれば、目のまえで苦しんでいる信者たちは救われる。自分の信念のために彼らを見殺しにするか、それとも棄教して助けるか。究極の選択を長崎奉行・井上筑後守はロドリゴに迫る。



その鬼奉行を演じるのはイッセー尾形であるが、彼の演技がすばらしい。ロドリゴが師と仰ぐフェレイラを棄教に追いこんだ「井上さま」が、鬼の形相ではなく好々爺然としているので、はじめロドリゴはこの人が井上奉行だとは気がつかなかった。彼が「早く井上さまに会わせてくれ」と懇願して失笑をかう場面があるが、この善悪の範疇を超えた井上奉行の存在こそ、この作品の要だと感じた。

さらにもう一人、存在感を放っていたのは窪塚洋介演じるキチジローだ。キチジローは自分の心のよわさから踏み絵を踏み、潜伏するロドリゴたちの居場所まで密告してしまう。だが彼は捉えられたロドリゴの前にひざまずき、その罪を告白してゆるしを乞う。何度も棄教しては告悔する彼の姿が描かれているが、こんなに醜悪な生きざまであっても、さいごまで信仰は棄てていなかったことが、逆にキチジローのつよさなのかと思った。

この「沈黙」という作品はキリスト教がモチーフになっているが、信仰を説いているのではなく、人間ならだれもが持っている「よわさ」「迷い」「正直さ」といった素朴な感情をゆさぶってくるので、だれが観てもいいと思う。いや、この不安に満ちた時代だからこそ、観るべき作品なのかもしれない。

技術革新がもたらした表現

2017年02月18日 | Photography
いつの時代も技術革新によってあたらしい表現が生まれてくる。
15世紀にヨーロッパのガラス職人が、ガラスにスズと水銀の合金を塗って「鏡」をつくりだした。この技術によってレンブラントをはじめとするルネッサンス期の画家たちは自画像を描きはじめる。よく映る鏡がまだなかった時代には、自分をモチーフとするような絵画もなかったのである。

時代はすすみ19世紀のはじめ、絵画よりもっと正確・精密に描写できる「写真」という技術が発明されると、肖像画を描いてもらっていたブルジョワたちはこぞって写真スタジオへなだれ込み肖像写真を撮った。この時代、写真はその人物の同定ないしは社会的権威を強調するための道具であった。
さらに写真がかんたんに撮れるようになった現代においては、(依然として人物同定という役割はあるにせよ)もっと人物の内面つまりアイデンティティを表現する道具として写真はつかわれだす。とりわけ「セルフポートレイト」という表現はひとつのジャンルとして正当な位置を得ている。これも技術革新がもたらしたあたらしい表現だといえる。
もっとも自撮り棒の先にスマホを付けてヘン顔を撮る行為が、その延長なのかどうかはわたしにはわからない。



さて今年も気がつけば2月半ばをすぎていて、同級生のAさんからの誘いがなければ、完全に忘れていたであろう日本写真映像専門学校の卒業制作展へきょうはいく。
玄関を入るといきなり学校長賞をとったYさんの作品がドーンとあらわれる。作品はセルフポートレイト2点で、自分の二面性をあらわしているという。聞いてもいないのに作品のコンセプトを語りだしたのは校長先生だ。相当この作品が気に入ってるのだろう。たしかに撮影の技術は高いものがある。それをうまく合成して一枚の絵に仕上げる技術もかなりのものだ。だけど、なんだかリアリティがないというか、どうも薄っぺらいのである。



2時間くらいかけて全員の作品をじっくりと見たけど、わたしの心に響いた写真は3点くらいしかなかった。どの写真も妙な加工が目につく。フォトショップの加工技術を見せられているようで、写真そのものの世界観が見えてこない。加工していないストレートな写真もあるにはあるが、そういう作品は逆に写真が下手なので絵になっていない。あーあ
デジタル写真の技術によって写真表現はあらゆるメディアを横断するような幅を獲得した。だけど本来、表現というものは表現する人間そのものの叫びなのであるから、自己と向き合って掘り下げないものは深くはならないだろう。自戒を込めて記しておく。一応OBですから。

(上の写真は1階の男子トイレ。この作品は今年の卒作展のものではありません)