♪♪ 私の お寺ライフ ♪♪

 ブログアップして9年目に突入。相変わりませんが、私の「如是我聞」をお送りします。南無阿弥陀仏

慶聞抄 5月号

2016-04-27 13:48:04 | 随想


慶(きょう)聞(もん)抄(しょう)
  2016(平成28)年5月号
(NO・30) 了雲寺 釈幸華

 100分d e名著・歎異抄
Eテレ月曜の夜に「100分de名著」というのがあります。何と4月は「歎異抄」、しかも解説が相愛大学教授の釈徹宗(しゃくてっしゅう)先生と新聞の番組欄で知るや、ラインなどで友人らに連絡しまくりました。(途中で手が痛くなったので止め)幸いにも、お花まつりで本堂にお集まりの皆さんにお知らせすることができました。

*「歎異抄」:鎌倉時代に書かれた書物。浄土真宗の開祖である親鸞聖人の門弟である唯円の作とされる。書名は、「異義を歎(なげ)く」という意味で、師の死後、その教えとは異なる解釈が広まっていることを批判し、聖人の真意を伝えるためにまとめられた。

第1回・人間の影を見つめて
冒頭、あの司馬遼太郎さんが無人島に一冊持って行くとしたらこれと言われたと(へえ!)。釈先生、どんな本か聞かれ、いきなり伊集院光さんに質問。「仏教と聞けば、どんなイメージですか?」伊氏、「修行して悟りを開いたありがたーいお坊さんが、人生の尊さを教えてくれる・・」想定どおりの答に「従来の仏教のイメージをひっくりかえすだけの力をもった書」だときっぱり。
まず序の「幸いに有縁の知識によらずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。」でキイーワードを提示。(幸いにも縁あって、まことの教えを示してくださる方に出会うことがなかったなら、どうしてこの易行の道に入ることができるでしょうか。決して自分勝手な考えにとらわれて、本願他力の教えのかなめを思い誤ることがあってはなりません。)
仏道の主流は修行して悟りを開く=自力=難行、これに対して阿弥陀仏の本願を信じて浄土に往生する=他力=易行。師の法然は、それまでのわき役と主役を入れ替え、阿弥陀仏は仏教の救済原理の象徴との解説に伊氏、「腑に落ちた。競争社会で落ちこぼれた人は努力しなかったのか?こっちを救わないでどーすんのって。」それを引き取り「努力したと思っている人のごう慢をつく、また枠からこぼれる人のための道筋をつくる、その両面があると思います。」と釈先生。
阿弥陀仏の光に照らされて、自分の影の暗さを思い知らされるとして引用されたのが、第4条。「今生にいかにいとほし不憫とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。」(この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。)自分は立派なことをしてると思ってるんじゃないか、自分の都合を振り回しているだろうと、これがいつもささやいてくるという釈先生に、何かにぶつかったとき思い出しますねと、伊氏。

第2回・悪人こそが救われる!
歎異抄の中で一番有名な第3条。「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」善人だって救われるのに、ましてや悪人だって・・との説明に、えっ、えっ、えっ、の伊氏。磯野アナウンサーが仏教でいう善人・悪人は私たちがいうそれではないのでは、と指摘。
釈先生、持ち出してきたパネルに野球のキャッチャーの絵(さすが!)。真ん中ストライクゾーンに悪人の札を張り付け、自分で悟りを開けない人が阿弥陀仏の目当て。煩悩を滅することができないのであれば、われわれすべて悪人。悪人の自覚を持つこと、と。
自分で悟りを開けると思う人の危うさにも言及。伊氏はネット上の「炎上」を持ち出して、正義側のコールが「死んでから詫びろーバカヤロー」など暴力性が出てくると応じ、先生は、リミッターがきかなくなる、仏教ではどんな行為も思想も偏ってはダメ、現代人が考えなくてはならないところと押さえました。
第9条にこんな話が出てきます。唯円が救われるって言われても嬉しくないんですと親鸞に打明けると、君もそうか、ワシもそうなんや、と。先生、自分の言葉でしゃべってますやん!「80代半ばでこんなこと言う人だったんですね」本気で嬉しそう。「唯円もよくぞ聞いたと思う。これがなかったら後世、親鸞の人物像がよく分からなかった。」喜べない人を救うために阿弥陀仏はいる、だからこそ往生は間違いないのだと。原文にはしびれるような言葉が、と引用されたのがこれ。「苦悩の旧里(この世)はすてがたく、いまだ生まれざる安養(あんにょう)浄土はこひしからず候」    
悪人については、もう一つの意味がありました。「安城御影(あんじょうのごえい)」といわれる肖像画には、猫の皮の草履や鹿の骨で作った杖が描かれています。

殺生をせねば生きていけない、当時悪人とよばれていた人々へのまなざし。「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれら」と言い切っています。革命的ですね!と伊氏。宗教は、社会と別の価値を持たないと存在の意義がない、と先生。伊氏のコメントが切なく響きます。「働かない、お金を持っていない・・というのが悪、違う価値観が救ってくれたらいいな・・誤解されたり、敵視されたり・・よく分かる!」売れない芸人さんへの伊氏のまなざし・・

第3回・迷いと救いの間で
後半部分が本来の本文。経典で学ばないと往生出来ないとか、どんな悪いことをしてもいいのだとかさまざまな異義が横行します。
何が善で何が悪か、そこで第13条、聖人と唯円の会話が引用されます。私の言うことをきくか・・はい・・人を千人殺してくれないか・・一人として殺すことはできない・・縁がないから一人も殺さないだけなのだ。自分の心が善いから殺さないわけではない。また殺すつもりがなくても、百人、千人の人を殺すこともあるだろう・・。
我々の考える善悪は、自分の都合を通したものと先生に言われた伊氏は、以前見たNHKのドギュメンタリーを思い出します。暴力場面に嫌悪感を抱いた人が、自分の家族に害を与えた人にやっているのだと聞かされて脳に快感を覚えたと。情報一つで見方が変わる恐ろしさ。先生は社会の倫理に依拠してしまうことの危うさがあるんじゃないか、何が善で何が悪か、真剣に判断しているのかと問います。
第10条、「念仏には無義をもって義とす」。無義の義は、はからい、あとの義は本義。我々の知性や理性で理解できないもの、はからいを捨てていかなければ本当の他力の念仏にはならない。我々の社会では常にはからっている。損か得か、敵か味方か。どこかで無条件にまかせることができる、抱きしめてもらえるからこそ苦難の人生を生きていける。ボク分かりました!と伊氏。何かの縁で謝罪会見しなくちゃならない場面で、「今の気持ちは・・ナモアミダブツ・・」(笑)

第4回・人間にとって宗教とは何か
 第16条に回心(えしん)と出てきますが、生涯ただ一度の大転換のことです。「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいだしまゐらすべし。・・これ自燃なり」じねん、おのずとそうなる。この身のままおまかせする、そういう扉が開かれてゆく、と先生。
 後序に、法然聖人がおいでになったころのお話。親鸞聖人と同門のお弟子方との間で論争がありました。親鸞聖人が自分の信心と法然聖人の信心は同じだと言われたところ、同門の方々が反対なされたのです。どちらの主張が正しいか法然聖人に聞きますと、法然聖人は「如来より賜りたる信心ですから同じです。」と言われました。
 聖人が常々おっしゃっておられたこと。本願をよくよく考えてみると、ただこの親鸞一人をお救いくださるためであったと。先生は、これが宗教の救いの本質だと言われます。出会ってしまうと出会う前にはもどれない。消費するだけの情報とは違う、情報のつまみ食いでは危うい。歎異抄は様々なリミッターを再確認する書でした。(以上A4裏表で歎異抄、真宗始まって以来の暴挙!)

見逃した友人が私の録画を見に来て、思いがけず深―い話(?)となりました。     合掌
*次回お寺カフェ、5/18(水)、6/8(水)


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