慶(きょう)聞(もん)抄(しょう)
2018(平成30)年12月号
(NO、61) 了雲寺 釈幸華
プラタナス by セイシ
同窓会
四半世紀前に中学校を卒業していった生徒たちの同窓会に招待され、何年かぶりに夕闇迫る繁華街に繰り出しました。若者たちが集まるパーティ用に特化した階の広間。懐かしの元同僚4人が既に着席していて、一気にタイムスリップした感じです。しかし、恥ずかしながら肝心の生徒たちは、ボヤーーンと既視感はありながら誰が誰やら・・・。名札を頼りに限界寸前まで脳味噌をフル回転させ、ほのかな記憶を必死で手繰り寄せます。
紅顔の少年少女たちも今や40歳の働き盛り。多くは結婚もして子供たちの父や母となっています。私は丁度その年回りに、3校目の転任で彼らと出会いました。入れ替わり立ち代わり、教師席近くに来ては近況報告してくれます。
やんちゃの限りを尽くした?Aは、「センセたちのゆうてたことよう分かったわ」 聞けば、二十歳で子どもの親になり、今は専門学校で頑張ってIT関連の仕事をしてると。(学費が要らん時に勉強しといたら苦労も少なかったやろうに)
Bは、いわゆる「野球留学」で地方の高校に進学しましたが、3年間の寮生活の厳しさを語ってくれました。バリバリの管理統制ぶりは勿論ですが、驚いたのは「モリ・カケ」問題で話題になった「教育勅語」を、それこそ暗記させられたそうです。私学とは言え、戦後、国会で軍人勅諭と共に排除(衆院)・失効(参院)決議をしたものを持ち出してくるのはいかがなものか。公教育の中に身を置いてきた私には考えられないこの国の実相を知らされました。
「センセが来るって聞いたから、行くって決めたんや」 と傍に座ってくれたC子。生活態度が心配だった子でしたが、高校の途中で父が亡くなり、高校だけは行っとくようにとの遺言を守って無事卒業を果たし、老人介護の仕事をしているとのこと。そして、職場で出会った人と結婚し3人の子どもがいると聞いて、びっくりするやら感心するやら。あの頃からは想像のできない話です。子育ての不安を口にするので「大丈夫、いいお母さんしてるよ。」 嬉しくなって思わず肩を抱きしめました。
*写真は生徒たちからのプレゼントのお花、マグカップ、ハンカチ。
大應供(だいおうぐ)
宴に招かれ、当時そのままに「先生」と呼ばれ感謝され、教師冥利に尽きるとはこのことです。しかし、同僚の一人がいみじくも挨拶の中で言ってくださったのですが、嬉しい反面、それに値することをしてきたのだろうか、と恥ずかしい気持ちになります。特に私なんかは、言う事はイッパシでも、どれだけのことを生徒にしてやれたのか、ホトホト心許ないことです。彼らの成長ぶりを目の当たりにした帰り道、女性3人で「私たち何してきたんやろねぇ」 と、言い合ったことでした。
報恩講さんの季節です。ここでの「恩」は、親鸞聖人のご命日ですから「恩」の対象は親鸞さまで「恩」に当たるサンスクリット語の元の意味は「自分になされたこと」だそうです。そして法要でお勤めする「正信念仏偈」の後半にある聖人作詞の和讃は、その聖人が尊崇してやまない阿弥陀如来への讃歌です。6首のうち5首の最後には、言葉を尽くして阿弥陀如来を別名で呼んでおられます。
順に、真実明、難思議、平等覚、畢竟依(ひっきょうえ)、大應供。
真実の智慧、私たちの思索を越えた方、全ての命を平等に観る方、究極の拠りどころ、供養を受けるのにふさわしい方、という意味です。
引き比べるのもはばかりますが、私は極小應供、この度だけでなく、同窓会に呼ばれるたび、忸怩たる思いが後を引きます。 合掌
*お寺カフェ19日、念仏奉仕団19・20日
2018(平成30)年12月号
(NO、61) 了雲寺 釈幸華
プラタナス by セイシ
同窓会
四半世紀前に中学校を卒業していった生徒たちの同窓会に招待され、何年かぶりに夕闇迫る繁華街に繰り出しました。若者たちが集まるパーティ用に特化した階の広間。懐かしの元同僚4人が既に着席していて、一気にタイムスリップした感じです。しかし、恥ずかしながら肝心の生徒たちは、ボヤーーンと既視感はありながら誰が誰やら・・・。名札を頼りに限界寸前まで脳味噌をフル回転させ、ほのかな記憶を必死で手繰り寄せます。
紅顔の少年少女たちも今や40歳の働き盛り。多くは結婚もして子供たちの父や母となっています。私は丁度その年回りに、3校目の転任で彼らと出会いました。入れ替わり立ち代わり、教師席近くに来ては近況報告してくれます。
やんちゃの限りを尽くした?Aは、「センセたちのゆうてたことよう分かったわ」 聞けば、二十歳で子どもの親になり、今は専門学校で頑張ってIT関連の仕事をしてると。(学費が要らん時に勉強しといたら苦労も少なかったやろうに)
Bは、いわゆる「野球留学」で地方の高校に進学しましたが、3年間の寮生活の厳しさを語ってくれました。バリバリの管理統制ぶりは勿論ですが、驚いたのは「モリ・カケ」問題で話題になった「教育勅語」を、それこそ暗記させられたそうです。私学とは言え、戦後、国会で軍人勅諭と共に排除(衆院)・失効(参院)決議をしたものを持ち出してくるのはいかがなものか。公教育の中に身を置いてきた私には考えられないこの国の実相を知らされました。
「センセが来るって聞いたから、行くって決めたんや」 と傍に座ってくれたC子。生活態度が心配だった子でしたが、高校の途中で父が亡くなり、高校だけは行っとくようにとの遺言を守って無事卒業を果たし、老人介護の仕事をしているとのこと。そして、職場で出会った人と結婚し3人の子どもがいると聞いて、びっくりするやら感心するやら。あの頃からは想像のできない話です。子育ての不安を口にするので「大丈夫、いいお母さんしてるよ。」 嬉しくなって思わず肩を抱きしめました。
*写真は生徒たちからのプレゼントのお花、マグカップ、ハンカチ。
大應供(だいおうぐ)
宴に招かれ、当時そのままに「先生」と呼ばれ感謝され、教師冥利に尽きるとはこのことです。しかし、同僚の一人がいみじくも挨拶の中で言ってくださったのですが、嬉しい反面、それに値することをしてきたのだろうか、と恥ずかしい気持ちになります。特に私なんかは、言う事はイッパシでも、どれだけのことを生徒にしてやれたのか、ホトホト心許ないことです。彼らの成長ぶりを目の当たりにした帰り道、女性3人で「私たち何してきたんやろねぇ」 と、言い合ったことでした。
報恩講さんの季節です。ここでの「恩」は、親鸞聖人のご命日ですから「恩」の対象は親鸞さまで「恩」に当たるサンスクリット語の元の意味は「自分になされたこと」だそうです。そして法要でお勤めする「正信念仏偈」の後半にある聖人作詞の和讃は、その聖人が尊崇してやまない阿弥陀如来への讃歌です。6首のうち5首の最後には、言葉を尽くして阿弥陀如来を別名で呼んでおられます。
順に、真実明、難思議、平等覚、畢竟依(ひっきょうえ)、大應供。
真実の智慧、私たちの思索を越えた方、全ての命を平等に観る方、究極の拠りどころ、供養を受けるのにふさわしい方、という意味です。
引き比べるのもはばかりますが、私は極小應供、この度だけでなく、同窓会に呼ばれるたび、忸怩たる思いが後を引きます。 合掌
*お寺カフェ19日、念仏奉仕団19・20日