慶(きょう)聞(もん)抄(しょう)
2018(平成30)年 9月号
(NO、58) 了雲寺 釈幸華
彼岸花
自由は怖い
遠い地方の大学に進学した孫を訪ねる旅をしました。しばらく見ない間に、すっかり今どきのお兄さんになって現れました。話のほとんどはボート(漕艇)部の活動。何でも早朝、それも3時半とか4時に出かけて行き、練習の用意をするのが1年生の役目とか。結構ハードな練習で、手のひらのつぶれたマメを見せてくれました。
何でまたそんなしんどそうな部を選んだのか聞いてみると、「勢い」だとか。はやりの言葉で言えばブラックなクラブ。上級生の理不尽な要求とか、周囲が認めるキツさ加減とか、そんならやってみたろか!みたいな。私にはよう分からん理由でした。
ただ、後で聞くところによると、自由の「怖さ」を知ったとのこと。浪人という過酷な受験勉強の果ての学園生活。さてどうしたら・・そこは分からんでもない。初めて何でもいいからどうぞお好きに、と突然なったわけで。ま、決断と実行、頑張りなはれ。ただ学生の本分だけは見失わんように。(私は大叔父に最高学府やで、と言われたことが忘れられない。何で山岳部やねんって思わはったやろなぁ)。
自由の語源
自由は、フリーダムの訳語で「…からの自由」というふうに、拘束や束縛から解放されることを言います。もともとは仏教用語(日常使う言葉で仏教起源は多い)ですが、意味は異なります。以下は、大谷大学の木村宣彰先生のウェブサイトから。
「由」は、<よる><もとづく>という意味で、自由とは、他に由らず、独立して、自存すること、即ち<自らによる・もとづく>こと。晩年の仏陀は、「自らをよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ」と弟子たちにおっしゃった。私たちの行動の判断は、他の意見や権力によって支配されることが多い。何ものにもとらわれないのが仏陀の智慧だ。
これ、私の大好きなお話です。お釈迦様がお布施のキノコのスープを食べて、体調を崩されました。死期を悟った仏陀が、お付きの阿難(アーナンダ)に横になれる場所を作るよう言われてお休みになりました。まだ悟りを得てない阿難がうろたえて「もし、仏陀が亡くなられたら私はどうしたらいいのでしょう」と聞いた時に言われたお言葉が「 自灯明・法灯明]だったのです。「私が常に言ってきたことを思い出しなさい。自らをよりどころにしなさい」仏教徒を示す言葉でもあります。
独り歩め
例えば、夏休みの自由研究。実はこれがいつも後回し。私たちの自由は、ゆわば隙間の自由ですね。枠組みの中で考えることはできても、枠組みそのものを考えることは難しい。仏陀の智慧はでかい!
そして、自由は責任を引き受ける。孤独を恐れない。それを象徴するのが、インドの大地を独り悠々と歩く一本角の犀です。
学識豊かで真理をわきまえ、高邁(こうまい)、明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の(一本)角のようにただ独り歩め
「スッタニパータ 58」
合掌
*9月18日 1時15分~20分「平和の鐘」
*お寺カフェ、9月19日 10月17日
2018(平成30)年 9月号
(NO、58) 了雲寺 釈幸華
彼岸花
自由は怖い
遠い地方の大学に進学した孫を訪ねる旅をしました。しばらく見ない間に、すっかり今どきのお兄さんになって現れました。話のほとんどはボート(漕艇)部の活動。何でも早朝、それも3時半とか4時に出かけて行き、練習の用意をするのが1年生の役目とか。結構ハードな練習で、手のひらのつぶれたマメを見せてくれました。
何でまたそんなしんどそうな部を選んだのか聞いてみると、「勢い」だとか。はやりの言葉で言えばブラックなクラブ。上級生の理不尽な要求とか、周囲が認めるキツさ加減とか、そんならやってみたろか!みたいな。私にはよう分からん理由でした。
ただ、後で聞くところによると、自由の「怖さ」を知ったとのこと。浪人という過酷な受験勉強の果ての学園生活。さてどうしたら・・そこは分からんでもない。初めて何でもいいからどうぞお好きに、と突然なったわけで。ま、決断と実行、頑張りなはれ。ただ学生の本分だけは見失わんように。(私は大叔父に最高学府やで、と言われたことが忘れられない。何で山岳部やねんって思わはったやろなぁ)。
自由の語源
自由は、フリーダムの訳語で「…からの自由」というふうに、拘束や束縛から解放されることを言います。もともとは仏教用語(日常使う言葉で仏教起源は多い)ですが、意味は異なります。以下は、大谷大学の木村宣彰先生のウェブサイトから。
「由」は、<よる><もとづく>という意味で、自由とは、他に由らず、独立して、自存すること、即ち<自らによる・もとづく>こと。晩年の仏陀は、「自らをよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ」と弟子たちにおっしゃった。私たちの行動の判断は、他の意見や権力によって支配されることが多い。何ものにもとらわれないのが仏陀の智慧だ。
これ、私の大好きなお話です。お釈迦様がお布施のキノコのスープを食べて、体調を崩されました。死期を悟った仏陀が、お付きの阿難(アーナンダ)に横になれる場所を作るよう言われてお休みになりました。まだ悟りを得てない阿難がうろたえて「もし、仏陀が亡くなられたら私はどうしたらいいのでしょう」と聞いた時に言われたお言葉が「 自灯明・法灯明]だったのです。「私が常に言ってきたことを思い出しなさい。自らをよりどころにしなさい」仏教徒を示す言葉でもあります。
独り歩め
例えば、夏休みの自由研究。実はこれがいつも後回し。私たちの自由は、ゆわば隙間の自由ですね。枠組みの中で考えることはできても、枠組みそのものを考えることは難しい。仏陀の智慧はでかい!
そして、自由は責任を引き受ける。孤独を恐れない。それを象徴するのが、インドの大地を独り悠々と歩く一本角の犀です。
学識豊かで真理をわきまえ、高邁(こうまい)、明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の(一本)角のようにただ独り歩め
「スッタニパータ 58」
合掌
*9月18日 1時15分~20分「平和の鐘」
*お寺カフェ、9月19日 10月17日