だれかを攻めたり、なにかのせいにすることで弱者と同じ側に立っているような気になるけど、多くの場合それは言いわけにすぎない。
弱者に寄りそうというのは、自分がなにをするかということでしかありえない。
なにもせずに見ているだけなら、それは安全な側にいる者と同じだ。
16年前のあの震災のとき、わたしはオフロードバイクの後部座席にわずかな食糧とペットボトルをくくりつけて神戸を往復した。
車が入れるようになった時期には野外炊飯用のコンロとポリタンクいっぱいの水を持って、カップのおしるこを避難所へ届けたりもした。
また日曜日ごとに被災地の保健所へ行き、救援物資や医療品を避難所へ届ける仕事などもした。
とにかく自分のできることを精一杯やった。
その気持ちはいまも変わらないが、今回の被害は神戸の比ではない。
そのうえ原発の暴走が止まらないのだから、もう神さまや仏さまに祈るしかない。
幸い関西はふだんと変わらない生活ができているが、いつまた大きな地震が来るかはだれにもわからない。
そのまえにこの便利な生活を一から見なおす時期に来ている。
弱者に寄りそうというのは、自分がなにをするかということでしかありえない。
なにもせずに見ているだけなら、それは安全な側にいる者と同じだ。
16年前のあの震災のとき、わたしはオフロードバイクの後部座席にわずかな食糧とペットボトルをくくりつけて神戸を往復した。
車が入れるようになった時期には野外炊飯用のコンロとポリタンクいっぱいの水を持って、カップのおしるこを避難所へ届けたりもした。
また日曜日ごとに被災地の保健所へ行き、救援物資や医療品を避難所へ届ける仕事などもした。
とにかく自分のできることを精一杯やった。
その気持ちはいまも変わらないが、今回の被害は神戸の比ではない。
そのうえ原発の暴走が止まらないのだから、もう神さまや仏さまに祈るしかない。
幸い関西はふだんと変わらない生活ができているが、いつまた大きな地震が来るかはだれにもわからない。
そのまえにこの便利な生活を一から見なおす時期に来ている。