♪♪ 私の お寺ライフ ♪♪

 ブログアップして8年目に突入。相変わりませんが、私の「如是我聞」をお送りします。南無阿弥陀仏

慶聞抄2020年2月号

2020-01-22 06:36:32 | 随想
慶聞抄(きょうもんしょう)


  聞法会館・総会所での通夜布教

ご正忌報恩講にて

16日はお逮夜参りがないので、これは本山の報恩講さんにお参りしなさい、ということやと合点して、毎年1月のその日は前日から京都の人になります。通夜布教をお聴聞すれば、宿代要らずでお風呂もいただけるという有難さ。私のことだからそれを吹聴したのでしょう、「来たはるはずやと思って」と、私を訪ねてきてくださった津村別院の教学仲間がおってくださいました。有難いなあ!

以下は、15日の特別講演、大竹輝道師。

令和というのは、仏教的に「りょう」と読んでほしかったですね。「れい」と読むと何か命令されているようで。親鸞聖人の90年のご生涯で何回元号が変わったかご存知ですか。答えはまた来年・・、と言ったら(笑)

では手を挙げていただきましょう。1番16回、2番26回、3番36回。(私は2番に手を挙げました)正解は3番です。(えー!そんなにぃ)天皇が変わっただけでなく、天災や具合の悪いことがあるとすぐ替えたんですね。

聖人は9歳で出家するのですが、梅原猛さんの本によりますと、5人の兄弟全員が出家するのです。母は吉光女という人で、たっての願いで男の子すべてを出家させる。何があったのか。母は源氏の出。聖人が7歳の時、源氏が挙兵します。当時のならいでは、戦に負けた方は女子供ともども殺されることであったでしょう。

聖人が58歳の時です。寛喜2年、西暦で言うと1230年のこと。旧暦で6月18日といいますと7月末でしょうか、積雪2寸、6センチ。あるところでは3尺あまりになったそうで、『吾妻鏡』には「草木葉枯れ、ひとえに冬気のごとし」とあります。これが大飢饉の始まりで1239年まで続いたようです。鎌倉幕府も禁じていた人身売買を許さざるを得ない状況になります。

「恩徳讃」を作られたのは85歳の時です。恩。言葉の元の意味は、自分になされたことを知る、ということです。

   如来大悲の恩徳は
   身を粉にしても報ずべし
   師主知識の恩徳も
   ほねをくだきても謝すべし
 
如来の大慈悲心、慈はマイトリー、見返りを期待しない慈しみのこころ、悲はカルナ―、非は羽がちぎれるような状態の字ですから、そんな悲しみを共にするこころ。師主は釈尊、知識はその教えに自分を導いてくださった方々。(親鸞聖人にあっては法然さまに違いない)
 
法然聖人のお弟子は300人もおられたようです。その中で、聖覚という方がおられ、その方の書かれたものの中に「身をくだきても」「ほねを粉にしても」と出てきます。親鸞聖人はよほどこの方を尊敬されておられたのですね。 

 奉讃演奏会は、合唱団の歌もバイオリンの演奏もすばらしいものでした。隣り合わせに座っっておられた先輩と話が弾みました。山口から参加の坊守さん。早くに住職を失くし、代務住職を頼んで毎日のお参りをなさってこられたとのこと。今日明日は、ゆっくり楽しみたいと。来年もお会いしたいものですね、とお名前をお聞きしようとしたら、「それはまた来年」といわれてしまいました!
                                              合掌
コメント
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