♪♪ 私の お寺ライフ ♪♪

 ブログアップして8年目に突入。相変わりませんが、私の「如是我聞」をお送りします。南無阿弥陀仏

慶聞抄2019年2月号

2019-01-20 19:01:36 | 随想
了雲寺新報 No.63 釈幸華

死者と共に生きる

阪神淡路大震災から24年、25回忌です。子どもさんだった人もご自分のお子を連れてお弔いされているニュースを見ました。あの出来事を話でしか知らない世代が育っています。ほんのこの間と思っていた事が、その人たちには生まれる前の「歴史」になっていることに、初めて気が付きました。そしてもう忘却が始まっているとしたら・・。

本山の報恩講さんのご満座のあと、真宗教団連合(浄土真宗の10派。法語カレンダーはここで作っています)の講演・シンポジウムに参加しました。題して「教行信証」と現代――現代思想としての他力――。お題も魅惑的ですが、正直言って講演者が中島岳志さんと知って1も2もなく。



実は最近の「みどうさん」に中島さんのページがあって、インドのヒンディー語で「私はあなたを愛しています」というのを直訳すると「私にあなたへの愛がやってきて留まっている」という表現になるというのです。風邪を引いたら「私に風邪がやってきて留まっている」となります。「与格構文」といって自分の力ではコントロールできないものと考えるそうです。これを知って、親鸞聖人の「他力」そのものではないかと思った私は、「信心が私にやってきて留まっている」と、今年の年賀状に使わせてもらいました。私の直感は当たっていて、中島さんの講演のテーマは「親鸞―与格の思想」と題されていました。

「与格」というのは、神から与えられたものというものです。インド人にとって、言葉は私を越えたどこからか、死者から前の世代から、過去から彼方からやってくるもの。

「教行信証」は親鸞聖人の主著で(正信偈はこの中の行文類にある)ほとんどがインド・中国の高僧の書物からの引用からできています。このスタイルこそ聖人の考えそのものではないのか、と中島さんは言います。お念仏は如来さまからの呼びかけ、聖人が言われた「自然法爾(じねんほうに)」の意味も、おのずからしからしむーー人間のはからいを超えた如来のはからいによる救い、弥陀の本願です。

シンポジウムの中でも、3人のパネリストからそれぞれに与格というのは、自分勝手に言っているのではないという正統性が保たれるのでは、と。経典が書かれるとき仏力が、真理の力が説く。だから「教行信証」の序にある「聞思して遅慮することなかれ(本願のいわれを聞いて疑いためらってはならない)」です。*写真は、同じ聞法会館3階、前夜からの通夜布教の様子です。



マイクがまた中島さんに戻って、聖人の「ひそかにおもんみれば」の書き出しも、考える=めぐる、思う=やどる、なので「与格」だと。
 
友人を亡くした直後、仕事をなおざりにしかかったことがあって、自分への彼のまなざしを感じてやり直した。彼は死者となって存在している。この死者と共に生きていくことがよりよく生きることにつながる。だから死後も未来の他者を導いていくことができる。これが回向=還相。民主主義も多数決だからと生きている者の勝手で何をしてもいいのだ、ではなく立憲主義=死者たちの声を聞いていくことが大切と政治学者らしくしめくくられました。 合掌

*お寺カフェ 2月20日
コメント
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