元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

JBLのハイエンドスピーカーを試聴した。

2012-12-18 06:43:07 | プア・オーディオへの招待

 米国JBL社の新作スピーカーDD67000の試聴会に足を運んでみた。本機の価格は1本が300万円(税抜き)で、ペアでは600万円。当然のことながら私は買えないし、図体のデカさも考え合わせるとほとんどの一般ピープルにとって縁の無い商品だ。しかし、会場の一部では商談めいた会話も交わされていたようで(爆)、カネはあるところにはあるものだと感心してしまった。

 駆動していたアンプおよびプレーヤーは米国MARK LEVINSON社のもので、これまた高額商品。おそらくは定価ベースで総額1300万円ぐらいのシステムになっていたと思われる。

 さて実際聴いてみた感想だが、とにかく“良くも悪くもJBLである”ということに尽きる。音場の展開力は他社製品と比べると弱い。特に奥行きの表現には難がある(まあ、使われていたソフト自体がそういうものばかりだったのかもしれないが ^^;)。音色は一本調子で陰影に乏しく、クラシックの弦楽や声楽曲の再生に向いているとは思えない。

 しかし、ソースがジャズになると様相が一変。パァッと前に出る屈託の無い明朗サウンドで、実に楽しく聴ける。“最近のJBLの製品は幅広いジャンルに適応出来るようになった”と言うショップのスタッフもいるが、こうして改めて聴いてみると、やはりこのブランドはジャズの再現性に特化していると思わざるを得ない(もちろん、JBLでクラシックをメインに鳴らしているユーザーもいることは知ってはいるが)。

 昔からJBLのスピーカーは“高級舶来スピーカーの代名詞”と言われていた。音も個性が強く、一度聴いたら忘れられない印象を残す。私も若い頃に初めて同社のスピーカーに接したとき、オーディオシステムから奏でられるサウンドの評価基準に“音色(おんしょく)”という概念があることを知った。それまでは聴感上の物理特性が全てだと思っていたのだが、JBLのサウンドを聴いて世の中には“明るい音”なるものが存在することを認識した次第だ。

 もっとも、現在は私も年齢を重ねたせいか、JBLのように明朗な積極性一辺倒の音は“たまに聴くのは良いのだが、常時接していると疲れる”ようになった(笑)。たぶん同社のスピーカーを購入することはないだろう(まあ、このDD67000なんかは高価過ぎるのでハナから対象外だが ^^;)。

 とはいえ、国産製品とはまるっきり異なるサウンド世界を味合わせてくれるという意味で、オーディオに興味を持ってから日の浅い初心者には、(英国のTANNOYと並んで)ぜひとも聴いていただきたいブランドである。
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「思秋期」

2012-12-17 06:56:55 | 映画の感想(さ行)

 (原題:TYRANNOSAUR )不器用な中年男女が知り合い、互いに癒やされ、心の硬い殻が少しずつ解れていくというヒューマンドラマ風の設定ながら、キャラクター造型の甘さが感銘度をかなり薄めている。俳優として知られるパディ・コンシダインの劇場用映画の監督デビュー作だが、やはり初演出というのは未熟さが前面に出てしまうこともあるのだろう。

 イギリスの田舎町(ロケ地はヨークシャー州西部のリーズ)に住む失業中のジョセフは妻を亡くし、子供もおらず、唯一の友人はガンで余命幾ばくも無い。日々酒に溺れ、周囲の者に手当たり次第にケンカを売る。ある日彼はケンカ相手から逃げる途中、街のチャリティ・ショップに転がり込む。ジョセフはその店で働くハンナと出会うが、彼女もまた孤独で満たされない毎日を送っていた。同病相憐れむかのように二人は接近するものの、ハンナの複雑な事情はジョセフを新たなトラブルの矢面に立たせることにもなる。

 泥酔し激昂したジョセフが愛犬を蹴り殺すシーンから始まり、続いて飲み屋等での悪態や大立ち回りが次々と映し出される。韓国映画「息もできない」の主人公と同じように、彼もまた“暴力でしか他者とコミュニケート出来ない人間”なのかと一度は思ったのだが、どうも違うようだ。それどころか行動がチグハグであり、何だかハッキリしない奴のように見える。

 たとえ愛犬でも鬱憤晴らしのためには始末してしまうほど感情がささくれ立っていながら、近所の子供を虐待する連中に対しては妙に及び腰だ。そういえばケンカを吹っ掛ける相手も、あまり強そうには思えない(まあ、あとでオトシマエは付けられるのだが ^^;)。要するにこの男、ただの弱虫ではないのか。そんなジョセフがいくら亡き妻の思い出を滔々と語っても、噴飯物である。

 ハンナは上層階級中心の地域に住んでいるが、夫はとんでもない暴力野郎で、日々虐待に苦しめられている。そんな彼女が心の支えにしているものは信仰である。くだんのチャリティ・ショップも教会が運営しているものだ。しかし、ジョセフと知り合うことにより信仰など役に立たないことに気付かされるという設定だ。

 この夫の言動は完全に常軌を逸していてまるでサイコパスなのだが、こんなのにズルズルと付き合っている彼女に対しても共感は抱けない。単に“愚かな女”としか映らない。こんな、人間としての深さが感じられない二人が出会って慰め合っても、こちらは“関係の無い話”という印象しか受けないのだ。

 少しでも観る側の琴線に触れるように、キャラクターを練り上げて欲しかった。私なんか、最後まで異常な行動を取る暴力夫にスポットを当ててホラー映画として作った方が面白いのではないかと思ったほどだ。

 主演のピーター・ミュランとオリヴィア・コールマンは力のこもった演技を見せるが、筋書きがこんな具合では空回りしていると思われても仕方が無い。ラストの扱いも、何となくしっくりこない。残念ながら、個人的にはあまり価値を見出せない映画であった。
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「オルランド」

2012-12-16 06:54:45 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Orlando)92年作品。16世紀のイギリス、エリザベス女王から“決して老いてはならぬ”と言われ、その通りに年を取ることなく永遠の時を生きる青年貴族オルランド。ロシアの王族の娘との恋に破れ、詩作に没頭する生活を経て、次の世紀には戦乱の世に絶望。長い昏睡状態から目覚めた時には女性として転生している自分に気付く。“同じ人間、単に性が違うだけ”と悟りの境地に達するオルランドに天使がほほえみかける。

 ヴァージニア・ウルフの原作を英国の女性マルチ・アーティスト、サリー・ポッターが映画化。ヴェネチア国際映画祭にも出品され、高い評価を受けた作品である。



 さて、感想だが、ひとこと“よくわかりません”で片ずけてしまいたい(身も蓋も無い物言いでスイマセン ^^;)。学生時代、教養過程の西洋文学でヴァージニア・ウルフについてちょっと習っているはずなのにこの有様(ま、大部分は忘れているが)。何が言いたいのか本当にわからないのだからしょうがない。公開当時に雑誌に載っている映画評を読んだが、どこがどういいのか理解不能。こういう映画は困る。

 それでも観る価値はある。とにかく美術が超豪華である。ピーター・グリーナウェイの諸作をも凌ぐ、絢爛たる近世ヨーロッパの王室文化をなんとまあ見事に再現していることか。左右対称形を中心とした独特の様式美も見逃せないが、ポッター監督自身による音楽がこれまた効果的で、まさにリッチなひとときを味わうことができる。

 オルランドを演じるのはデレク・ジャーマン映画ではおなじみの女優ティルダ・スウィントン。もちろん映画の前半は男装で出演。ちなみにエリザベス1世を演じる俳優は男性(クウェンティン・クリスプ)である。
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「任侠ヘルパー」

2012-12-15 07:00:14 | 映画の感想(な行)

 テレビドラマの劇場版で、主役はSMAPのメンバー。観る前は何とも軟派な印象を受けてしまうシャシンだが、これがどうして、実に重いテーマを扱っていて見応えがある。先入観だけで断定するのは禁物だと改めて思ったものだ(笑)。

 極道あがりの翼彦一は堅気として生きようと一度は決心するものの、勤め先のコンビニでのトラブルにより逮捕されてしまう。刑務所の中で元ヤクザの老人と知り合った彼は、その老人の紹介により出所後は静岡県の港町を根城にする極鵬会に身を寄せる。そこで彦一は身寄りの無い老人たちに法外な利子で金を貸し、返済できなかったら劣悪な介護施設に放り込んで生活保護費や年金をピンハネするという、阿漕なシノギをまかせられる。しかし、昔ながらの極道である彼はそんな悪辣な稼業に我慢が出来ず、施設を立て直そうとするが、当然のことながらその行為は極鵬会との対立に繋がっていく。

 まず、この暴力団の“闇介護ビジネス”のイヤらしさに驚かされる。もちろん多分に誇張されてはいるのだろうが、似たような非道が実際に行われているらしいことは聞いている。また、このネタが映画で取り上げられるのは初めてではないだろうか。犠牲となる老人達の描き方もリアルで、観ていて身を切られる思いがする。

 また、彦一と知り合うシングルマザーの葉子は認知症の母親を抱えて苦労している。幼馴染みの議員のコネで最新の設備を誇る病院に母親を入れることが出来るが、いい加減な処置により病状は悪化。このあたりの展開も手加減が無く、葉子を取り巻くシビアな状況がレアな形で観客の前に差し出される。

 彦一に扮する草なぎ剛は好演で、優男なのにスゴ味があるという微妙な役柄を上手くこなしいてる。しかも、昔気質の渡世人を気取ってはいるが行動は暴力的かつ短絡的で、トータルで見れば世の中に迷惑を掛けており、本人もそれを薄々分かっているが自分ではどうしようもないという屈折した心情を滲ませているのも出色だ。

 映画は終わり近くになると無理に主人公のヒロイズムを前面に出そうとして、ドラマ運びに不自然さが生じており、重要なキャラクターであるはずの香川照之演じる議員の扱いも中途半端な面があって、作劇のヴォルテージが落ちてくる。乱闘シーンの段取りやキレ味もイマイチだ。しかし、選定された主題は大きく、社会保障の問題は今後ますます重要になってくることも考え合わせると、本作の存在感は決して無視できない。

 そして、設備と費用さえあれば解決できるというものでもなく、介護する者とされる者との血の通ったコミュニケーションがなければ画餅に帰してしまうことも示される。

 沈滞しきった地方都市の有り様はうまく描けている。葉子役の安田成美は力演で、風間俊介と夏帆の若手コンビも良い。
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「バッファロー’66」

2012-12-11 06:45:58 | 映画の感想(は行)
 (原題:Buffalo'66)98年作品。1966年生まれでニューヨーク州バッファロー出身の主人公は5年間の服役を終えて出所するが、実は他人の罪を被ったおかげで臭い飯を食うことになってしまったのだ。復讐を誓う彼だが、その前に刑務所に入っていたことを内緒にしていた両親を安心させるために、行きずりの女の子を誘拐して“両親の前で妻として振る舞え”と強要。二人のおかしな道中記が始まる。監督・主演はモデルやミュージシャンとしても知られるヴィンセント・ギャロで、これが演出第一作となる。

 前半のユルユル、スカスカした展開は好みじゃないと思いつつも、その無手勝流(?)なリズムは主人公のキャラクターに合わせているのだと納得しつつあった矢先、ラスト近辺のとって付けたような展開に少々面食らった。



 では嫌いな映画かというとそうでもなく、主人公のいじらしいほどの“純情”と“人のよさ”にホノボノとした良い印象を受ける。これでなかなか味のある映画だ。

 ヒロイン役のクリスティーナ・リッチはこの頃“体重オーバー厚化粧コギャル”と化していたが(笑)、ここでは母性的キャラクターにぴったりのナイス・キャスティング。アンジェリカ・ヒューストンやベン・ギャザラ、ロザンナ・アークエット、ミッキー・ロークといった脇の豪華な顔ぶれも要チェック。

 予告編にも使われていたイエスのナンバーをはじめ、リッチ嬢が踊るシーンのバックに流れるキング・クリムゾン(曲は「クリムゾン・キングの宮殿」に収録されている「ムーンチャンルド」。思わず一緒に口ずさんでしまった年功ロック・ファンの私である)など、作者のプログレ・フリークぶりもうかがえて興味深い。
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「人生の特等席」

2012-12-10 06:45:19 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Trouble with the Curve)余計なエピソードや消化不良のプロットも目立つのだが、後味の良い佳作であることは間違いない。なぜならストーリー自体が(ベタな書き方で恐縮だが ^^;)“約束通り”であるからだ。ハートウォーミングな筋書きを求めて映画館に足を運ぶ観客の期待を決して裏切ることはなく、適度な満足感を与えた後に劇場から送り出す。安心して接することの出来るシャシンだ。

 アトランタ・ブレーブスのベテランのスカウトであるガスは長年その“目利き”によって有力選手を発掘してきたが、老境に入った今は眼病にも悩まされ、思い通りの仕事ができない状態だ。ましてや昨今はブラッド・ピット主演の「マネーボール」で描かれたように、データを重視するスカウティングが幅を利かせているようで、ガスの居場所が無くなってきている。引退も示唆される彼をみかねた娘のミッキーは、無理矢理にガスの他州への出張に同行する。

 物語は予想通りに進む。アナクロだと思われていたガスの方法論が、実は有用なものであることが終盤で語られるし、データ偏重主義の傲慢なマネージャーはお灸を据えられる。弁護士であり、重要な案件を抱えつつも父親と向き合う道を選んだ健気なミッキーには、それ相応のハッピーな結末が待っている。

 ガスから才能を見出され、現在はレッドソックスのスカウトをしているチョイ二枚目な野郎が出てきたと思ったら、やっぱりミッキーと仲良くなる(笑)。早くに母を亡くしたミッキーの、父親に対する屈託もほぼ解消されるし、それを取り持つ“味のある人物(ここではスカウト仲間)”も、ちゃんと登場する。

 だが、それらは“冗長さ”とは縁遠いものだ。ガスに扮するのはクリント・イーストウッドである。久々に自身の監督作以外での登板だが、話を絵空事にさせないだけの渋すぎる存在感を発揮。絵に描いたような不良老年ながら、屈折した親バカぶりで逆に娘との距離が開いてしまったという、よくありそうだがヘタに描くと臭くて見ていられないシチュエーションに楽々と説得力を付与させている。

 ミッキーに扮したエイミー・アダムスの、一見醒めているようで実はナイーヴな心情を併せ持ったキャラクターを実体化させる力量にも感服。ジャスティン・ティンバーレイクやジョン・グッドマンら、脇の面子も申し分ない。そして何よりも、郊外の球場の雰囲気や明日を信じて頑張る若者達の描き方を通じて、古き良きアメリカの原風景を垣間見せているあたりがポイントが高い。

 もちろん試合のシーンも手抜きが無く、見せるべきところは効果的に演出されている。ロバート・ロレンツ監督の腕前は才気走ったところは無いが、堅実だと思う。

 もっとも、ミッキーの幼い頃のトラウマになりそうなエピソードの扱い方や、終わり近くになって有能な新人が都合良く現れるところなどは感心しない。ガスがこれから眼病にどう対峙するのかもあまり描かれず、尻切れトンボになっていると思う。そもそも、いくらデータ偏重の弊害とはいえ、変化球を打てない選手を平然と採用するほど大リーグは甘くはないだろう(笑)。しかし、これらの瑕疵があったとしても、観て損の無い映画だと言える。御都合主義も、たまにはいいものだ。
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「恋人たちのアパルトマン」

2012-12-09 19:28:00 | 映画の感想(か行)
 (原題:Fanfan)93年フランス作品。夢想家のアレクサンドルと奔放な女の子ファンファンとの恋のさやあてを描く。監督は小説家として知られ、本作が初の映画となる1965年生まれのアレクサンドル・ジャルダン。

 観る者を感動させるような秀作でもなく、才気あふれる先鋭的な作品でもない。でも、不思議と無視できない映画である。それは主人公アレクサンドルのキャラクターによるところが大きい。彼はいつも恋愛を素晴らしい遊びの思い出にしておきたい性格だ。同棲し、婚約をしている相手もちゃんといる。でも、いざとなるとまったく煮えきらない。

 物事をすべて他人事としてとらえ、自分からは動かない。徹底的にモラトリアム。わざと真剣な恋にはハマらないようにしている。手ごたえのない毎日だが、自堕落というのでもない。はた目には立派にカタギの生活。対外的には“好青年”で通っている。ただ、空想だけが彼にとってリアルであり、“現実”は空想のモチーフに過ぎない。



 こんな彼が初めて本当に好きになるファンファンはサーカスの芸人であり、自由に生きているように見えて、しかし実際は本当の意味で“自由”になれない不満を持っている女の子だ。二人はお互い好きなのに、性格が邪魔して素直になれない。

 アレクサンドルの性格が最もよくあらわされているのは、後半、彼がファンファンの部屋の隣に住むようになるくだりだ。彼女が入居する前に、彼は部屋を隔てる壁をすべてマジックミラーにしてしまう。彼女からは鏡だが、彼には相手がまる見えだ。二人の奇妙な“共同生活”が始まる。彼女が入浴するとき、彼もフロに入る。彼女が鏡に向かって音楽に合わせてダンスの練習をすると、彼も彼女と向かい合って踊りまくる。好きでたまらないのに、彼女の生活を覗き見て彼女と同じ行動をとることで、二人だけの甘い生活を夢想してしまうアレクサンドル。ヘタするとただの変態だが、あくまでも爽やかな青春映画タッチが巧妙にカバーする。

 ジャルダン監督は、この作品を撮るにあたって、不特定の若い男性にアンケートをとり、この主人公像を考え出したという。若い層にはアレクサンドルのようなキャラクターは少しも異常ではないらしい。なるほど、誰にでもそんなところ無くはないな・・・・とは思う。好きな相手とは付かず離れず、ただ空想にひたっているのは楽しいし第一気苦労がない。でも、彼女のプライベートを覗き、彼女のハダカを盗み見て、いったい彼女の何を知ったというのだろう。当然、主人公はあとできっちりオトシマエをつけられる。

 映画ではハッピーエンド。でも、実際こういうシチュエーションでメデタシメデタシで終わるとは限らない。夢想から現実へと踏み込むことの難しさ。でも、それをやり遂げたときの楽しさ。軽いタッチで難しいテーマをこなした、味のある小品だ。アレクサンドルに扮するのはヴァンサン・ペレーズ、ファンファンを演じるのはソフィー・マルソー、共に好演だ。
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「情熱のピアニズム」

2012-12-08 07:34:25 | 映画の感想(さ行)

 (原題:MICHEL PETRUCCIANI/BODY & SOUL )ドキュメンタリー映画としては正攻法の作りで、送り手によるいわゆる“作家性”等とはほぼ無縁の作品だ。しかし、本作に関してはそのことが何ら欠点にならない。描くべき対象が屹立した存在感を保持している場合、製作側による小賢しい“演出”など不要である。

 この映画の主人公、ミシェル・ペトルチアーニは生まれつき骨がもろく、成長しても身長が1メートルぐらいにしかならなかった。骨折なんか日常茶飯事で、自分ではロクに歩けない。しかし、彼には驚異的な音楽的才能があった。一度聴いた楽曲はすべて覚え、ピアノを弾く際の指の動きは健常者よりもはるかに速い。ジャズの名門ブルーノート・レーベルが契約した初めてのフランス人ミュージシャンが彼だ。

 さらにペトルチアーニは、底なしの快楽主義者でもあった。良くしゃべり、良く飲み食いし、常に好奇心旺盛。そして女には目が無かった。36年間の短い生涯の中で5人も6人も結婚・同棲相手がいて、子供も2人残している。こういう突出したキャラクターを前にして、映画監督ごときが策を弄して何になろう。本業の音楽活動と華々しい私生活。この二つを丹念に追っていれば、あとは“小さな巨人”であるペトルチアーニが盛り上げてくれる。

 演出のマイケル・ラドフォードは「イル・ポスティーノ」の監督として知られるが、今回は彼の個性はあまり出ていない。ハッキリ言って、彼でなくてもある程度の技量を持った演出家(注:音楽好きに限る)ならば誰でも良かったのではなかろうか。ただ、父親と同じ病気を持つ彼の息子の屈託を挿入したのは(作劇にアクセントを付けるという意味で)ラドフォードの手柄だと思う。

 私はミシェル・ペトルチアーニのディスクはブルーノート版のベスト物しか持っていないが、不自由な身体で弾いているとは思えないほどパワフルで、かつ美しい。劇中で彼がローマ法王の前で演奏するシーンがあるが、法王も彼のパフォーマンスは“(神が与えた)奇跡”だと思ったことだろう。音楽ファンならば要チェックの映画である。
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長谷川三千子「民主主義とは何なのか」

2012-12-05 06:51:17 | 読書感想文
 民主主義が絶対的正義であるかのような風潮に真っ向から異を唱えた本(2001年発刊)。哲学の教授でもある作者の長谷川は、小説家・野上弥生子の孫に当たる。

 近代民主主義の原点となった「人権宣言」を生み出したフランス革命において、民主主義の名のもとに地域共同体の破壊と大量粛清が行われた事実を指摘するのを手始めに、いかにデモクラシーが戦争の口実になり一般市民を苦しめ続けてきたかを畳み込むような筆致で論述している。



 特にジョン・ロックを「民主主義に対する思考停止状態を生み出した張本人」と断定する思い切りの良さは、まさに「気合」だ(笑)。戦後民主主義に疑問を持つ読み手からすれば、溜飲の下がる内容であることは間違いない。

 ただし、民主主義とは「ベストの方法」ではないが現時点での「ベターな方法」であることも確かだ。民主主義に潜む僭主制の危険性を駆逐するのは、やはり民主主義でなければならない。長谷川の場合、その担い手を「理性を持った特定の層」だと決めつけているようなフシがあるのは愉快になれない。

 作者の主張を突き詰めれば「単なる保守反動」にも繋がりかねず、そのあたりの詰めが甘いようにも感じられる。
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「綱引いちゃった!」

2012-12-04 06:43:50 | 映画の感想(た行)

 綱引きを題材にしたスポ根ものだが、驚いたことに肝心の試合のシーンが少ない。中盤の小学生チームとの練習試合と、ラストの本大会の一回戦、これだけだ。しかし、そのことが決して作品の欠点になっておらず、結果として満足出来る映画に仕上がっているのだから面白い。

 大分市役所の広報課に務める千晶は、市長から地域興しのための女子綱引きチーム結成を命じられるが、なかなかメンバーが集まらない。折も折、彼女の母親が勤める市の給食センターが廃止されて民間委託されるかもしれないという事態が発生。千晶は、給食センターの職員で綱引きチームを結成し、全国大会にエントリーすることが出来ればセンター廃止を取りやめることを市長に約束させる。

 本作の長所は、各登場人物のプロフィールを丹念に掘り下げることにより、地方都市を取り巻く問題を上手く描いている点だ。大分市は一応県庁所在地ではあるが、県内の別府や湯布院といった観光地に比べると地味な印象を受ける。もちろん県内随一の都市なのだが、決して大都会ではなく、不景気の波はそれなりに押し寄せている。

 メンバーの一人はダンナが仕事中にケガをしてリストラされ、再就職もままならない。またある者は兄弟全てが県外の都会に出てしまい、認知症の父親を一人で世話している。そして、亡き夫の連れ子を育てる主婦は、完全に生活に疲れている。ヒロインの母親にしても、夫の死後長い間娘を女手一つで育て、やっと就職させて一息ついたばかりだ。

 考えてみたら、ここで取り上げられる“安定した職業”というのは、市役所の職員と、綱引きのコーチングを買って出るJAの関係者ぐらいしかない。しかも、当局側は給食センターという市の事業所を民間に払い下げて従業員を“不安定な身分”に追いやろうとしている。つまりは、目先のソロバン勘定しか考えていないのだ。

 本作は“ご当地映画”であるにもかかわらず、市の幹部を悪者として扱っている点が面白い。財政健全化に繋がると思って実行した施策が、逆に市民を圧迫する結果になる。こういうことは現在日本中の自治体で起こっていることなのだろう。

 水田伸生の監督作を観るのは初めてだが、ソツのないドラマ運びで好感が持てる。主演の井上真央は努力型の女優で、才気はないが登板を重ねるごとに上手くなっている。これからもキャリアを伸ばしていくことだろう。コーチ役の玉山鉄二は三枚目役を楽しそうに演じているし、脇を固める浅茅陽子や西田尚美、渡辺直美、笹野高史、風間杜夫、松坂慶子といった面々も実にキャラが立っている。

 競技としての綱引きのシステムが紹介されているのも興味深い。最後に描かれる試合のシーンは、それまで散りばめられていたモチーフが一つになり、素晴らしい盛り上がりを見せる。観ている方も思わず手に汗を握ってしまった。劇中の“人生は団体戦だ!”というセリフも効いている。
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