慶(きょう)聞(もん)抄(しょう)
2016(平成28)年8月号
(NO・33) 了雲寺 釈幸華
釜石港
現地研修会i n東北
大阪教区寺族婦人会の東北・現地研修会に7月7日・8日、参加しました。前回、この会で来させてもらってから4年。正直、「復興」が進んでいるのかどうかよく分かりません。確かに空港や道路などきれいにはなっていますが、空き地や駐車場が目立つばかりで、お店や人影がまばらです。ただでさえ過疎のところを、津波が根こそぎ人や家をさらっていったということなのでしょうか。
被災寺・専能寺
仙台空港からしばらくバスで行ったところに専能寺さんがあります。ちょうど真新しく山門が出来上がっていました。地震で崩れたところを津波が運んでいき、裏の雑木林の先で膝くらいのところに屋根が見つかったそうです。鐘楼は倒壊、本堂や門徒会館は、流れ込んだ車や木材や泥で埋まり、すべての仏具は使用不可になりました。
重誓偈のお勤めのあと、住職さんからお話を聞きました。当日、一人留守番の前坊守さんは、水に足をとられながら事務所の2階に。本堂の柱に、海水が来たことを示す掲示があり、そのものすごさが想像できます。亡くなられた70数名のご門徒さんのお名前が記された紙が、本堂後ろに貼られてありました。まだ見つかっていない人が何人かおられるとのことでした。
北海道をはじめ各地からのお坊さん仲間のボランティアたちによって、本堂や会館はよみがえりました。そんなつながりが嬉しく、今の自分たちを支え続けてくれていると笑顔で報告してくださいました。
釜石市街・港
二日目、釜石駅前にご自身も被災者であるボランティアさんが待っていてくださいました。「揺れは6弱。津波は1.5キロメートルの地点まで襲ってきました。時速36キロ。駅前で深さ50センチ。車がプカプカ浮いていました。鉄筋コンクリートの建物は鉄筋だけを残し、木造は土台だけ残して持ち去られました。初めてのおにぎりを口にしたのは3日目、愛知県からのと記憶しています。」
高さ9、3メートル、世界最大の堤防(工期30年、総工費1200億円)だとギネスブックに載った1年後、何と20メートルを超える津波に堤防は飲み込まれました。しかし、このおかげで津波の襲来が6分遅くなったといいます。そして、忘れてはならないのが、「釜石の奇跡」といわれる「つなみてんでんこ(それぞれが自分の判断で高いところに逃げるという標語)」 市内小中14校の子どもの99.8%が、日頃の教えを忘れず自らの命を守りぬいたのでした。
震災学習列車
釜石駅で、貸し切り・震災学習列車に乗り込み、終点・盛(さかり)駅までの約1時間、南リアス線を南下しました。作業服の車掌さんが、津々浦々で語ってくれます。
「三陸鉄道は1984(昭和59)年にできました。明治29年の津波があったので、高いところを走っています。震災時、三鉄のホームに逃げ、海水が引いていって海底が見えたので、山に逃げた「津波の2度逃げ」もありました。70%はトンネルですが、今回の地震ではトンネル中の被害はありませんでした。震災後、クェートから500万バレルの原油資源の寄付をいただき、それをもとにこの列車を3両作りました。
社員は全員無事。安否確認に5日かかりました。未だに仮設から通っている人がいます。釜石に向けて走っていて、トンネルの中で地震にあった電車があります。規定通り停車し大船渡の管理室からの指令を待ちましたが、音沙汰がありません。運転手が外に出て事態を知ったのは2時間後でした。乗客は、ヒッチハイクしながら市役所へ着いたということです。」
「広葉樹は塩水に強いですが杉は弱いです。だから杉が枯れている所でどこまで海水が入ったか分かります。」一番きれいな風景といわれる吉浜地区で。「明治29年の被害のあと住宅は高台移転したので、被害は少ないでした。アワビやホタテなどの養殖にすぐとりかかることができました。」稜里湾で。「今回最大の津波はここでありました。38.2メートル。湾がV字になっているからです。」すぐスマホの地図アプリで確かめました。ホンマや!
「大船渡市では人口が約4万人ありましたが、2000人少なくなっています。若い人が出て行っています。新しく防潮堤を作っていますが、漁師は圧迫感を感じて、いらないと言っています。こんなはずじゃあ・・・というところです。」
最後に、私たちへの言葉は心のケアのボランティアを、ということでした。来てくれるだけでボランティアだと。来て良かったと改めて思えたことでした。
奇跡の一本松
陸前高田の一本松。テレビでよく見かけるアレです。砂塵を巻き上げた風が吹き、辺りにダンプカーやショベルカーの大きな音が響く茶色の風景でした。バスを降りて10分歩いたところで見えてきました。アベックやグループなど、私たち一行の他にも来ている人がいました。見上げながら思いました。枯れたのを無理やり化学的処理した張りぼてやんと思っていたけど、実際こうして何にもないところを人が訪れるのは、このモニュメントがあるから。記念に残された、山から地上げ用の土を運ぶためのベルトコンベアの橋梁の一部と。こうして伝説がまた一つ誕生し記憶されるのだと、売店で求めたソフトクリームを舐めながら思いました。
***********
つなみてんでんこ について
「釜石の奇跡」として知られるようですが、それは違います。少し前にテレビ番組で観て知ったのですが、市では、2005年から専門家を招いて防災教育、訓練を重ねていました。その結果であるので「奇跡」と呼ばれるのには違和感をもっていて、地元の新聞でも「釜石の事実」と表現しています。
また、「つなみてんでんこ」は古くからの言い伝えではなく、1990(平成2)年にあった「津波サミット」の後、防災標語として広まったということです。津波災害史研究家・山下文男さんが提唱しました。山下さんは、あのV字湾の稜里出身。9歳であった津波のとき、父と兄たちは彼にかまわずに逃げたのをあとで母がなじりました。父は「なに、てんでんこだ」と応えたといいます。親が子を、子が親を気にかけて共倒れ・・という悲劇が繰りかえされたところから生まれたわけですが、それだけ厳しい現実だということと共に、平生の話し合いを基にした相互の信頼で成り立つ言葉だと思います。そして真っ先に逃げるには勇気もいることを強調しておきたいです。
*お寺カフェ、8月はお休み。次回9/21日(水)
合掌
2016(平成28)年8月号
(NO・33) 了雲寺 釈幸華
釜石港
現地研修会i n東北
大阪教区寺族婦人会の東北・現地研修会に7月7日・8日、参加しました。前回、この会で来させてもらってから4年。正直、「復興」が進んでいるのかどうかよく分かりません。確かに空港や道路などきれいにはなっていますが、空き地や駐車場が目立つばかりで、お店や人影がまばらです。ただでさえ過疎のところを、津波が根こそぎ人や家をさらっていったということなのでしょうか。
被災寺・専能寺
仙台空港からしばらくバスで行ったところに専能寺さんがあります。ちょうど真新しく山門が出来上がっていました。地震で崩れたところを津波が運んでいき、裏の雑木林の先で膝くらいのところに屋根が見つかったそうです。鐘楼は倒壊、本堂や門徒会館は、流れ込んだ車や木材や泥で埋まり、すべての仏具は使用不可になりました。
重誓偈のお勤めのあと、住職さんからお話を聞きました。当日、一人留守番の前坊守さんは、水に足をとられながら事務所の2階に。本堂の柱に、海水が来たことを示す掲示があり、そのものすごさが想像できます。亡くなられた70数名のご門徒さんのお名前が記された紙が、本堂後ろに貼られてありました。まだ見つかっていない人が何人かおられるとのことでした。
北海道をはじめ各地からのお坊さん仲間のボランティアたちによって、本堂や会館はよみがえりました。そんなつながりが嬉しく、今の自分たちを支え続けてくれていると笑顔で報告してくださいました。
釜石市街・港
二日目、釜石駅前にご自身も被災者であるボランティアさんが待っていてくださいました。「揺れは6弱。津波は1.5キロメートルの地点まで襲ってきました。時速36キロ。駅前で深さ50センチ。車がプカプカ浮いていました。鉄筋コンクリートの建物は鉄筋だけを残し、木造は土台だけ残して持ち去られました。初めてのおにぎりを口にしたのは3日目、愛知県からのと記憶しています。」
高さ9、3メートル、世界最大の堤防(工期30年、総工費1200億円)だとギネスブックに載った1年後、何と20メートルを超える津波に堤防は飲み込まれました。しかし、このおかげで津波の襲来が6分遅くなったといいます。そして、忘れてはならないのが、「釜石の奇跡」といわれる「つなみてんでんこ(それぞれが自分の判断で高いところに逃げるという標語)」 市内小中14校の子どもの99.8%が、日頃の教えを忘れず自らの命を守りぬいたのでした。
震災学習列車
釜石駅で、貸し切り・震災学習列車に乗り込み、終点・盛(さかり)駅までの約1時間、南リアス線を南下しました。作業服の車掌さんが、津々浦々で語ってくれます。
「三陸鉄道は1984(昭和59)年にできました。明治29年の津波があったので、高いところを走っています。震災時、三鉄のホームに逃げ、海水が引いていって海底が見えたので、山に逃げた「津波の2度逃げ」もありました。70%はトンネルですが、今回の地震ではトンネル中の被害はありませんでした。震災後、クェートから500万バレルの原油資源の寄付をいただき、それをもとにこの列車を3両作りました。
社員は全員無事。安否確認に5日かかりました。未だに仮設から通っている人がいます。釜石に向けて走っていて、トンネルの中で地震にあった電車があります。規定通り停車し大船渡の管理室からの指令を待ちましたが、音沙汰がありません。運転手が外に出て事態を知ったのは2時間後でした。乗客は、ヒッチハイクしながら市役所へ着いたということです。」
「広葉樹は塩水に強いですが杉は弱いです。だから杉が枯れている所でどこまで海水が入ったか分かります。」一番きれいな風景といわれる吉浜地区で。「明治29年の被害のあと住宅は高台移転したので、被害は少ないでした。アワビやホタテなどの養殖にすぐとりかかることができました。」稜里湾で。「今回最大の津波はここでありました。38.2メートル。湾がV字になっているからです。」すぐスマホの地図アプリで確かめました。ホンマや!
「大船渡市では人口が約4万人ありましたが、2000人少なくなっています。若い人が出て行っています。新しく防潮堤を作っていますが、漁師は圧迫感を感じて、いらないと言っています。こんなはずじゃあ・・・というところです。」
最後に、私たちへの言葉は心のケアのボランティアを、ということでした。来てくれるだけでボランティアだと。来て良かったと改めて思えたことでした。
奇跡の一本松
陸前高田の一本松。テレビでよく見かけるアレです。砂塵を巻き上げた風が吹き、辺りにダンプカーやショベルカーの大きな音が響く茶色の風景でした。バスを降りて10分歩いたところで見えてきました。アベックやグループなど、私たち一行の他にも来ている人がいました。見上げながら思いました。枯れたのを無理やり化学的処理した張りぼてやんと思っていたけど、実際こうして何にもないところを人が訪れるのは、このモニュメントがあるから。記念に残された、山から地上げ用の土を運ぶためのベルトコンベアの橋梁の一部と。こうして伝説がまた一つ誕生し記憶されるのだと、売店で求めたソフトクリームを舐めながら思いました。
***********
つなみてんでんこ について
「釜石の奇跡」として知られるようですが、それは違います。少し前にテレビ番組で観て知ったのですが、市では、2005年から専門家を招いて防災教育、訓練を重ねていました。その結果であるので「奇跡」と呼ばれるのには違和感をもっていて、地元の新聞でも「釜石の事実」と表現しています。
また、「つなみてんでんこ」は古くからの言い伝えではなく、1990(平成2)年にあった「津波サミット」の後、防災標語として広まったということです。津波災害史研究家・山下文男さんが提唱しました。山下さんは、あのV字湾の稜里出身。9歳であった津波のとき、父と兄たちは彼にかまわずに逃げたのをあとで母がなじりました。父は「なに、てんでんこだ」と応えたといいます。親が子を、子が親を気にかけて共倒れ・・という悲劇が繰りかえされたところから生まれたわけですが、それだけ厳しい現実だということと共に、平生の話し合いを基にした相互の信頼で成り立つ言葉だと思います。そして真っ先に逃げるには勇気もいることを強調しておきたいです。
*お寺カフェ、8月はお休み。次回9/21日(水)
合掌