慶(きょう)聞(もん)抄(しょう)
2018(平成30)年6月号
(NO・55) 了雲寺 釈幸華
栴檀(せんだん)
五月病
久しぶりに中仏(住職になるため勉強させてもらった中央仏教学院の通信教育)の仲間の学習会に参加しました。講師は、高田未明師。本学、つまり通信制ではなく日中、お若い学生さんに直に教えておられる先生です。生徒さんの多くは、お寺の後継ぎ、もしくはその周辺の方です。で、そちらの方のお話が面白くて・・。
ゴールデンウィークが終わった頃、「センセ、お話があります」とやってくる学生がいます。聞いてみると、「やめます」どうして?「多くの先輩や他の人、ホンマに信じてるんですか?」 例えば、有名大学かどこかの法学部、経済学部などを卒業し、親に言われて取りあえず中仏に。そしたら、毎日「阿弥陀仏」とか「念仏」とか「浄土」とか。お釈迦さんと阿弥陀さんの区別もつかない人が「もう限界です。やってられません」という訳です。(さあ、センセ、どうする・・・)
先生は、おもむろに白板(このごろはうちの本堂のような黒板は少ない)に向かい、はっきりと大きな字で「真実」と書かれました。そして、こう学生に問うそうです。
「逆にゆうたら、仏教に説かれているもの以外に、この世のことで信じられるものがあるのですか」と。心のよりどころとなる、けっして裏切られることの無い・・・。いろいろお話しても去っていく学生はいます。ただ、残った学生にある時こう聞くのです。テトリスのように(ゲームの名前だそうですが、私には分かりません)一気に疑問が解け、あっ、こういうことやったのかと思った時がありますか、と。そしたら、彼らは異口同音に言いました。自明のことと思っていた善悪が、自分が思っていたこととは違っていた。あるいは、自力と他力。こちらのことではなく、向こうのことだと。
転換点
例えば『歎異抄』第5条はこうです。「親鸞は父母の孝養(ぶも・きょうよう)のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず(亡き父母の追善供養のために念仏したことは一度もありません)」 その理由は①命のあるものはすべてみな、これまで何度となく生まれ変わりしてきた中で、父母であり兄弟・姉妹であった。この世の命を終え、浄土に往生してただちに仏となり、どの人をもみな救わなければならない。②念仏が自分の力で務める善なら、その功徳によって亡き父母を救いもしようが、念仏はそのようなものではない。*以上、梯實圓著『大きな字の歎異抄』より
方向が逆なんだ!仏教に会わせてもらったら、むしろ亡き父母から「念仏してくれよ」と願われていることに気づく。逆だと気付かされる、思いがひっくり返るときが訪れる。
私の本質
『仏説無量寿経』で説かれる第一願は、「わたしが仏になるとき、わたしの国に地獄や餓鬼や畜生のものがいるようなら、わたしは決してさとりを開きません」というものです。 お浄土なんだから地獄や餓鬼、畜生ではないのは当たり前でしょ、ではなくて、この私の本当の姿が、地獄、餓鬼、畜生なのだと知らされ、そうではないお浄土の世界(真実)を先ず確認しているのです。
東京でお話することがあります。どんなに共通語を使っているつもりでも「先生のお話は分かりにくい」と言われます。関西弁が、イントネーションがどうしても抜けない・・。センセ、それって例えのつもり?気持ちは分かるけど、分かりにくいなぁ。
合掌
2018(平成30)年6月号
(NO・55) 了雲寺 釈幸華
栴檀(せんだん)
五月病
久しぶりに中仏(住職になるため勉強させてもらった中央仏教学院の通信教育)の仲間の学習会に参加しました。講師は、高田未明師。本学、つまり通信制ではなく日中、お若い学生さんに直に教えておられる先生です。生徒さんの多くは、お寺の後継ぎ、もしくはその周辺の方です。で、そちらの方のお話が面白くて・・。
ゴールデンウィークが終わった頃、「センセ、お話があります」とやってくる学生がいます。聞いてみると、「やめます」どうして?「多くの先輩や他の人、ホンマに信じてるんですか?」 例えば、有名大学かどこかの法学部、経済学部などを卒業し、親に言われて取りあえず中仏に。そしたら、毎日「阿弥陀仏」とか「念仏」とか「浄土」とか。お釈迦さんと阿弥陀さんの区別もつかない人が「もう限界です。やってられません」という訳です。(さあ、センセ、どうする・・・)
先生は、おもむろに白板(このごろはうちの本堂のような黒板は少ない)に向かい、はっきりと大きな字で「真実」と書かれました。そして、こう学生に問うそうです。
「逆にゆうたら、仏教に説かれているもの以外に、この世のことで信じられるものがあるのですか」と。心のよりどころとなる、けっして裏切られることの無い・・・。いろいろお話しても去っていく学生はいます。ただ、残った学生にある時こう聞くのです。テトリスのように(ゲームの名前だそうですが、私には分かりません)一気に疑問が解け、あっ、こういうことやったのかと思った時がありますか、と。そしたら、彼らは異口同音に言いました。自明のことと思っていた善悪が、自分が思っていたこととは違っていた。あるいは、自力と他力。こちらのことではなく、向こうのことだと。
転換点
例えば『歎異抄』第5条はこうです。「親鸞は父母の孝養(ぶも・きょうよう)のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず(亡き父母の追善供養のために念仏したことは一度もありません)」 その理由は①命のあるものはすべてみな、これまで何度となく生まれ変わりしてきた中で、父母であり兄弟・姉妹であった。この世の命を終え、浄土に往生してただちに仏となり、どの人をもみな救わなければならない。②念仏が自分の力で務める善なら、その功徳によって亡き父母を救いもしようが、念仏はそのようなものではない。*以上、梯實圓著『大きな字の歎異抄』より
方向が逆なんだ!仏教に会わせてもらったら、むしろ亡き父母から「念仏してくれよ」と願われていることに気づく。逆だと気付かされる、思いがひっくり返るときが訪れる。
私の本質
『仏説無量寿経』で説かれる第一願は、「わたしが仏になるとき、わたしの国に地獄や餓鬼や畜生のものがいるようなら、わたしは決してさとりを開きません」というものです。 お浄土なんだから地獄や餓鬼、畜生ではないのは当たり前でしょ、ではなくて、この私の本当の姿が、地獄、餓鬼、畜生なのだと知らされ、そうではないお浄土の世界(真実)を先ず確認しているのです。
東京でお話することがあります。どんなに共通語を使っているつもりでも「先生のお話は分かりにくい」と言われます。関西弁が、イントネーションがどうしても抜けない・・。センセ、それって例えのつもり?気持ちは分かるけど、分かりにくいなぁ。
合掌