法輪寺 生駒郡斑鳩町三井1570
聖徳太子の子である山背大兄王が太子の病気平癒を祈るため、622年に建てた、とする。今一つの説は『上宮聖徳太子伝補闕記』および『聖徳太子伝暦』(延喜17年・917年、藤原兼輔著)に見えるもので、創建法隆寺の焼失後、百済の開法師・円明法師・下氷新物(しもつひのにいもの)の3人が建てたとするものである。
昭和三十二年、父が小説で描いた谷中天王寺の五重塔焼失を目撃した幸田文は、後年、落雷によって焼失した奈良法輪寺の三重塔の再建に奔走する。このとき、斑鳩町に仮住まいし、再建を見守った。
幸田 文
明治37年~平成2年(1904~1990)東京都出身。
父は『五重塔』の作者・幸田露伴。昭和22年、露伴の死後執筆をはじめる。同40年、当寺住職・井ノ上慶覺に会う。再建資金集めのため各地で講演活動を行うなど、当寺三重塔再建のためにご尽力いただいた。再建工事中の昭和48年6月~49年7月の期間は斑鳩町に下宿し、工事の進展を見守られた。
金堂
火災以前の三重塔
以下Post card より
十一面観音
如来
会津八一 くわんのん の しろき ひたひ に やうらくの
かげ うごかして かぜ わたる みゆ
鬼子母神と赤ん坊の像(2-3世紀頃、ガンダーラ、大英博物館蔵
三井瓦窯跡 生駒郡斑鳩町三井東山639 法起寺西側の尾根丘陵の【瓦塚2号墳】後円部の西側斜面に在る 瓦窯の操業時期としては、出土瓦と窯近くで採集された軒丸瓦が法輪寺や法起寺出土の八弁複弁蓮華文軒丸瓦と同范瓦であることなどから、七世紀後半から八世紀初め頃と考えられています
窯跡
白鳳時代(7世紀末~8世紀初)に法隆寺や法輪寺の瓦を焼いた窯です