慶聞抄(きょうもんしょう)
親鸞聖人の筆になる名号
さとりのまへの縁をむすばん
7月10日に、1年に1度、組(そ)の住職と総代さんが一堂に集まる組会がありました。全員集まれば40人以上になるので、本堂ではソーシャルディスタンスは取れないということで、組会の会場としては初めて**市のホールをとってもらいました。
誰かとすれ違って、ん?・・何かが違うのを感じて改めて見返すと!・・何と馴染みの住職さんがペッタンコになっているのです。えっ、まさかのダイエット? それはそれは豊かな体格だったのです。それが見違えるほどのちっちゃな顔とスリムな体に! ほとんどの研修会や法座が中止だったので、丸一年ぶりの再会です。聞いてみると、糖質をゼロにしたといいます。最初の一か月はへたるほどしんどかったと。ホーッ・・頑張りましたね、エライ!
帰って早速ツレに報告。痛風も出て気にはしてるんやろうけれど、反応は乏しいものでした。往年のクライマーも今では、ケンタッキーフライドチキンのカーネルサンダース人形みたいになっています。膝を悪くしたので山に替えて始めた自転車も、去年の12月の中頃に帰ってきてからは4日に一度の買い出し以外乗ることもなし。二度目のワクチンを打ったら高知に、と言っていたのも今は昔。今年もまた浜の盆踊りが中止と聞いて、「こういう時は、静かにして動かんことや」と、タブレットを手に悟ったように言っています。ハァー・・・(これは私のため息)。
6月下旬のМさん宅の法事でのことです。お亡くなりになられたお連れ合いの七回忌に合わせて、お姑さんの五十回忌もお勤めしたいと伺っていました。お連れ合いには、幼くして亡くなられたご兄弟がおられ、生前,お姑さんがお墓の角に小さな仏さまをお祭りされているのも承知していました。
当日の朝伺うと、真っ先に「こんなのが出てきました」と、茶色く変色した紙の書付二つを示されました。半紙を縦三つに折りたたみ、表面に法名、了雲寺とあります。左右に開けてみると、中に法名と亡くなった年月日。一つは昭和17年、釈○○、もう一つは昭和19年、釈尼○○。両方とも女性、行年一才でした。
お連れ合いは、昭和14年にお生まれです。だから、3年後に一人、その2年後にも一人妹が生まれたけれど、一才というからには乳飲み子を、お姑さんは続けさまに亡くされたのです。当時、彼女は31~33歳。戦争中のことで物資は何もかも不足し、生活するにも厳しい毎日だったことでしょう。二度もうちのめされたであろうその人は、私の祖父が書いた愛し子の法名をお仏壇の奥深くしまい込み、63歳で亡くなるまで大切に保存されていたのでした。
図らずもその書に対面したことで、私が小学6年生のお正月に亡くなった祖父の面影を思い出していました。
計算してみると、若い母親が赤ちゃんのままで子どもを亡くした時、祖父は60代初めでご縁をいただきました。そしてその悲しみを胸に抱き一生を終えられた時、今度は父が57歳で。それぞれどのような言葉で残された方々にお取次ぎしたのでしょう。
今生ゆめのうちのちぎりをしるべとして来世さとりのまへの縁をむすばんとなり われおくれば人にみちびかれ われさきだたば人をみちびかん 生々に善友(ぜんぬ)となりて たがいに仏道を修せしめ 世々に知識としてともに迷執をたたん 「唯信抄」 合掌
親鸞聖人の筆になる名号
さとりのまへの縁をむすばん
7月10日に、1年に1度、組(そ)の住職と総代さんが一堂に集まる組会がありました。全員集まれば40人以上になるので、本堂ではソーシャルディスタンスは取れないということで、組会の会場としては初めて**市のホールをとってもらいました。
誰かとすれ違って、ん?・・何かが違うのを感じて改めて見返すと!・・何と馴染みの住職さんがペッタンコになっているのです。えっ、まさかのダイエット? それはそれは豊かな体格だったのです。それが見違えるほどのちっちゃな顔とスリムな体に! ほとんどの研修会や法座が中止だったので、丸一年ぶりの再会です。聞いてみると、糖質をゼロにしたといいます。最初の一か月はへたるほどしんどかったと。ホーッ・・頑張りましたね、エライ!
帰って早速ツレに報告。痛風も出て気にはしてるんやろうけれど、反応は乏しいものでした。往年のクライマーも今では、ケンタッキーフライドチキンのカーネルサンダース人形みたいになっています。膝を悪くしたので山に替えて始めた自転車も、去年の12月の中頃に帰ってきてからは4日に一度の買い出し以外乗ることもなし。二度目のワクチンを打ったら高知に、と言っていたのも今は昔。今年もまた浜の盆踊りが中止と聞いて、「こういう時は、静かにして動かんことや」と、タブレットを手に悟ったように言っています。ハァー・・・(これは私のため息)。
6月下旬のМさん宅の法事でのことです。お亡くなりになられたお連れ合いの七回忌に合わせて、お姑さんの五十回忌もお勤めしたいと伺っていました。お連れ合いには、幼くして亡くなられたご兄弟がおられ、生前,お姑さんがお墓の角に小さな仏さまをお祭りされているのも承知していました。
当日の朝伺うと、真っ先に「こんなのが出てきました」と、茶色く変色した紙の書付二つを示されました。半紙を縦三つに折りたたみ、表面に法名、了雲寺とあります。左右に開けてみると、中に法名と亡くなった年月日。一つは昭和17年、釈○○、もう一つは昭和19年、釈尼○○。両方とも女性、行年一才でした。
お連れ合いは、昭和14年にお生まれです。だから、3年後に一人、その2年後にも一人妹が生まれたけれど、一才というからには乳飲み子を、お姑さんは続けさまに亡くされたのです。当時、彼女は31~33歳。戦争中のことで物資は何もかも不足し、生活するにも厳しい毎日だったことでしょう。二度もうちのめされたであろうその人は、私の祖父が書いた愛し子の法名をお仏壇の奥深くしまい込み、63歳で亡くなるまで大切に保存されていたのでした。
図らずもその書に対面したことで、私が小学6年生のお正月に亡くなった祖父の面影を思い出していました。
計算してみると、若い母親が赤ちゃんのままで子どもを亡くした時、祖父は60代初めでご縁をいただきました。そしてその悲しみを胸に抱き一生を終えられた時、今度は父が57歳で。それぞれどのような言葉で残された方々にお取次ぎしたのでしょう。
今生ゆめのうちのちぎりをしるべとして来世さとりのまへの縁をむすばんとなり われおくれば人にみちびかれ われさきだたば人をみちびかん 生々に善友(ぜんぬ)となりて たがいに仏道を修せしめ 世々に知識としてともに迷執をたたん 「唯信抄」 合掌