(原題:The Hudsucker Proxy)94年作品。1958年12月。ニューヨークの巨大玩具メーカー、ハッドサッカー社の社長(チャールズ・ダーニング)がビルの45階から飛び降り自殺した。後継者の座を狙う副社長(ポール・ニューマン)は、入社したばかりのボーッとした若者ノーヴィル(ティム・ロビンス)を社長に据えて株価を暴落させ、底値で株を買い占めて会社の権力を一手に握ろうと画策する。ところがノーヴィルは非凡なアイデアを持っており、彼の考案による新製品“フラフープ”は世界を席巻する。一方、社長人事に不審なものを感じた敏腕女性記者(ジェニファー・ジェイソン・リー)は、秘書として会社にもぐり込み、真相解明に乗り出すのだが・・・・。
製作イーサン・コーエン、監督ジョエル・コーエン、アメリカのインデペンデント系映画の雄・コーエン兄弟が初めて大手資本で撮った話題作。一見、昔のハリウッド製立身出世コメディの典型であり、やがて主人公は副社長の妨害に遭うが、見事に克服してハッピーエンド。誰でも予想できる筋書きでそんな観客の期待を裏切ることはない。でも、ティム・バートンやQ・タランティーノを凌ぐオタクでビョーキのコーエン兄弟のことなので、通常のコメディに仕上がるわけがない。
はっきり言ってしまうと、作者にとってこの“心あたたまるコメディ”という図式は何の意味もない。最初から興味の対象外なのだ。登場人物の内面描写もハナっから無視。大事なのは映画の“外見”である。典型的ハリウッド・スタイルのストーリー設定を借りながら、いかに自分たちの映像センスや演出のリズムを見せつけるか、それしか頭にはない。物語の中身よりも技巧を語るべき映画だ。通常の娯楽作品しての面白さを期待した大部分の観客は面食らう出来かもしれないが、そう開き直って観ると、実に映画好きが喜ぶテクニックが満載で面白い。
冒頭、58年の大晦日に飛び降り自殺を図るノーヴィルが映し出され、すぐに1か月前の回想シーンに移行するのだが、象徴的なのは高層ビルの壁に掛かる大時計だ。すべてを見通すようなインパクトを持つ、ドイツ表現主義的な時計は、この映画の主眼のひとつが“時間”の使い方であることを示している。
先代の社長が飛び降り自殺するシーン。彼に残された時間は地面に激突するまでの数秒だけ。ここでカメラは落ちる者の視線となり、“死ぬまでの時間”が当事者にとってどう感じられるかをじっくりと描いて驚かされるが、さらに、ラスト近くには主人公がやはり45階から落ちるシーンで“落ちながら事の真相を知る”という前代未聞のシチュエーションを披露している。時計台の裏に住む、時間を操る謎の人物モーゼ(天使でも閻魔大王でもなくモーゼというのがいかにもユダヤ人監督らしい)は作者の分身であるのは明白。
そして、大晦日から新年に移行する瞬間という曖昧な時間帯にドラマのメインを持ってきているのも面白い。そういえば50年代末のアメリカは、60年代の混迷をまだ知らず、年を重ねるごとにバラ色の未来に近づくと信じられていた時代。映画の題材にふさわしい設定と言える。
また、この監督特有のスリリングでいながらオフビートである独特の演出リズムは今回も絶好調。フラフープ製造の稟議書が会社の各部署を回るシーン、女性新聞記者と上司とのやりとり、主人公の最初の職場である郵便物仕分け所の喧噪など、たたみかけるような筆致で観客の度肝を抜く。しかし、それらはドラマの使用末節の部分であり、大げさに描く必要のない部分だ。対して、副社長の悪行が明るみになる場面とかハッピーエンドの部分など、盛り上げてしかるべきところは“どうでもいい”とばかりサラッと流す。いつもながらかなりの屈折度だ。
そして美術の素晴らしさ。そびえ立つビル群はすべてセットである。副社長が執務するだだっ広く無機的な部屋、左右対称形の重役室など、役者より意匠の方がモノを言っている。それどころか、極端にイノセントな主人公や、病的なまで喋りまくる女性記者、悪役そのものの副社長など、故意にデフォルメされた登場人物も映画のインテリアの一部として機能させている。衣装デザインや音楽も効果的だ。
結局、ハリウッド製予定調和コメディの体裁とは関係なく、セットで作られた箱庭の中で密室趣味ともいえる自分たちの妄想を描いた、極めて個人的なフィルムである。それが自己満足に終わらず見事な娯楽作品となったのは本人たちの自覚(単なる偶然?)もあったろうが、助監督のサム・ライミの力も大きい。コーエン兄弟の作品には失敗作もけっこうあるのだが、この映画はおススメである。1994年カンヌ国際映画祭オープニング作品。