元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「マドンナ・アンド・チャイルド」

2009-12-16 06:30:46 | 映画の感想(ま行)
 (原題:MAY NAGMAMAHAL SA IYO )96年フィリピン作品。私は96年のアジアフォーカス福岡映画祭で観ている。主人公ロエラ(ローナ・トレンティーノ)は生活苦のため幼い私生児を教会に預け、香港に渡ってメイドとして働いていた。7年後、フィリピンに帰国した彼女は片時も忘れられないわが子が行方不明になっていることを知る。ある孤児院で誰にも心を開かないコンラッドという少年と出会ったロエラは、彼こそ息子だと確信し、コンラッドも彼女を気に入る。一緒に暮らすことを約束する二人だが、実は親子ではなかったことが判明。あまりのショックで姿を消してしまうコンラッドだったが・・・・。監督はフィリピンを代表する女流のマリルー・ディアス=アバヤ。

 親子の絆、家族のふれあいといった題材を真摯に描き、観る者の紅涙を絞り出す、珠玉のような映画だ。同様のことを日本映画やアメリカ映画でやればクサくて見ていられないだろう。でも、舞台がヘヴィな状況のフィリピンの地方都市で、登場人物が抑圧された貧困層で、作者がその境遇を肌で知っている“当事者”であればそれは許される。ありふれたテーマでも映画は力を持つ。確固とした当事者意識と確信犯ぶりが映像の迫真性を増すのだ。

 豊かではない社会のしわ寄せは女子供のような弱者に来る・・・・というのは頭で理解していても、この映画に登場する子供たちを取り巻く環境は、あまりに悲惨で絶句する。特にロエラの実の子供であるレオナルドのエピソード。養子として預けた先の里親からは虐待され、見かねたメイドが彼を連れて家出。息子のように可愛がって育てたがレオナルドの心の傷は消えず“いつまた里親が自分を見つけに来るかわからない”と、夜ごとに家を飛び出し、ついには病気で死んでしまうという話は、もう泣くしかない。本能的に生きようとする彼らを容赦なく切り捨てる社会の理不尽さに(演じる子役の達者ぶりも相まって)純粋な怒りをぶつけたくなる。

 もちろん、社会問題を告発するだけの映画ではない。題名の“マドンナ”とは聖母のことで、カソリックの教義に深く根ざした母性が、シビアな状況でも確実に女性たちをつき動かしていることを描き、感動させる。ディアス=アバヤ監督は女性の心理描写に卓越したものを見せ、特にエゴと打算から真の家族愛へと目覚めるヒロイン像は実に等身大。足が地についている。演じるトレンティーノは大森一樹の「エマージェンシー・コール」で真田広之と共演した実力派女優だ。

 血はつながっていないが、信頼で結ばれた新しい家族を祝福するように雨が降り出すラストは素晴らしい。観ることができて本当に良かったと思える秀作である。
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「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」

2009-12-15 06:19:31 | 映画の感想(は行)

 けっこう楽しめるシャシンだ。掲示板の書き込みを元にしたネタという意味では「電車男」に通じるものがあるが、同じくオンラインのコンテンツであるケータイ小説とは全く違う訴求力を持っている。

 ケータイ小説の映画化では、あの愚作「恋空」ぐらいしか観ていないが、書籍化された他のケータイ小説をパラパラとめくってみても、どれも稚拙で大人の鑑賞には耐えられないものであると感じる。対して掲示板の書き込みを下敷きにしたものが割と面白いのは、テーマの興味深さはもとより不特定多数との双方向性によってネタが練り上げられていくからだと思う。

 最初から内容が希薄なスレッドならば文字通りの“放置プレイ”に終わり、話が発展しない。映画の題材になるほどのトピックであるためには、最初のトリガーになる部分はもちろんのこと、他の参加者との意見交換により高い普遍性を獲得したものに限られる。当然の事ながらそういうスレッドは少ないとは思うが、映像化するのならば子供向けの一方通行のメディアに過ぎないケータイ小説よりも数段“的中率”の高い素材であろう。

 さて、本作は長年ニート生活を送っていた主人公が、母親の死をきっかけにして一念発起して小さなIT企業に就職したところ、そこは社員に無茶な仕事を強要する“ブラック会社”だったという設定だ。サービス残業や徹夜は当たり前の理不尽な扱いにさんざん苦労させられる彼だが、やがてそれらを克服して仲間と共に成長してゆくという一種のサクセス・ストーリーである。

 主人公はずっと人生に背を向けていたにもかかわらず、実は“変わりたい”という願望は人一倍高い。だからこそ独学でプログラマーの資格を取り、自らに鞭打って就職活動に励み、やっとのことで職にありついたのである。気を付けなければならないのは、この映画の評価を“どんなに辛い境遇でも、頑張れば何とかなる”という“自己責任&自主努力”の図式に持っていってはならないということだ。

 彼は元々イイ奴であり、両親からも信用されていた。そして何より職場に尊敬できる人格者の先輩がいて、何かとアドバイスを受けることも出来た。だからこそ苦難を乗り越えられたのだ。逆に言えば、周囲にマトモな人間がいなかったら、彼の人生は暗いままだったろう。その人と人との結びつきの重要性を平易な語り口で綴ったところに、この映画の勝因がある。

 ハッキリ言って、こんな“ブラック会社”は反社会的な存在以外の何物でもない。そういう職場で難儀している若い衆を“自己責任”の一言で片付けられてはたまらないのだ。職場で安心して働けることが誰にとっても当たり前の環境になるように、政府や関係当局に要求していかねばならない。

 佐藤祐市の演出はケレン味が少々は鼻につく箇所もあるが、おおむね良好。主役の小池徹平をはじめ田辺誠一、マイコ、品川祐などキャストも好調だ。働くことの価値を考えさせられる意味で、観て損のない映画である。
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「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」

2009-12-14 06:22:47 | 映画の感想(さ行)
 (原題:The Royal Tenenbaums)2001年作品。離散した天才一家の再生をユニークに描く人間ドラマ。かつて著名な弁護士であったが今はプータロー生活を送っている当主のロイヤルが、自分があと6週間の命だとウソをつき、家族の関係を修復しようとする話。結論を言えば、つまらない。

 ストーリーは月並みでギャグは上滑り。ジーン・ハックマン、アンジェリカ・ヒューストン、ベン・ステイラー、グウィネス・パルトロウ、ダニー・グローバー、ビル・マーレー、オーウェン・ウィルソンetc.といった豪華キャストを集めたわりにはドラマの密度が実に低く、各人することもなく漫然とラストを迎える。どう見てもただの腑抜けた変則ホームドラマであり、監督のウェス・アンダーソンとかいう奴には才能はない。

 ではなぜこの程度のシャシンに有名俳優が大勢出演し、かつまた本国で高い評価を受けたのか。それはたぶん“目新しさ”だと思う。頭の中だけで考えたような非日常的キャラクター設定と意表を突いた(ような)展開。特定色に偏った画調に紙芝居のようなシークエンスの積み上げ。これにウケを狙っただけの衣装と幾分マニアックな既成曲から成る音楽を加えて“ハイ、ちょっとオシャレな映画がいっちょあがり”という手口は、日本やヨーロッパでの映像オタクによる自己満足作品と同等である。

 しかし、これをアメリカ映画でやろうとしたら思いがけず好事家の注目を浴びてしまったと・・・・まあ、そんなところだろう。観る価値はあまりないと思う。
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「イングロリアス・バスターズ」

2009-12-13 07:12:27 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Inglourious basterds)クエンティン・タランティーノ監督作品としては「ジャッキー・ブラウン」と並ぶ駄作だと断定したい。とにかく物語に芯がないのだ。ダラダラと前振りだけが長く、盛り上がりが全くない。もちろん、見せ場がないこと自体を売り物にする作劇もあり得ることは承知しているが、本作については断じてそれは当てはまらない。単なる“手落ち”と片付けられても仕方がない体たらくだ。

 第二次大戦下のフランス。ナチス兵を始末することだけを目的に結成されたアメリカ軍部隊“バスターズ”の暗躍と、ゲシュタポに家族を殺された少女の復讐劇とが平行して描かれる。呆れるのがこの二つの路線が全然交わらないところだ。もっとも“平行するエピソードは必ず終わりには収斂しなければならない”というキマリはない。だが、クライマックスをヒロインが切り盛りするパリの映画館での大立ち回りに持っていくからには、それなりの段取りというものが必要だろう。

 ところが、そんなことを考慮した形跡が微塵もない。各々が勝手にやってハイおしまいでは、観る側のストレスはたまるばかりだ。特に終盤では明らかに“史実と違うところ”が大々的に前面に出てくるのだが、それに対して作者が何かの感慨なり意見なりを持っている気配はない。ただ“面白ければいいのだろう”という軽薄なスタンスしか感じないのだが、残念ながらちっとも面白くはないのだ。

 全編に渡って目立つのは登場人物達のしつこいまでのしゃべりだ。タラン氏の作品ではこういうパターンは珍しくもない。ただし、タラン氏謹製のシャシンの中で出来が良いものは、必ずこのグダグダしたしゃべりがその後のカタルシスの伏線となる。近作の「デス・プルーフinグラインドハウス」なんてのはその典型で、ダラダラしたシチュエーションを二度繰り返すことによってクライマックスの破壊力を倍加させているのだ。ところがこの映画はグダグダしたシーンはグダグダのままで、漫然と続くのみ。まさに“山なし、オチなし、意味なし”を地で行く醜態だ。

 こんな調子で上映時間は2時間半以上もある。何やら“つまらなくて途中退場した人は無料”なるキャンペーンを張っているようだが、少なくはない中途退場者はその“特典”にあずかれたのだろうか(笑)。

 主演はブラッド・ピットだが、時折おバカなギャグで笑いを取る他は、何も特筆することなし。彼以外の出演者も、別に印象的なパフォーマンスを見せてくれるわけでもない。美術関係や大道具・小道具も大したこと無し。時代考証はフツーの出来。タラン氏得意の音楽の使い方も、今回は序盤にマカロニ・ウエスタン調を気取ってみたり、突然デイヴィッド・ボウイの曲を流す程度で、これも消化不良だ。ブラッド・ピットのファンならばともかく、大半の一般ピープルにとっては観る価値のないシャシンだと結論付けたい(暗然)。
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「未来は今」

2009-12-05 07:11:05 | 映画の感想(ま行)

 (原題:The Hudsucker Proxy)94年作品。1958年12月。ニューヨークの巨大玩具メーカー、ハッドサッカー社の社長(チャールズ・ダーニング)がビルの45階から飛び降り自殺した。後継者の座を狙う副社長(ポール・ニューマン)は、入社したばかりのボーッとした若者ノーヴィル(ティム・ロビンス)を社長に据えて株価を暴落させ、底値で株を買い占めて会社の権力を一手に握ろうと画策する。ところがノーヴィルは非凡なアイデアを持っており、彼の考案による新製品“フラフープ”は世界を席巻する。一方、社長人事に不審なものを感じた敏腕女性記者(ジェニファー・ジェイソン・リー)は、秘書として会社にもぐり込み、真相解明に乗り出すのだが・・・・。

 製作イーサン・コーエン、監督ジョエル・コーエン、アメリカのインデペンデント系映画の雄・コーエン兄弟が初めて大手資本で撮った話題作。一見、昔のハリウッド製立身出世コメディの典型であり、やがて主人公は副社長の妨害に遭うが、見事に克服してハッピーエンド。誰でも予想できる筋書きでそんな観客の期待を裏切ることはない。でも、ティム・バートンやQ・タランティーノを凌ぐオタクでビョーキのコーエン兄弟のことなので、通常のコメディに仕上がるわけがない。

 はっきり言ってしまうと、作者にとってこの“心あたたまるコメディ”という図式は何の意味もない。最初から興味の対象外なのだ。登場人物の内面描写もハナっから無視。大事なのは映画の“外見”である。典型的ハリウッド・スタイルのストーリー設定を借りながら、いかに自分たちの映像センスや演出のリズムを見せつけるか、それしか頭にはない。物語の中身よりも技巧を語るべき映画だ。通常の娯楽作品しての面白さを期待した大部分の観客は面食らう出来かもしれないが、そう開き直って観ると、実に映画好きが喜ぶテクニックが満載で面白い。

 冒頭、58年の大晦日に飛び降り自殺を図るノーヴィルが映し出され、すぐに1か月前の回想シーンに移行するのだが、象徴的なのは高層ビルの壁に掛かる大時計だ。すべてを見通すようなインパクトを持つ、ドイツ表現主義的な時計は、この映画の主眼のひとつが“時間”の使い方であることを示している。

 先代の社長が飛び降り自殺するシーン。彼に残された時間は地面に激突するまでの数秒だけ。ここでカメラは落ちる者の視線となり、“死ぬまでの時間”が当事者にとってどう感じられるかをじっくりと描いて驚かされるが、さらに、ラスト近くには主人公がやはり45階から落ちるシーンで“落ちながら事の真相を知る”という前代未聞のシチュエーションを披露している。時計台の裏に住む、時間を操る謎の人物モーゼ(天使でも閻魔大王でもなくモーゼというのがいかにもユダヤ人監督らしい)は作者の分身であるのは明白。

 そして、大晦日から新年に移行する瞬間という曖昧な時間帯にドラマのメインを持ってきているのも面白い。そういえば50年代末のアメリカは、60年代の混迷をまだ知らず、年を重ねるごとにバラ色の未来に近づくと信じられていた時代。映画の題材にふさわしい設定と言える。

 また、この監督特有のスリリングでいながらオフビートである独特の演出リズムは今回も絶好調。フラフープ製造の稟議書が会社の各部署を回るシーン、女性新聞記者と上司とのやりとり、主人公の最初の職場である郵便物仕分け所の喧噪など、たたみかけるような筆致で観客の度肝を抜く。しかし、それらはドラマの使用末節の部分であり、大げさに描く必要のない部分だ。対して、副社長の悪行が明るみになる場面とかハッピーエンドの部分など、盛り上げてしかるべきところは“どうでもいい”とばかりサラッと流す。いつもながらかなりの屈折度だ。

 そして美術の素晴らしさ。そびえ立つビル群はすべてセットである。副社長が執務するだだっ広く無機的な部屋、左右対称形の重役室など、役者より意匠の方がモノを言っている。それどころか、極端にイノセントな主人公や、病的なまで喋りまくる女性記者、悪役そのものの副社長など、故意にデフォルメされた登場人物も映画のインテリアの一部として機能させている。衣装デザインや音楽も効果的だ。

 結局、ハリウッド製予定調和コメディの体裁とは関係なく、セットで作られた箱庭の中で密室趣味ともいえる自分たちの妄想を描いた、極めて個人的なフィルムである。それが自己満足に終わらず見事な娯楽作品となったのは本人たちの自覚(単なる偶然?)もあったろうが、助監督のサム・ライミの力も大きい。コーエン兄弟の作品には失敗作もけっこうあるのだが、この映画はおススメである。1994年カンヌ国際映画祭オープニング作品。
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「曲がれ!スプーン」

2009-12-04 06:19:11 | 映画の感想(ま行)
 まず、長澤まさみの映画界での立ち位置について考えてしまった(笑)。近年台頭著しい若手女優群の中にあって、出演映画はコンスタントに作られるものの、イマイチ存在感がない。それは彼女が東宝シンデレラ出身であることが大きいと思う。文字通り“シンデレラ”の扱いを受けるため、思い切った役柄が充てられないのだ。

 彼女の出演作全部を観ているわけではないが、私が接した作品だけでもすべて毒にも薬にもならない微温的な仕事ばかりである。この分では東宝シンデレラの先輩の沢口靖子のように、味が出てきたと思ったら40歳超えていた・・・・という事態になること必至だ。人気のあるうちに演技の幅を広げた方が良い。まあ、とりあえず脱いでみるというのも、有力な手段かと思われるが・・・・(激爆)。



 さて本作は「サマータイムマシンブルース」と同じく、劇団「ヨーロッパ企画」の出し物の映画化だ。普段はその超能力をひた隠しにして生活しているエスパー達が、とある喫茶店に集まってクリスマスパーティーを開こうとしたところ、思わぬ手違いで“(自称エスパーだけど実は)一般人”の男が一人紛れ込んでしまう。超能力の存在を知ってしまった彼に対し、どう“口封じ”をしようかと思案するエスパー達。必死で逃げようとするくだんの男。虚々実々の駆け引きがブラックな笑いを呼び込む。

 そこに現れたのが長澤扮するテレビ局のオカルト番組のADで、彼女はネタを探しにその“一般人”に会いに来たのだった。思わぬ異分子の乱入でドラマはもっと盛り上がる・・・・はずなのだが、長澤演じるキャラクターの造型が(長々とした説明にもかかわらず)十分に練り上げられていない。文字通り取って付けたよう設定に加えて、長澤自身が突っ込んだ演技をしていないし、スタッフもそれを期待していないフシがある。



 これがもしも長澤の役どころを上野樹里や綾瀬はるかが演じていたら、お笑いの空気があたりに充満していたところだが、長澤にとっては“笑いを取る”ことはハードルが高すぎる。上野樹里が出ていた「サマータイム~」とのヴォルテージのあまりにも大きな差は如何ともしがたい。

 それでも「ヨーロッパ企画」の面々は全然馴染みのない顔ぶれであるにもかかわらず、全員イイ味を出している。寺島進やユースケ・サンタマリアら脇のキャラは適材適所だ。本広克行の演出は今回“軽くこなした”という程度だが、舞台になる香川県の小都市の風情が効果的。音楽も悪くない。長澤の拙い仕事ぶりに目をつぶれば、そこそこ楽しめるシャシンであることは確かだろう。
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「八月の狂詩曲」

2009-12-03 06:22:30 | 映画の感想(は行)
 91年作品。黒澤明監督の29本目の映画で、原作は97回芥川賞を受けた村田喜代子の「鍋の中」。長崎の田舎に住む祖母とその孫たちのひと夏の交流を通して戦争の悲惨さを描こうとしたドラマだ。

 まず、よかった点からあげよう。主演のおばあちゃん役の村瀬幸子の好演。そして4人の孫たちとおばあちゃんとのふれ合いが丹念に描かれていること。それと映像の美しさだろう。この前の作品である「夢」のような過度に説教臭い部分を押さえて、テーマを淡々と訴えているところは評価してもいいだろう。

 次、よくない点だ。前述の部分と矛盾してしまうかもしれないが、映像が安っぽく見える部分があること。原爆のキノコ雲が人間の目に見えるくだりや、ラスト近くの空が雲にかげるシーン、それから孫の2人が森の中で見つける伝説的な大木、などのSFXがらみの場面の稚拙さは目を覆いたくなる。自然の風景を描くシーンの素晴らしさとの落差に愕然としてしまう。

 それとこれも前述のくだりと矛盾するが、押さえているとはいっても、やっぱり説教するのが好きな黒澤監督らしいところがある。孫たちが長崎の街を歩くシーンで孫の一人が原爆の悲惨さについて延々と語る部分は、一瞬長崎の観光案内フィルムを観ているような錯覚に陥ってしまう。さらにおばあちゃんのセリフからテーマをそのまま映像でなくて言葉で語らせる場面があるのは困ったものだ。要するに作者はあまり観客の想像力を信用していないのじゃないかと思う。つまり、セリフでいちいち説明しなければテーマが伝わらないと信じているらしい。

 それから音楽の使い方にも疑問がある。ラストの大雨の中を出て行ったおばあちゃんを孫たちが追いかけるシーンのバックに「野ばら」の下手くそなコーラスがかぶる場面はあまりの映像と音楽のズレに呆然となった(客席から笑いがもれていたくらいだ)。あそこは絶対ヴィヴァルディ「スターバト・マーテル」(曲の断片が本篇にたびたび挿入されている)にして盛り上げるべきだった。

 それにしても、日本映画には“被害者意識”(そして、その裏返しの一方的な“加害者意識”)からしか戦争の悲惨さを見ていない作品が目立つ。この映画にしたって“アメリカのスター(リチャード・ギア)を呼んできて原爆投下の詫びを入れさせた映画”と言うこともできる。過剰な説明的セリフで原爆の悲劇を伝える黒澤監督の姿勢には、自分の海外への知名度を利用してテーマをこれでもかこれでもかと外国人に訴えようという狙いが見えるようだ。それも一つの方法だが、今村昌平監督の「黒い雨」(88年)のように抑えた演技と効果的な映像で迫る方がインパクトが大きいということを知るべきであったろう。
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「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」

2009-12-02 06:20:07 | 映画の感想(ま行)

 (原題:THIS IS IT)突貫作業で出来上がったわりには、見応えのあるシャシンに仕上がっている。2009年6月に突然この世を去った稀代のスーパースター、マイケル・ジャクソンのロンドン公演のリハーサルを追ったドキュメンタリー・フィルム。まず驚かされるのが、死が間近に迫っていたにもかかわらず、元気一杯で仕事に励んでいる彼の姿だ。

 ああいう形で最期を迎えた者にありがちな、どこか捨て鉢な態度やプレッシャーに押し潰されそうな気配など微塵もない。ここにあるのは、何とかコンサートを成功させようと前向きに努力している一人のミュージシャンである。

 本当は、切迫した事情があったのかもしれない。だが、現時点でそれを追求する意味はあまりない。今はただ、早すぎる終幕を迎えた大きな才能を惜しむだけだ。真相に迫るのは、時が経って彼をめぐる状況が落ち着いてからで良い。そうなれば新しい事実も出てきて、より深く素材に切り込めるだろう。

 さて、通常有名スターのリハーサル風景というと、ピリピリした緊張の連続を思い浮かべる。怒号が飛び交い、関係者が必死の形相で走り回る姿も想像できる。しかし、本作に限っては見事なほど抑制されている。現場の雰囲気はあくまで明るく穏やかだ。マイケルも気さくに振る舞い、時には周囲を気遣うという、一種スターらしくない(笑)言動も見られる。ただしこれは、彼を支える共演者やスタッフが一流であるからこそなのだ。

 マイケルの指示によって、少しの淀みもなくシステムが順次修正されてゆく。それを可能にする有能な人材ばかりが集まっている。考えてみれば、必要以上に神経を使う現場とは、一流でない者が混じり込んだケースではないだろうか。方向性をしっかりと認識した逸材ばかりであるからこそ、阿吽の呼吸でスムーズに進行するのだ。私は是非ともこのスタッフや共演者を選出するオーディションのドキュメンタリーも観てみたい。真に有能な人材とは何なのか、それを浮き彫りにする有意義な作品になるはずである。

 リハーサルなのでマイケルも本気を出していない。ステージでのパフォーマンスは、あくまでプログラムをチェックするためのものだ。しかし、それでもマイケルは凄いのである。時折見せる鬼神のような身のこなし、伸びのある歌声、本番の公演を観たくなってしまう。本当に惜しい才能を失ってしまったものだ。

 なお、この映画はデジタル方式にて上映された。画像もそれに応えるように質が良く、作品としてのクォリティも損ねていない。監督のケニー・オルテガらの真摯な仕事ぶりにも感謝するように、上映後は拍手が巻き起こった。
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「竜二 Forever」

2009-12-01 06:22:38 | 映画の感想(ら行)
 2002年作品。83年に公開されたヤクザ映画の秀作「竜二」の主演男優で同作品の脚本も担当した金子正次は、将来を嘱望されながらも33歳の若さでガンに倒れた。彼の伝記である生江有二の「竜二 映画に賭けた33歳の生涯」の映画化で、監督は「シャブ極道」などの細野辰興。

 映画は劇団を主宰していた金子が映画製作に意欲を見せ、苦労の末に作品を完成させた後、急逝するまでを事実に則ってそつなく見せる。細野監督の演出は的確かつ丁寧で、大向こうを唸らせる仕掛けはないものの、納得できる仕事ぶりだ。金子に扮する高橋克典は少々「サラリーマン金太郎」っぽいが(笑)、石田ひかり 香川照之 木下ほうか、藤田傅、奥貫薫といった脇のキャストに支えられて、演技そのものにそれほど文句はない。ドラマ全体の質としても及第点には達しているだろう。

 しかし、この作品が観客によっては“単なる出来の良い再現ドラマ”という適当な評価を超えるものになることは想像に難くない。ハッキリ言って「竜二」を観ている客と観ていない客とでは感銘度が天と地ほども違うのだ。「竜二」を観た者は誰しも金子の俳優としての資質に圧倒される。巧みな脚本にも感心する。そして彼がこの一本だけを残して去って行ったことも知っている。彼がもし生きていれば現在の日本映画が違った展開を見せていただろうと想像もできる。それだけに、彼の晩年を切々と描いたこの作品には思わず入れ込んでしまうのだ(当然、私もそうだった)。

 劇中での松田優作(をモデルにした俳優)との確執、困難を極める映画製作、無情な監督交代劇etc.そのすべてが「竜二」にまつわる実際のエピソードとダブってきて、あの映画を知る者にとってはたまらない気持ちになる。

 なお、私は本作を2002年の湯布院映画祭で観た。この映画は日本映画で始めて劇中に湯布院映画祭が登場する(ロケは別の場所だが ^^;)。「竜二」を最初に取り上げたのもこの映画祭だった。そこで観客の万雷の拍手を受けた金子がこの世に別れを告げたのはその数ヶ月後である。映画祭のスタッフや常連にとってこれほど感無量のことはあるまい。ラスト近くにあちこちからすすり泣きの声が聞こえてきたのも当然というべきか。
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