♪♪ 私の お寺ライフ ♪♪

 ブログアップして8年目に突入。相変わりませんが、私の「如是我聞」をお送りします。南無阿弥陀仏

慶聞抄2019年1月号

2018-12-18 21:46:46 | 随想
慶聞抄(きょうもんしょう) 了雲寺 釈幸華

これでいいのか 私たちの国は



沖縄の名護市辺野古では、土砂の投げ入れが始まってしまいました。玉城デニー知事が話し合いに行っても「聞く耳もたず」の政府です。普通に考えたらこれはイジメですよね。もしこれ、例えば大阪湾を埋め立てて基地をつくるという政府案に、府知事が東京に乗り込んで行って「基地いらん」と言えばどうしたでしょう。沖縄だからこんなことするんじゃないですか。これを差別といわず何ていうのでしょう。



アジア・太平洋戦争の末期、沖縄戦がありました。まぎれもなく、沖縄は本土決戦までの時間稼ぎ、捨て石にされたのでした。住民の4人に一人が亡くなったといわれます。日本の国土でアメリカ軍との地上戦に巻き込まれたのは言うまでもなく沖縄だけでした。
1945年(昭和⒛年)6月23日は沖縄戦終結の日ですが、その直前自決した太田実司令官の海軍司令部宛の打電が、こう締めくくられているのが有名です。
 
    沖縄県民 よく戦へり
    県民に対し 後世特別の
     ご高配を賜らんことを
    
沖縄は、⒗世紀までは琉球国でした。中国や東南アジアとの貿易で栄えていましたが、江戸時代の初め薩摩の島津氏の支配を受けました。藩は江戸へ向けて「琉球使節」を派遣し、威容を誇るのに利用しました。
 明治時代の初めには沖縄県として日本の治世下に入れられ、名実ともに琉球国は無くなりました。「琉球処分」といわれるものです。

 昨年は、明治維新150年、とよく言われました。何の注釈もなくそう呼ぶことに抵抗を感じるのは私だけではないと思います。
NHK大河ドラマ「せごどん」は終わりましたが、戊辰戦争や西南戦争がなぜ起こったのか、西郷隆盛や坂本竜馬らが夢見た新しい民の国が本当に実現したのか、どうしても疑問が湧いてきます。その後の日清日露、そして太平洋戦争までの道のりを詳しく見ていけば、手放しで維新から○年という表現にはなりません。戦後もサンフランシスコ講和条約発効で本土が独立を回復した後も、沖縄だけは米軍施政下に置かれたのでした。

今年は、「三・一独立運動」から100年です。日露戦争に勝って朝鮮半島の支配権を手にした日本は、1910年、朝鮮を植民地にしました。韓国併合です。1919年3月1日、朝鮮の各地で「独立万歳」を叫ぶデモ行進が起こります。日本は徹底的な武力行使でこれを弾圧したのでした。民の声を聞かない政府は、外に向かっては侵略の牙をむくのです。



大阪府庁の前を通ったことがありました。府庁の庁のまだれの中が「聴」だったことに感動を覚えました。役所は民の訴えに耳を傾け聴いてくれるところ。新しい世の中を目指した志士たちの願いはそうだったに違いありません。私たちの政府は「聞く耳をもたない」・・ほんのこの前、ある次男坊さんも〇庁に対して愚痴っておられましたね。(国民ではないけど)

最後に・・親鸞聖人が強く言われたのも『聞法』でした。(めっちゃ強引)      合掌
コメント
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