慶(きょう)聞(もん)抄(しょう)
2017(平成29)年1月号(NO・38) 了雲寺 釈幸華

明けて楽しむなもあみだぶつ
正信偈の中に
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
佛言廣大勝解者 是人名分陀利華
とあります。(一切善悪の凡夫人 如来の弘誓願を聞信すれば 仏 広大勝解のひととのたまえり このひとを分陀利華と名づく) 戒律を守り菩提心をおこす善人から、ただ煩悩のままに悪をなすことしか知らぬものまで、すべての凡夫人が名号のおいわれを聞いて信ずることになれば、釈尊をはじめとする仏がたは、口をそろえてその人をほめたたえられます。「広大にしてすぐれた信心をえたひとよ」*如来会 「人間のなかでのめずらしい分陀利華(白い蓮の花)よ」*観経
前置きが長くなりました。新年の初めのタイトルはそんなフンダリケ=妙好人の一人、浅原才市さん(1850~1932)の言葉からいただきました。
娑婆(しゃば)は夜明けで 浄土の夜明け
明けて楽しむなもあみだぶつ
才市さんは、石見(島根県)の人です。お父さんが亡くなってお聴聞が始まります。
おやのゆいごん なもあみだぶつ
お寺で聞いたことが、心に真っ直ぐ届いて喜びの言葉となってほとばしります。下駄職人をしていたそうで、最初は木っ端に書き留めたのでしょう。
ええな せかいこくうが みなほとけ
わしもその中 なもあみだぶつ
才市 何処が浄土かい
ここが浄土のなもあみだぶつ
目にみえぬ慈悲が 言葉にあらわれて
南無阿弥陀仏と 声でしられる
死ぬは浮世のきまりなり
死なぬは浄土のきまりなり
これが楽しみ 南無阿弥陀仏
世界をおがむ 南無阿弥陀仏
世界がほとけ 南無阿弥陀仏
鈴木大拙師が「日本的霊性」という本で紹介されたので、世界的に知られるようになったといいます。蓮如上人がよく言われた「機法一体」=「救われるはずのない私と阿弥陀さまがお互いの中に入り込んでいる(大峯顕師のことば)」ということを見事に体現しています。紹介しきれない中で、絶対外せないのが有名なこれ。
かぜをひけばせきがでる
さいちがごほうぎ(法義)のかぜをひいた
ねんぶつのせきが でる でる
如来の家に生まれる
仏教では人生とは言いません。人生は生きること。生きるのが当たり前で、死ぬというのはあるべきではない。これに対して仏教では生死(しょうじ)と言います。お釈迦さまが初めて一番いやな死ぬということを越える道を発見された。何か分からないけれど、死ぬことを心配しなくてもいい、これを救われるといいます。(大峯顕師)
親鸞聖人は、信心の智慧(漢字に注意。人間の知恵と仏さまの智慧)をうるものは「如来の家に生まれる」と表現されています。(教行信証・信文類) 如来さまの家に生まれるということは、如来さまの子どもですから何の心配もないわけですね。合掌
2017(平成29)年1月号(NO・38) 了雲寺 釈幸華

明けて楽しむなもあみだぶつ
正信偈の中に
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
佛言廣大勝解者 是人名分陀利華
とあります。(一切善悪の凡夫人 如来の弘誓願を聞信すれば 仏 広大勝解のひととのたまえり このひとを分陀利華と名づく) 戒律を守り菩提心をおこす善人から、ただ煩悩のままに悪をなすことしか知らぬものまで、すべての凡夫人が名号のおいわれを聞いて信ずることになれば、釈尊をはじめとする仏がたは、口をそろえてその人をほめたたえられます。「広大にしてすぐれた信心をえたひとよ」*如来会 「人間のなかでのめずらしい分陀利華(白い蓮の花)よ」*観経
前置きが長くなりました。新年の初めのタイトルはそんなフンダリケ=妙好人の一人、浅原才市さん(1850~1932)の言葉からいただきました。
娑婆(しゃば)は夜明けで 浄土の夜明け
明けて楽しむなもあみだぶつ
才市さんは、石見(島根県)の人です。お父さんが亡くなってお聴聞が始まります。
おやのゆいごん なもあみだぶつ
お寺で聞いたことが、心に真っ直ぐ届いて喜びの言葉となってほとばしります。下駄職人をしていたそうで、最初は木っ端に書き留めたのでしょう。
ええな せかいこくうが みなほとけ
わしもその中 なもあみだぶつ
才市 何処が浄土かい
ここが浄土のなもあみだぶつ
目にみえぬ慈悲が 言葉にあらわれて
南無阿弥陀仏と 声でしられる
死ぬは浮世のきまりなり
死なぬは浄土のきまりなり
これが楽しみ 南無阿弥陀仏
世界をおがむ 南無阿弥陀仏
世界がほとけ 南無阿弥陀仏
鈴木大拙師が「日本的霊性」という本で紹介されたので、世界的に知られるようになったといいます。蓮如上人がよく言われた「機法一体」=「救われるはずのない私と阿弥陀さまがお互いの中に入り込んでいる(大峯顕師のことば)」ということを見事に体現しています。紹介しきれない中で、絶対外せないのが有名なこれ。
かぜをひけばせきがでる
さいちがごほうぎ(法義)のかぜをひいた
ねんぶつのせきが でる でる

如来の家に生まれる
仏教では人生とは言いません。人生は生きること。生きるのが当たり前で、死ぬというのはあるべきではない。これに対して仏教では生死(しょうじ)と言います。お釈迦さまが初めて一番いやな死ぬということを越える道を発見された。何か分からないけれど、死ぬことを心配しなくてもいい、これを救われるといいます。(大峯顕師)
親鸞聖人は、信心の智慧(漢字に注意。人間の知恵と仏さまの智慧)をうるものは「如来の家に生まれる」と表現されています。(教行信証・信文類) 如来さまの家に生まれるということは、如来さまの子どもですから何の心配もないわけですね。合掌