慶(きょう)聞(もん)抄(しょう)
2016(平成28)年11月号
(NO・36) 了雲寺 釈幸華
車窓の利根川
第4期 親鸞聖人縁の旅
大阪教区の研修で毎年楽しみにしている「親鸞聖人縁(えにし)の旅」。今回は、伝灯奉告法要が10月から始まることもあって一月早い9月の末、関東編その2「聖人、関東の風土の中で門弟とともに活動」がテーマです。去年の金色に光る銀杏に代わり、行く先々のお寺で金木犀の甘い香りに迎えられました。お配りした報恩講パンフの執筆者の一人、今井雅晴先生(筑波大学名誉教授)が前回に引き続き随行してくださいました。
「さぬきと申ところ」*群馬県板倉町
赤のところが群馬県。羽を伸ばした鶴の形に例えられる。板倉町は鶴の頭に当たります。
品川からバスに乗って2時間余り。先ずは利根川の堤防に上がります。眼下にはのったり流れる川面とどこまでも続く田畑。一旦大水が出ると川筋は変わるだろうし、とてつもない氾濫原であることが理解できます。こここそ、妻の恵信尼さまの書状に出てくる「むさしのくにやらん、かんつけのくにやらん、さぬきと申ところ」の地、当時の佐貫荘。武蔵国(埼玉県)・上野国(群馬県)・下野国(栃木県)・下総国(茨城県)がジグゾーパズルのように入り組んで、わずかな移動で4県に行けてしまうところです。恵信尼さまではありませんが、どこがどこだか・・
建保2(1214)年、越後から常陸国に向かう途中、被害に苦しむ人々を目にして親鸞聖人(42歳)は、浄土三部経を千回読むことを思いつきます。しかし、4,5日で取りやめた事が、親鸞聖人を看取った娘の覚信尼さんへの先ほどのお手紙に続きます。「衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを(中略)名号のほかには何ごとの不足にて必ず経を読まんとするやと思かへして、読まざりしこと」・・南無阿弥陀仏の他に何が必要であるとして、三部経を読まねばと思ってしまったのだろうという50年も前のエピソードを伝えたのでした。因みに1日4回読めたとして、千回なら250日かかる計算と今井先生。
蓮華寺 *栃木県国分寺町
親鸞聖人が洪水の被害に苦しむ人々を救った話が伝えられているお寺です。境内裏には「親鸞聖人大蛇済度(さいと)之池」の碑や「蛇骨経塚」「お手植えの桜」があります。「絵伝」に沿って住職さんが自ら説明くださいました。
男の浮気に嫉妬した女が二人を殺し、川の淵に潜んであらゆる女を取り食う大蛇になります。室の八島の神主が娘のことで聖人に助けを求めました。聖人から教えを説かれた娘が一心に念仏すると、大蛇は一瞬にくじかれ水面に沈みます。普通はここでめでたし、めでたしとなるのですが、ここからが素敵です。これを聞いた人々は、大蛇のことも救ってくれるように聖人に願いました。聖人は「悪魔を降伏させる方法は知らないが、共に仏の誓願の優れた恵みを伝えることはできます。」と言うと、淵のほとりに草庵を結び、小石に三部経を書いて淵に投げ込みました。「蛇の身ながらも経文の功徳を得て仏の誓願を受けたまえ。道に逆らい悪いことをした者でも浄土に往生させるぞ」と説き続けました。7日目の夜、大蛇は女の姿で現れ自分の醜さを嘆きます。聖人が「喜びなさい。阿弥陀様はそのような身こそ救うのだ」と言うと、女は歓喜の涙を流しました。明くる日、見守る人々の前で大蛇は菩薩の姿になって、紫の雲がたなびき蓮華の花が天から降り落ちる中、浄土へ往生して行ったのです。聖人は、この地を花見ケ岡、草庵に建てたお寺を紫雲山蓮華寺と名付けました。
稱名寺*茨城県結城
鎌倉幕府の有力御家人であった結城朝光ゆかりのお寺です。結城と言えば「つむぎ」の方が有名でしょうか。
母が源頼朝の乳母であり、頼朝の信任が厚かったのでご烙印説もあるくらいです。頼朝挙兵に応じ源平合戦で活躍、義経に「鎌倉入り不可」の口上もこの人でした。若い頃より念仏に傾倒し法然聖人の元へ。(先月号の熊谷直実もそうですが、武人であればこその深い悩みがあったことが偲ばれます。)常陸国下妻に滞在の親鸞聖人に深く帰依しました。聖人の門弟・真仏を開基としてこのお寺を開きます。本尊は、鎌倉時代の春日(様式)と説明してくださった住職は、何と32代目とか。朝光、真仏、そして恵信尼座像が安置されていました。*以上2か寺は本願寺派
と、ここで・・3日間で11か所とハードな行程で、正直思い出すのも息切れしてきました。写真もどれがどれだか・・。以後は、訪れたお寺を羅列していくことをお許しください。いずれも茨城県で真宗大谷派。開基の多くは、関東二十四輩と言われる聖人のお弟子さんです。
磯部の勝願寺
開基は善性で聖人の書簡集の一つを編集した人物。磯部御坊ともいわれ、かつては浄土真宗関東7大寺の一つ。その子孫は長野県北部や新潟県にも展開し、磯部六か寺と通称されて多くが現存している。
一ノ谷の妙安寺
開基は聖人の従兄弟とも関白九条兼実の息子とも伝えられる成念。聖人没後の覚信尼一家を守った人物の一人。覚信尼は聖人廟堂を東国の門弟に寄進した時、それを真っ先にこの人に申し出ている。
みむらの妙安寺
同じく成念が開基。こちらには左手に杉の枝を持って寺を火災から守ったといわれる「火伏せの太子」伝説の「称徳太子立像」がお祭りされている。
辺田の西念寺
西念は聖人より譲り受けた聖徳太子像を安置し、専修念仏のみ教えを伝える。寺宝「阿弥陀如来座像」は平安後期作とみられ、聖人来訪以前から当地に浄土信仰が広まっていたことがうかがえる。
豊岡町の法恩寺
開基は二十四輩第一と言われる性信。もと「坂東本「教行信証」を伝来していたお寺。聖人と共に新潟から関東へ。横曾根門徒を率いた。聖人のお手紙の宛名で一番多いのがこの人。
写真は群馬県板倉の宝福寺の性信上人座像
常敬(きょう)寺*千葉県関宿
最後に聖人の孫、唯善開基のお寺です。
日野広綱
| -覚恵ー覚如ー存覚
親鸞ー覚信尼
| -唯善
小野宮禅念
唯善は覚恵・覚如らと大谷の親鸞廟堂の留守職を争った人です。敗れて関東に去る時、廟堂に安置されていた親鸞聖人座像を持ち去ったとされていて、それがここ常敬寺の座像であろうといわれています。
覚信尼が廟堂を建てた土地は、再婚相手の小野宮禅念から譲り受けたもの。唯善の悔しい気持ちも分からないではありません。本願寺の歴史で悪役になってしまった唯善も含めて、宗門の初期の土台を支えた、ここ関東の人々の多様さと土地の豊かさを、改めて知らされたことでした。
*お寺カフェ、11/16(水) 12月は休み 合掌
2016(平成28)年11月号
(NO・36) 了雲寺 釈幸華
車窓の利根川
第4期 親鸞聖人縁の旅
大阪教区の研修で毎年楽しみにしている「親鸞聖人縁(えにし)の旅」。今回は、伝灯奉告法要が10月から始まることもあって一月早い9月の末、関東編その2「聖人、関東の風土の中で門弟とともに活動」がテーマです。去年の金色に光る銀杏に代わり、行く先々のお寺で金木犀の甘い香りに迎えられました。お配りした報恩講パンフの執筆者の一人、今井雅晴先生(筑波大学名誉教授)が前回に引き続き随行してくださいました。
「さぬきと申ところ」*群馬県板倉町
赤のところが群馬県。羽を伸ばした鶴の形に例えられる。板倉町は鶴の頭に当たります。
品川からバスに乗って2時間余り。先ずは利根川の堤防に上がります。眼下にはのったり流れる川面とどこまでも続く田畑。一旦大水が出ると川筋は変わるだろうし、とてつもない氾濫原であることが理解できます。こここそ、妻の恵信尼さまの書状に出てくる「むさしのくにやらん、かんつけのくにやらん、さぬきと申ところ」の地、当時の佐貫荘。武蔵国(埼玉県)・上野国(群馬県)・下野国(栃木県)・下総国(茨城県)がジグゾーパズルのように入り組んで、わずかな移動で4県に行けてしまうところです。恵信尼さまではありませんが、どこがどこだか・・
建保2(1214)年、越後から常陸国に向かう途中、被害に苦しむ人々を目にして親鸞聖人(42歳)は、浄土三部経を千回読むことを思いつきます。しかし、4,5日で取りやめた事が、親鸞聖人を看取った娘の覚信尼さんへの先ほどのお手紙に続きます。「衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを(中略)名号のほかには何ごとの不足にて必ず経を読まんとするやと思かへして、読まざりしこと」・・南無阿弥陀仏の他に何が必要であるとして、三部経を読まねばと思ってしまったのだろうという50年も前のエピソードを伝えたのでした。因みに1日4回読めたとして、千回なら250日かかる計算と今井先生。
蓮華寺 *栃木県国分寺町
親鸞聖人が洪水の被害に苦しむ人々を救った話が伝えられているお寺です。境内裏には「親鸞聖人大蛇済度(さいと)之池」の碑や「蛇骨経塚」「お手植えの桜」があります。「絵伝」に沿って住職さんが自ら説明くださいました。
男の浮気に嫉妬した女が二人を殺し、川の淵に潜んであらゆる女を取り食う大蛇になります。室の八島の神主が娘のことで聖人に助けを求めました。聖人から教えを説かれた娘が一心に念仏すると、大蛇は一瞬にくじかれ水面に沈みます。普通はここでめでたし、めでたしとなるのですが、ここからが素敵です。これを聞いた人々は、大蛇のことも救ってくれるように聖人に願いました。聖人は「悪魔を降伏させる方法は知らないが、共に仏の誓願の優れた恵みを伝えることはできます。」と言うと、淵のほとりに草庵を結び、小石に三部経を書いて淵に投げ込みました。「蛇の身ながらも経文の功徳を得て仏の誓願を受けたまえ。道に逆らい悪いことをした者でも浄土に往生させるぞ」と説き続けました。7日目の夜、大蛇は女の姿で現れ自分の醜さを嘆きます。聖人が「喜びなさい。阿弥陀様はそのような身こそ救うのだ」と言うと、女は歓喜の涙を流しました。明くる日、見守る人々の前で大蛇は菩薩の姿になって、紫の雲がたなびき蓮華の花が天から降り落ちる中、浄土へ往生して行ったのです。聖人は、この地を花見ケ岡、草庵に建てたお寺を紫雲山蓮華寺と名付けました。
稱名寺*茨城県結城
鎌倉幕府の有力御家人であった結城朝光ゆかりのお寺です。結城と言えば「つむぎ」の方が有名でしょうか。
母が源頼朝の乳母であり、頼朝の信任が厚かったのでご烙印説もあるくらいです。頼朝挙兵に応じ源平合戦で活躍、義経に「鎌倉入り不可」の口上もこの人でした。若い頃より念仏に傾倒し法然聖人の元へ。(先月号の熊谷直実もそうですが、武人であればこその深い悩みがあったことが偲ばれます。)常陸国下妻に滞在の親鸞聖人に深く帰依しました。聖人の門弟・真仏を開基としてこのお寺を開きます。本尊は、鎌倉時代の春日(様式)と説明してくださった住職は、何と32代目とか。朝光、真仏、そして恵信尼座像が安置されていました。*以上2か寺は本願寺派
と、ここで・・3日間で11か所とハードな行程で、正直思い出すのも息切れしてきました。写真もどれがどれだか・・。以後は、訪れたお寺を羅列していくことをお許しください。いずれも茨城県で真宗大谷派。開基の多くは、関東二十四輩と言われる聖人のお弟子さんです。
磯部の勝願寺
開基は善性で聖人の書簡集の一つを編集した人物。磯部御坊ともいわれ、かつては浄土真宗関東7大寺の一つ。その子孫は長野県北部や新潟県にも展開し、磯部六か寺と通称されて多くが現存している。
一ノ谷の妙安寺
開基は聖人の従兄弟とも関白九条兼実の息子とも伝えられる成念。聖人没後の覚信尼一家を守った人物の一人。覚信尼は聖人廟堂を東国の門弟に寄進した時、それを真っ先にこの人に申し出ている。
みむらの妙安寺
同じく成念が開基。こちらには左手に杉の枝を持って寺を火災から守ったといわれる「火伏せの太子」伝説の「称徳太子立像」がお祭りされている。
辺田の西念寺
西念は聖人より譲り受けた聖徳太子像を安置し、専修念仏のみ教えを伝える。寺宝「阿弥陀如来座像」は平安後期作とみられ、聖人来訪以前から当地に浄土信仰が広まっていたことがうかがえる。
豊岡町の法恩寺
開基は二十四輩第一と言われる性信。もと「坂東本「教行信証」を伝来していたお寺。聖人と共に新潟から関東へ。横曾根門徒を率いた。聖人のお手紙の宛名で一番多いのがこの人。
写真は群馬県板倉の宝福寺の性信上人座像
常敬(きょう)寺*千葉県関宿
最後に聖人の孫、唯善開基のお寺です。
日野広綱
| -覚恵ー覚如ー存覚
親鸞ー覚信尼
| -唯善
小野宮禅念
唯善は覚恵・覚如らと大谷の親鸞廟堂の留守職を争った人です。敗れて関東に去る時、廟堂に安置されていた親鸞聖人座像を持ち去ったとされていて、それがここ常敬寺の座像であろうといわれています。
覚信尼が廟堂を建てた土地は、再婚相手の小野宮禅念から譲り受けたもの。唯善の悔しい気持ちも分からないではありません。本願寺の歴史で悪役になってしまった唯善も含めて、宗門の初期の土台を支えた、ここ関東の人々の多様さと土地の豊かさを、改めて知らされたことでした。
*お寺カフェ、11/16(水) 12月は休み 合掌