♪♪ 私の お寺ライフ ♪♪

 ブログアップして9年目に突入。相変わりませんが、私の「如是我聞」をお送りします。南無阿弥陀仏

慶聞抄 2018年7月号

2018-06-22 14:24:05 | 随想
慶(きょう)聞(もん)抄(しょう)
  2018(平成30)年7月号
(NO、56) 了雲寺 釈幸華


半夏生(はんげしょう)


虐待

耳を覆いたくなるようなニュースが毎日のように続きます。中でも東京目黒区の結愛ちゃん(5)の虐待事件は、パパに許しを請う文面が痛々しすぎます。十分な食事を与えられることも一緒にお出かけさせてもらうこともなく、暗闇の中で一人お手紙を書いていたそうです。

躾(しつけ)という名の暴力。お父さんは、彼女が邪魔だったのか、でもお母さんは実の母。お父さんはどんな人なのか、夫婦の関係はどうだったのか、どんな背景があればこんなことが起こりえるのかいろいろ考えさせられます。


阿弥陀さまのお慈悲の例えとして用いられるのが「親さま」あるいは「お母さん」です。でもこんな事件があると、もうこの例えも適切ではないのかと思えてきます。とっくに母性本能という言葉は聞かれなくなりました。文化的・社会的動物なんですね。
 
さるべき業縁の 

こういう時、すぐ浮かんでくるのが、『歎異抄』第13条です。「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」 親鸞聖人は、自分のこころが良くて殺さないのではない、そういう縁に出会わないですんだから殺さないだけなのだとおっしゃったのです。条件によってはどんなこともしてしまうのが人間というものなのだと。

あのお父さんを極悪人呼ばわりしてもしようがありません。多分、彼自身のこれまでも愛に満ちて幸せだったとは言えない日々ではなかったか。個々の責任はあるとして、私たち社会全体としても問われなければなりません。

小児学会の推計では毎年350人が犠牲になっているとのことです。1日当たりほぼ1人。防止に向けて取り組んでいる団体によると、圧倒的に人数や予算が足りません。欧米基準の何分の一とか。必要な対策は、3点。自治体と警察の情報共有、親権の停止、児童相談所の組織改革。つまり、親子のつながりを絶たないために、親支援と介入・救出の部署を分ける必要があると。

人間社会が過酷で、一番確かと思われてきた親子関係でさえも崩壊していっている。カンヌ映画祭で最高賞を取った是枝裕和監督が「万引き家族」で言いたかったのも、そういうことでしょう。人によっては、無条件で親の愛を語れない、お父さんやお母さんを好きでいられないということがありえるということを頭のどこかに置いておかなければならないのかも知れません。

しかし、これだけは言えます。結愛ちゃんの虐待を通報してくれた香川県の近所のおばさん。彼女のように、我・彼の別なく心配する人になること。もっと言えば「おせっかい」と言われるくらいでちょうどいいのでは。


*写真は、中央公会堂であった仏教講演会。講師の一人、青少年問題カウンセラーで「御堂さん」の編集者でもある外松太恵子さんは、結愛ちゃんの事件に触れ、「私たち大人の方こそごめんなさい、ゆるしてくださいです」と話されました。

罪を憎んで

 新幹線内でナタやナイフで殺傷に及んだ22歳の男性もそうです。連行される時、頭を上げ真っ直ぐ前を見ていました。私には、うつむいて顔を隠すより深い孤独と絶望を感じました。学校時代にいじめられたことがあって引きこもってたそうです。
 
この国には「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありました。でも最近は聞きません。ますます社会が不寛容で、息苦しくなっていっているのではないでしょうか。                                             合掌
コメント
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