♪♪ 私の お寺ライフ ♪♪

 ブログアップして9年目に突入。相変わりませんが、私の「如是我聞」をお送りします。南無阿弥陀仏

慶聞抄 4月号

2016-03-28 11:08:45 | 随想
慶(きょう)聞(もん)抄(しょう)  2016(平成28)年4月号
(NO・29) 了雲寺 釈幸華

若婦人研修会(3/14)
ちょっと遠いですが、河内長野市三日市の真教寺さんまで仏女のメンバー4人で出かけました。ご講師は、先月も教区の教学講座でお世話になった龍谷大学教授の貴島信行師。上背のあるイケメンです。テーマは「仏のこころ、菩薩のこころ」   

音楽礼拝「重誓偈作法」でお勤めをされましたが、親鸞聖人が真の教えとされた「大無量寿経」にあるものです。菩薩のもとの言葉は、ボディー・サットバ。ボディーは悟り、サットバは衆生。生きとし生けるものが悟りを求めていく。仏になるために修行している。悟りに至るのは自分の幸せ(自利)ですが、人の幸せ(利他)も考える。自利と利他は一体のものです。これが大乗仏教であり菩薩の願いです。
私たちは口が達者ですね。口だけが(笑)。十悪と言いますが、殺生、偸盗、邪淫、妄語(うそをいう)、綺語(奇麗ごとをいう)、両舌(二枚舌)、悪口(あっく)、貪欲(とんよく・むさぼり)、瞋恚(しんに・いかり)、愚痴(ぐち・道理が分からない)。このうち4つも口関係ですよ、舌禍。体の中で一番柔らかい舌が、人を切る。

悟りへの道、修行の方法を「六波羅蜜」といいます。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧。(南無阿弥陀仏にこの全てが込められている!)このうち、布施と忍辱が利他ですね。布施は施者と受者と施物が清らかでないと美しくない。サンスクリット語でダーナ(与える)、これが旦那、檀家のもとです。檀家が財施をし、お寺が法施をして法が絶えることなく伝えられていく。お金や物が無くても布施はできます。「和顔(わげん)愛語 先意承問」、優しい顔と愛情のこもった言葉を相手に先んじて配慮する。
忍辱は、辱めに耐える。怒りを抑え寛容でいること。仏教の縁起ですな、あなたがいて私がいる。善きにつけ悪しきにつけおかげさまでと乗り越えていく。煩悩は誰に教えられなくても身に備わっていますが、合掌することやお念仏は教えてもらって初めてできる。

東北大震災が起こってから5年たちました。しかし、行方不明者がまだまだ沢山おられます。行方不明の家族が見つかったという人に声をかけるのに二通りがあります。一つは「見つかって良かったですね。うちは、まだです。」相手はどう対応していいのか、とまどうでしょうね。もう一つは、「見つかりましたか。改めてお悔み申し上げます。」相手の気持ちに寄り添って発せられる言葉は、素直に届くことでしょう。
今しかできないこと、今でしか味わえないこと、菩薩の真似ごとをさせてもらおうではありませんか。

帰敬式で法名を(3/4)
 今年度の石川南組の団体参拝は少人数の募集のため、帰敬式を希望された○○○○さん一人の参加となりました。法名を予め自分で考えてそれを申し出るのを内願といいます。お朝事のあと他の人々とともにお剃刀を受け、法名をいただきました。新たな門出を祝福するように、朝の光が本堂に満ちました。

お寺カフェしています。4/13、5/18(水)、2時~4時。健康体操、お茶、お菓子。どなたでも大歓迎!           


                                                               合掌
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慶聞抄 3月号

2016-03-15 14:19:51 | 随想
 葬儀の意味

 大阪教区の門徒総代会での、全体研修会の総合テーマは、「葬送儀礼を考える」です。2月4日の天岸浄圓師(東住吉組西光寺)の講演でお聞きした内容を中心に報告します。

「村八分」という言葉をご存じでしょう。主に江戸時代のことですが、村の生活共同体の約束事に大きく違反すると、「村八分」という制裁が加えられました。村での相互扶助の内容は、冠・婚・葬・建築・火事・病気・水害・旅行・出産・年忌の十種類でした。その内、火事と葬儀以外の八種の扶助を絶たれることを「村八分」といったのです。厳しい掟の中でも、火事と葬儀は互いに扶助したのは、それだけ多くの人の手を必要としたということと、人の「死」を重く受け止めていたということでしょう。

 時代とともに地域共同体の結びつきが希薄になり、個人化が進みました。葬儀の扶助の大半を葬祭業者が代行するようになり、さらに近年では経済状況の悪化、社会状況の変化で行き着くところまで行ったという感があります。「直葬」は遺体を直ちに火葬へ、「0葬」はお骨も引き取らない言わば焼却処分。さすがに、これでいいのだろうかと見直しが始まったと聞き及びます。 
では、なぜお葬式を勤めるのでしょう?浄土真宗以外の宗派で葬儀を営む理由は、「引導」をわたすためです。大声で「一喝」を与え、迷いから悟りに向かわせる儀式を行います。ただし、本来は生前中に受けるもので、正しい教えによって信仰を恵まれ、正しく生きる生き方を明らかにするためのものでした。
 一休さん(室町時代、臨済宗)にこんな話が伝わっています。檀家さんが亡くなった時、引導を与えてほしいと依頼されました。そこで、一休さんは「木槌を持ってきてくれ」と。木槌を渡されると、それで遺体の頭を強く一撃・・。そしてこれではダメだと言って、帰りかけられたというのです。息子が「どういうことですか」と言い寄りますと、一休さんは「引導というものは、叩けば『痛い!』ということのできる間に渡すもので、こうなってしまっては、いかに私でも渡すことはできない」と寺へ帰られたということです。「一休のまねして寺を追い出され」という句もあるそうです。
さて、真宗に立ち戻ります。真宗では引導に相当する儀式は本願寺での「帰敬式」です。仏法僧の三宝に帰依する人生を送ることを仏前に誓い、法名をいただきます。阿弥陀如来の本願力によって浄土に往生して仏に成らせていただくと聞かせてもらったものにとって、葬儀はお浄土への旅立ち、そして先立つ人をお浄土に送る、いわば「卒業式」です。

 仏女・新年会(2/3)
 
 去年に引き続き本堂での仏教女性会の新年会に、17人もの会員が集まりました。「正信偈」行譜のお勤めのあと、ご馳走いっぱいのお弁当をいただきました。おみそ汁にお茶、お菓子にコーヒー、みかん・・久しぶりに顔を合わせてお互いの近況報告の花が咲きました。石川南組の仏教婦人会のダーナ訪問(年に一度実施している施設訪問)の練習を兼ねて、住職からなぞなぞ、坊守からはミニ体操で締めくくりました。     合掌


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