慶聞抄(きょうもんしょう)
初秋の陽を浴びて輝く柘榴(ざくろ)
生と死
高校の同級生で作るグループラインに衝撃の映像が送られてきました。そこには赤字で「祝敬老」とか「御祝」とか書かれた包みと**のかつおパックが。三重県に住むAからで、町内の自治会からもらったとのこと。「少々内心フクザツです」と。見せられたこちらも動揺少なからず「フ・ク・ザ・ツ」と返したのですが、しばらく後以下のように返信し直しました。
「やっぱ敬老でお願いします。
自転車でお出かけ関係3連発。1、鍵が無いないで大騒ぎして見つかった後、3日も経たないのにまた見つからないことに。さすがによう言い出せない末に洗濯網から出てきた。2、お出かけしようと靴を履いたのに忘れ物。靴を脱いで部屋に入ったとたん、何を忘れたのかを忘れた。3、信号で止まるとき、片足を伸ばして地につけたら、急につって痛かった。」
コロナ禍で会えないまま古希は過ぎました。「不要不急」の外出は控えるということが重要ですが、なんと多くの人生の楽しみや大切なことが「不要不急」にひとまとめにされていることか! 中三の孫娘の修学旅行は無くなり、この4月に一年生になった孫はいきなりタブレット学習。Wi-Fi設備から始めたそうです。何年これが続くか分かりませんが、将来「コロナ世代」と呼ばれる何かしらのコミュニケーション不全症?とならないか心配です。
お聴聞(ちょうもん)も今「不要不急」の中にあります。以下は吉野の蓮如さんゆかりの『本善寺報秋季彼岸号』からの受け売りです。
昨年7月の本願寺の掲示ポスターに、
ウィルスで死ぬのではない
生まれてきたから死ぬのだ
いまさら驚くことか
生きて死ぬいのちを生きている
とあって、「コロナ禍の時に不謹慎」という苦情が多数本願寺に寄せられたようです。仏法を聞いていない人ならともかく、寺の住職からも苦情があったということの方がびっくりです。
「人は生まれてきたから死ぬのである。」お釈迦さまの言葉は明快です。鍛冶屋のチュンダ少年の調理したキノコの中毒で80歳で命を終えられるのですが、責任を深く感じるチュンダに苦しい中でも声をかけられます。「たとえ、汝の作ってくれたキノコ料理を食べずに生きながらえても、明日他の縁で死ぬかもしれないのだ。」と。
親鸞聖人も88歳(1260年)の時のご消息(お手紙)の中で
去年から今年にかけて、老若男女を問わず多くの人々が、この世のいのちを終えた事は本当に悲しいことです。けれども「いのちあるものは必ず死ぬ」という無常の道理は、すでにお釈迦さまが詳しくお説きになっているのですから今さら驚くようなことではありません。
とお示しくださっています。
先年往生された梯實圓和上のご法話です。
私たちは「生と死」を真反対の事象ととらえています。「生きることもありがたい事だが、死ぬ事もありがたい事だ」と言えるような境地が開けたらいいのではないですか。本当はそうなのでしょう。どちらもありがたい事と受け入れる精神の領域というものを開いていこうとしたお方が仏さまです。
私の口を通して出てくださる「なんまんだぶつ」のお念仏が「必ず救う」という阿弥陀さまのさとりの姿、おはたらきそのものとお聞かせいただくと、虚しく滅んでいくいのちではなく大きな安心の中で生きさせてもらういのちと気づくことができます。
敬老に動揺しつつも往く道明かし 合掌
初秋の陽を浴びて輝く柘榴(ざくろ)
生と死
高校の同級生で作るグループラインに衝撃の映像が送られてきました。そこには赤字で「祝敬老」とか「御祝」とか書かれた包みと**のかつおパックが。三重県に住むAからで、町内の自治会からもらったとのこと。「少々内心フクザツです」と。見せられたこちらも動揺少なからず「フ・ク・ザ・ツ」と返したのですが、しばらく後以下のように返信し直しました。
「やっぱ敬老でお願いします。
自転車でお出かけ関係3連発。1、鍵が無いないで大騒ぎして見つかった後、3日も経たないのにまた見つからないことに。さすがによう言い出せない末に洗濯網から出てきた。2、お出かけしようと靴を履いたのに忘れ物。靴を脱いで部屋に入ったとたん、何を忘れたのかを忘れた。3、信号で止まるとき、片足を伸ばして地につけたら、急につって痛かった。」
コロナ禍で会えないまま古希は過ぎました。「不要不急」の外出は控えるということが重要ですが、なんと多くの人生の楽しみや大切なことが「不要不急」にひとまとめにされていることか! 中三の孫娘の修学旅行は無くなり、この4月に一年生になった孫はいきなりタブレット学習。Wi-Fi設備から始めたそうです。何年これが続くか分かりませんが、将来「コロナ世代」と呼ばれる何かしらのコミュニケーション不全症?とならないか心配です。
お聴聞(ちょうもん)も今「不要不急」の中にあります。以下は吉野の蓮如さんゆかりの『本善寺報秋季彼岸号』からの受け売りです。
昨年7月の本願寺の掲示ポスターに、
ウィルスで死ぬのではない
生まれてきたから死ぬのだ
いまさら驚くことか
生きて死ぬいのちを生きている
とあって、「コロナ禍の時に不謹慎」という苦情が多数本願寺に寄せられたようです。仏法を聞いていない人ならともかく、寺の住職からも苦情があったということの方がびっくりです。
「人は生まれてきたから死ぬのである。」お釈迦さまの言葉は明快です。鍛冶屋のチュンダ少年の調理したキノコの中毒で80歳で命を終えられるのですが、責任を深く感じるチュンダに苦しい中でも声をかけられます。「たとえ、汝の作ってくれたキノコ料理を食べずに生きながらえても、明日他の縁で死ぬかもしれないのだ。」と。
親鸞聖人も88歳(1260年)の時のご消息(お手紙)の中で
去年から今年にかけて、老若男女を問わず多くの人々が、この世のいのちを終えた事は本当に悲しいことです。けれども「いのちあるものは必ず死ぬ」という無常の道理は、すでにお釈迦さまが詳しくお説きになっているのですから今さら驚くようなことではありません。
とお示しくださっています。
先年往生された梯實圓和上のご法話です。
私たちは「生と死」を真反対の事象ととらえています。「生きることもありがたい事だが、死ぬ事もありがたい事だ」と言えるような境地が開けたらいいのではないですか。本当はそうなのでしょう。どちらもありがたい事と受け入れる精神の領域というものを開いていこうとしたお方が仏さまです。
私の口を通して出てくださる「なんまんだぶつ」のお念仏が「必ず救う」という阿弥陀さまのさとりの姿、おはたらきそのものとお聞かせいただくと、虚しく滅んでいくいのちではなく大きな安心の中で生きさせてもらういのちと気づくことができます。
敬老に動揺しつつも往く道明かし 合掌