最近、さまざまなメディアで人工知能(AI)というワードを目にすることが多くなってきた。個人的には、AIがプロの囲碁棋士を打ち破ったことが印象に残っている。一応私は囲碁の(自称 ^^;)有段者なのだが、以前は“囲碁はコンピューターが最も苦手とするゲーム”だと思い込んでいた。何しろ、将棋やチェスに比べてプレイする空間が格段に広いし、手順の数も天文学的。コンピューターが付け入る余地はほとんど無いと勝手に合点していたのだった。だが、進化する人工知能は、そんな先入観を軽く粉砕してしまった。本当に驚くばかりである。
さて、先日知り合いが“AIがいくら進化したといっても、映画や小説の評論なんか出来るはずが無い”と言っていたが、私は違うと思う。私は文系なのでAIの詳しい絡繰りなんか分からないが、その解析能力を活かせば、将来は並の評論家よりも遙かに作品の内容を詳細に把握した“正確な”コメントを提示出来るようになると想像する。
話を映画に限定すると、往年の名監督である牧野省三は、映画製作のモットーに“1.スジ、2.ヌケ、3.ドウサ”を挙げていた。言うまでもなく、スジとは脚本のことだ。ヌケはとは撮影・現像の技術を指し、ドウサは俳優の演技のことである。つまり、一番重要なのはシナリオであり、技術や演技は二次的なものであると断言していたのだ。この原則は現在でも通用する。
脚本で大事なのは、話の辻褄が合っていることである。プロットの整合性の何たるかをAIに覚えさせれば、シナリオの出来不出来なんか簡単に判別することが可能なのではないか。映画評論が映画製作の根幹を論じるものであるならば、シナリオ解析だけで評論は8割以上は完了してしまう。当然、脚本に不備があれば、どんな超大作や話題作でも“失格”の烙印を押される。
もちろん、世の中には通常のドラマツルギーを逸脱していながら、傑作や秀作の域に達している映画も少なからず存在している。ならばそんな作品に対しては、AIのシナリオ解析能力を元にした評論は役に立たないと一見思われる。しかし、それもある程度は対応可能だろう。ストーリーの整合性を凌駕するほどの映像の喚起力や俳優の演技、あるいは才気走った演出家の仕事ぶりといったものを別個のファクターとして解析し、そのヴォルテージとプロットの整合とを天秤に掛けて、総合評価を導き出せば良い。
その解析力は、AIが得意とするディープラーニングがモノを言う。何がその映画を傑作や秀作たらしめているのか、その分析の対象を区別する際の“着眼点”を自動的に見つけ出せば、より“正確な”評論が可能になる。
なぜ以上のようなことを考えたのかというと、あまりにも脚本に手を抜いた映画(特に邦画)がはびこり、またその欠陥シナリオを擁した作品が何だか訳の分からない“(作品を取り巻く)空気”みたいなもので、場違いに評価されてしまう例が散見されるからである。少なくとも、関係者への“忖度”を優先した提灯記事などは、百害あって一利無しだ。AIに評論を任せた方が、よっぽど良い結果が得られるだろう。
前述の牧野監督は、大正12年に設立したマキノ映画製作所において、若い脚本家の育成に力を入れていた。また、彼らには当時の監督よりも高額のギャラを与えていたという。優れた映画には良質のシナリオが不可欠だ。脚本家のレベルアップと待遇改善こそが、日本映画を盛り上げる重要な手段であると思う。AIによるシナリオ分析もその一助になるかもしれない。
さて、先日知り合いが“AIがいくら進化したといっても、映画や小説の評論なんか出来るはずが無い”と言っていたが、私は違うと思う。私は文系なのでAIの詳しい絡繰りなんか分からないが、その解析能力を活かせば、将来は並の評論家よりも遙かに作品の内容を詳細に把握した“正確な”コメントを提示出来るようになると想像する。
話を映画に限定すると、往年の名監督である牧野省三は、映画製作のモットーに“1.スジ、2.ヌケ、3.ドウサ”を挙げていた。言うまでもなく、スジとは脚本のことだ。ヌケはとは撮影・現像の技術を指し、ドウサは俳優の演技のことである。つまり、一番重要なのはシナリオであり、技術や演技は二次的なものであると断言していたのだ。この原則は現在でも通用する。
脚本で大事なのは、話の辻褄が合っていることである。プロットの整合性の何たるかをAIに覚えさせれば、シナリオの出来不出来なんか簡単に判別することが可能なのではないか。映画評論が映画製作の根幹を論じるものであるならば、シナリオ解析だけで評論は8割以上は完了してしまう。当然、脚本に不備があれば、どんな超大作や話題作でも“失格”の烙印を押される。
もちろん、世の中には通常のドラマツルギーを逸脱していながら、傑作や秀作の域に達している映画も少なからず存在している。ならばそんな作品に対しては、AIのシナリオ解析能力を元にした評論は役に立たないと一見思われる。しかし、それもある程度は対応可能だろう。ストーリーの整合性を凌駕するほどの映像の喚起力や俳優の演技、あるいは才気走った演出家の仕事ぶりといったものを別個のファクターとして解析し、そのヴォルテージとプロットの整合とを天秤に掛けて、総合評価を導き出せば良い。
その解析力は、AIが得意とするディープラーニングがモノを言う。何がその映画を傑作や秀作たらしめているのか、その分析の対象を区別する際の“着眼点”を自動的に見つけ出せば、より“正確な”評論が可能になる。
なぜ以上のようなことを考えたのかというと、あまりにも脚本に手を抜いた映画(特に邦画)がはびこり、またその欠陥シナリオを擁した作品が何だか訳の分からない“(作品を取り巻く)空気”みたいなもので、場違いに評価されてしまう例が散見されるからである。少なくとも、関係者への“忖度”を優先した提灯記事などは、百害あって一利無しだ。AIに評論を任せた方が、よっぽど良い結果が得られるだろう。
前述の牧野監督は、大正12年に設立したマキノ映画製作所において、若い脚本家の育成に力を入れていた。また、彼らには当時の監督よりも高額のギャラを与えていたという。優れた映画には良質のシナリオが不可欠だ。脚本家のレベルアップと待遇改善こそが、日本映画を盛り上げる重要な手段であると思う。AIによるシナリオ分析もその一助になるかもしれない。



