慶聞抄(きょうもんしょう)

朝のお勤め(報恩講さんの翌日、友人が撮ってくれました。)
極重悪人とは
12月の「みどうさん」の年末特集は、「人類滅ぼす正義感」でした。何と刺激的な!どういう事?と頭をかしげながらページをめくられた方がおられたのではないでしょうか。
「絶対的自尊心」「祈りをささげながら人を殺す」などなど、権力者に左右される危うい平和と、利用される宗教の危険性を考えさせられました。
「反証可能性」という言葉があります。*カール・ポパー(1902~1994) 「誤りをチェックできる」ということであり、自らが誤っていることを確認するテストを考案し、実行することができるという科学哲学の用語です。これは科学する方法論に留まらず、「開かれた社会」つまり、自分が間違っている可能性を認め、段階的に改良していく社会に繋がっていきます。この反対が、永久不変の「真理」を前提とした「閉ざされた社会」であり、イランのような宗教的国家や中国・ロシアなどの全体主義(独裁)国家です。戦前の日本も。
津村別院の教学講座・第5回(オンラインにて)は、大阪大谷大学教授・梯信暁師の「親鸞聖人の『往生要集』観」でした。正信偈の「源信廣開一代教」以下のところですが、七高僧の6番目が源信、7番目が源空=師の法然聖人でしたね。源信が著した「往生要集」には「『観無量寿経(観経)』に、『極重悪人にはほかに救われる方法はない。ただ仏を称念することによってのみ、極楽に往生することができる』という」と紹介されています。
極重悪人唯称仏(極重の悪人はただ仏を称すべし)
これを受けて親鸞聖人は、続けられます。。
我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
我またかの摂取の中にあれども、煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲、倦きことなくして常に我を照らしたまふといへり
極重悪人。どんな人でしょう。「観経」にあるのは、父王を幽閉して殺したアジャセレベルの人のことです。これを見て「あ、私のことや!」という人が何人いるでしょうか。
梯先生はおっしゃいました。この箇所が親鸞聖人が唯一、師の法然聖人を介さず「往生要集」から独自に得られた見解であると。(浅田和上説)
そして、読んだ本の中に他の誰でもない、「これ自分のために書かれたんや!」と気づかれることの凄さ、高度な読み方。こんな本の読み方、私にしかできない読み方が出来たら嬉しいなぁ・・と。(センセの願望か!)。つい、私もうっとりとなってため息が出そうになった瞬間でした。
かくて、法然聖人の「他力の念仏」は、親鸞聖人の「他力回向の信心」となったのでした。
いずれの行(善い行い)も及び難き身なれば とても地獄は一定すみかぞかし(歎異抄)
仏法に出会うということは、自分を映す鏡を手に入れるようなものと聞きました。それも、ミクロの。「若見え」を期待して化粧品を買うてる場合ではない!(えっ、誰の事?) 合掌

朝のお勤め(報恩講さんの翌日、友人が撮ってくれました。)
極重悪人とは
12月の「みどうさん」の年末特集は、「人類滅ぼす正義感」でした。何と刺激的な!どういう事?と頭をかしげながらページをめくられた方がおられたのではないでしょうか。
「絶対的自尊心」「祈りをささげながら人を殺す」などなど、権力者に左右される危うい平和と、利用される宗教の危険性を考えさせられました。
「反証可能性」という言葉があります。*カール・ポパー(1902~1994) 「誤りをチェックできる」ということであり、自らが誤っていることを確認するテストを考案し、実行することができるという科学哲学の用語です。これは科学する方法論に留まらず、「開かれた社会」つまり、自分が間違っている可能性を認め、段階的に改良していく社会に繋がっていきます。この反対が、永久不変の「真理」を前提とした「閉ざされた社会」であり、イランのような宗教的国家や中国・ロシアなどの全体主義(独裁)国家です。戦前の日本も。
津村別院の教学講座・第5回(オンラインにて)は、大阪大谷大学教授・梯信暁師の「親鸞聖人の『往生要集』観」でした。正信偈の「源信廣開一代教」以下のところですが、七高僧の6番目が源信、7番目が源空=師の法然聖人でしたね。源信が著した「往生要集」には「『観無量寿経(観経)』に、『極重悪人にはほかに救われる方法はない。ただ仏を称念することによってのみ、極楽に往生することができる』という」と紹介されています。
極重悪人唯称仏(極重の悪人はただ仏を称すべし)
これを受けて親鸞聖人は、続けられます。。
我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
我またかの摂取の中にあれども、煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲、倦きことなくして常に我を照らしたまふといへり
極重悪人。どんな人でしょう。「観経」にあるのは、父王を幽閉して殺したアジャセレベルの人のことです。これを見て「あ、私のことや!」という人が何人いるでしょうか。
梯先生はおっしゃいました。この箇所が親鸞聖人が唯一、師の法然聖人を介さず「往生要集」から独自に得られた見解であると。(浅田和上説)
そして、読んだ本の中に他の誰でもない、「これ自分のために書かれたんや!」と気づかれることの凄さ、高度な読み方。こんな本の読み方、私にしかできない読み方が出来たら嬉しいなぁ・・と。(センセの願望か!)。つい、私もうっとりとなってため息が出そうになった瞬間でした。
かくて、法然聖人の「他力の念仏」は、親鸞聖人の「他力回向の信心」となったのでした。
いずれの行(善い行い)も及び難き身なれば とても地獄は一定すみかぞかし(歎異抄)
仏法に出会うということは、自分を映す鏡を手に入れるようなものと聞きました。それも、ミクロの。「若見え」を期待して化粧品を買うてる場合ではない!(えっ、誰の事?) 合掌