♪♪ 私の お寺ライフ ♪♪

 ブログアップして9年目に突入。相変わりませんが、私の「如是我聞」をお送りします。南無阿弥陀仏

慶聞抄2019年10月号

2019-09-20 17:29:33 | 随想
慶聞抄(きょうもんしょう)



蓮如上人の時代

久しぶりに岡村喜史(よしじ)先生にお会いしました。津村別院での教学講座「大阪の真宗の歴史」のご講師、本願寺資料研究所研究員。数年前の親鸞聖人の聖跡めぐりで随行していただきました。講壇の法輪に丁寧にお礼をされたあと、柔らかなお声で話始められました。

 大阪は都道府県で2番目に寺院が多いところです。3362カ寺。1番は愛知の4600カ寺です。しかし、面積を考えると、つまり寺院密度は1番多い。そのうち浄土真宗寺院は1479カ寺で44%を占め、真宗信仰の非常に盛んな地域です。
 
大阪には、早くから佛光寺系(親鸞聖人のお弟子の真仏さんの流れ)の真宗が伝播していました。(本願寺派8代目の蓮如上人が宗主になられるのは1457年42歳のことですから、ご開山が亡くなられて200年近くになる頃)蓮如上人以前に河内国渋川郡久宝寺慈願寺門徒の名前があることから、本願寺系真宗の伝播が分かります。継承の翌年、長禄2(1458)年、その慈願寺の金泥十字名号(帰命盡十方無碍光如来)を修復されています。上人は「無碍光如来」と裏書されていて、これが真宗史にとって非常に重要なことです。それまでは、聖教授与、つまりハード面重視なのですが、上人は本尊=十字名号を与えて道場を創建されました。ソフト面への方向転換というべきもので、それ以後道場が増え続けたものですから、比叡山が「無碍光宗」と非難して、1465年には2度、東山大谷の本願寺を破却します(寛正の法難)。

蓮如上人は京都を退出して近江各地を転々とされますが、応仁2(1468)年、大津から高野山・吉野へ向かわれたことがあります。おそらく東高野街道、今の170号線を南下されたのでしょう、古市郡誉田、石川郡森屋・・高野山への道筋で念仏の種を蒔いて行かれたのです。

 これや!と思いました。この一週間ほど前にうちの石川南組(そ)の門信徒講座があって、会所が前組長さんの森屋の西楽寺さん。住職の挨拶の中でお聞きしましたよ!蓮如上人のご縁が始まりで、いただいたお名号があるのだと。
 
帰ってから、本棚に入れたままになっていた先生の「大阪と本願寺」を引っ張り出して読んでみました。(遅いがな)
大阪は元は大坂。蓮如上人のお手紙が初見であることはよく知られていますが、蓮如さんの頃には「小坂」とも書いて「おざか」とも呼ばれています。大阪城の東側の南北に延びる地域を「谷町」と称されているのは上町台地が東側でやや落ち込んだ部分となっている地形的名残です。森屋のことは蓮如さんの「高野紀行」にあって、高野山のあと吉野・飯貝(いいがい)に廻られます。飯貝!この慶聞抄に引用させてもらった寺報の本善寺さんのあるところ!

大津を出たあと越前・吉崎時代が5年、その後堺に坊舎を建てられ西日本への拠点に。瀬戸内海の海運によって篤信で有名な安芸(広島)門徒や、陸路による大和今井町の繁栄がなります。多くは興正寺の系譜だそうで、私事ではありますが大和八木の親戚のお寺もそうです。

大坂坊舎に取り掛かられるのは明応5(1496)年、上人82歳。工事中に礎石に使える石がたくさん出たことから江戸時代になってから「石山坊」「石山本願寺」と呼ばれます。すでに隠居の身ではありましたが、余生をここでということではなく、西日本への拠点にと考えられていたのでは、と先生は書かれています。明応8年寂。す、すごすぎる、蓮如さん!

*11/5(火)7時~報恩講     合掌
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