♪♪ 私の お寺ライフ ♪♪

 ブログアップして9年目に突入。相変わりませんが、私の「如是我聞」をお送りします。南無阿弥陀仏

慶聞抄2020年3月号

2020-02-20 12:42:56 | 随想
慶聞抄(きょうもんしょう)



生と死は裏表

新型コロナウィルスのニュース、この「慶聞抄」がお手元に届く頃にはどうぞ収まっていますように。毎日、感染者や死者の数が増えていくのを聞くのは辛く苦しいです。

始めの頃の知人の話に、電車に乗って中国人と思しき集団を見かけて、思わず後ずさりしたのを恥ずかしく思うというのがありました。自分ならどうだろう? その後、ヨーロッパのどこかで日本人も差別に合っているとの話を聞いた時、明日は我が身に起こることと思いました。偏見を排し、科学的な知見に基づいて「正しく恐れる」ことが大切です。

本願寺新報(2月10日)に、福岡県の布教使、花田照夫師のこんな法話がありました。。

京都でお坊さんになる勉強をしていた時のこと。お寺の山門にこんな歌を見つけました。
 
老境や 花を見るにも ナモアミダブツ

散る花の姿に自らを重ね、いつの日か生まれゆくお浄土のたのもしさを詠んだものと受け止め、「ああ、いつかはこんなうたを詠めるようなお坊さんになりたいな」と思っていると、いつの間にか自分の後ろに立っていた60代くらいの3人のご婦人方が口々に 「寂しい歌・・」「悲しい歌・・」「こうなる前に楽しんどかないとね」

ええっ?と心底仰天びっくりしました。もう一度読み返して分かったのです。この3人と私とでは「ナモアミダブツ」の味わいが全く違っていたのでした。

この方たちにとって「南無阿弥陀仏」とは、通夜や葬儀といった人の死に関わる場面で僧侶がとなえる言葉、呪文のようなものだったのでしょう。だからこの歌を「人生のあきらめの歌」として理解したのです。

「老い」とは、誰しもがいつかそうなる姿です。親鸞聖人は、阿弥陀様のお慈悲を南無阿弥陀仏の中に尊くいただかれ、お浄土という「まことの命の行く先」をいただく仏道をお示しくださいました。そして、その世界を「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」と喜んでいかれました。

故・武内洞達先生は

 受けとめる 大地のありて 椿落つ

と読まれました。お浄土をいただいた念仏者の安堵の心を詠んだ尊い歌です。しかし、別の先生がこう詠みかえられました。

受けとめる 大地のありて 椿咲く

「落つ」と「咲く」は真反対の言葉です。しかし、これらの歌はどちらも全く同じ阿弥陀さまのお慈悲の世界を詠んでいるのです。



「生きる」と「死ぬ」は真反対の言葉ですが、「生のみが我らにあらず 死もまた我らなり」(法語カレンダー2月の法語・清沢満之)です。生まれた時から死につつある体であり、死は同時に往生であると聞かせていただきました。

生死一如(しょうじいちにょ)。  無分別智。  

人種も元は一緒、同じウィルスに感染するのがその証拠。「正しく見る」は「明らかにみる」、「諦める」の語源でありました。  合掌
コメント
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