慶聞抄(きょうもんしょう)
お念仏は自分との対話
世の中にたえて濃厚接触なかりせば春のこころはむなしかりけり・・新型コロナウィルスのせいで、卒業式やイベントなど取りやめになっています。私もご門徒さんと約束した土筆とりができなくなりました。中国に代わってイタリアなどEUの動行が焦点になってきて、日本の頑張ってる観が際立っています。いやいや明日になったらひっくり返っているかも。油断は禁物。
ニュースを聞いていて使ってほしくない言葉の一つに、「これは戦争だ」というのがあります。ウィルスとの闘い、という意味は理解しますが、国境封鎖だ、外出禁止だ、という声高の言辞が(手段としては間違ってはいないけど)飛び交うことの異常さに「慣れ」てしまいはしないかとの危惧を感じます。それは有事のシュミレーションでもあるわけで、「二度と戦争はしてはいけない」のだからウィルスを利用した言辞はやめてほしい。
そうでなくても感染者に対する差別や、子ども連れで出かけるのに人目が気になるとの保護者の声などを聞くと、戦中の「非国民」という言葉を思い出して息苦しくなってきます。何が正しいか、どうすべきか、自分で考えることです。
去年のお花まつりを思い出します。法要前の夕方、山の公園の桜の下に敷物をひいて、花見弁当を囲みました。そばのべンチには、三金さんのお弁当をほうばる姿も。
「天上天下 唯我独尊」。生まれたばかりの釈尊が言われたという・・。これは、私だけが尊いということではなく、一人の人間の存在の尊さを言っているのですね。どうして尊いのか。
連れ合いの一人自転車旅行のアルバムより「花咲く山里」
法語カレンダー、4月のことばに答えがありそうです。
「お念仏というのは つまり自分が 自分に対話する道」。
明治から昭和にかけて活躍された僧侶の中でも、特に知られたお一人の曽我量深師の言葉です。真宗大谷派、仏教思想家でもありました。
この言葉に続いて、「自分が自分と対話するのが如来の本願というんでしょう。自分が自分と対話できないならば、本願という意味はないですわ。自己は自己と対話するということが本願の念仏だと、そういうふうに一つこう考えたらどういうもんでしょう。(中略)南無阿弥陀仏ということは、いつも仏さまと自分と対話・・、仏さまというけどもやはり自分でしょうね。」と述べられています。
阿弥陀さまに願われ、そのはたらきのなかで、照らされた我が身と聞かせていただきながら、自らのなかで対話をし日々を暮らしていく生き方こそ、念仏の「道」を歩むということでしょうと、東光爾英師は解説くださっています。
自分との対話をするには人とつるんでいてはむずかしい。「一人お花見」もまたよきかな。 合掌
お念仏は自分との対話
世の中にたえて濃厚接触なかりせば春のこころはむなしかりけり・・新型コロナウィルスのせいで、卒業式やイベントなど取りやめになっています。私もご門徒さんと約束した土筆とりができなくなりました。中国に代わってイタリアなどEUの動行が焦点になってきて、日本の頑張ってる観が際立っています。いやいや明日になったらひっくり返っているかも。油断は禁物。
ニュースを聞いていて使ってほしくない言葉の一つに、「これは戦争だ」というのがあります。ウィルスとの闘い、という意味は理解しますが、国境封鎖だ、外出禁止だ、という声高の言辞が(手段としては間違ってはいないけど)飛び交うことの異常さに「慣れ」てしまいはしないかとの危惧を感じます。それは有事のシュミレーションでもあるわけで、「二度と戦争はしてはいけない」のだからウィルスを利用した言辞はやめてほしい。
そうでなくても感染者に対する差別や、子ども連れで出かけるのに人目が気になるとの保護者の声などを聞くと、戦中の「非国民」という言葉を思い出して息苦しくなってきます。何が正しいか、どうすべきか、自分で考えることです。
去年のお花まつりを思い出します。法要前の夕方、山の公園の桜の下に敷物をひいて、花見弁当を囲みました。そばのべンチには、三金さんのお弁当をほうばる姿も。
「天上天下 唯我独尊」。生まれたばかりの釈尊が言われたという・・。これは、私だけが尊いということではなく、一人の人間の存在の尊さを言っているのですね。どうして尊いのか。
連れ合いの一人自転車旅行のアルバムより「花咲く山里」
法語カレンダー、4月のことばに答えがありそうです。
「お念仏というのは つまり自分が 自分に対話する道」。
明治から昭和にかけて活躍された僧侶の中でも、特に知られたお一人の曽我量深師の言葉です。真宗大谷派、仏教思想家でもありました。
この言葉に続いて、「自分が自分と対話するのが如来の本願というんでしょう。自分が自分と対話できないならば、本願という意味はないですわ。自己は自己と対話するということが本願の念仏だと、そういうふうに一つこう考えたらどういうもんでしょう。(中略)南無阿弥陀仏ということは、いつも仏さまと自分と対話・・、仏さまというけどもやはり自分でしょうね。」と述べられています。
阿弥陀さまに願われ、そのはたらきのなかで、照らされた我が身と聞かせていただきながら、自らのなかで対話をし日々を暮らしていく生き方こそ、念仏の「道」を歩むということでしょうと、東光爾英師は解説くださっています。
自分との対話をするには人とつるんでいてはむずかしい。「一人お花見」もまたよきかな。 合掌