天のしずくを観て
自分の嗜好を知る
辰巳芳子さんはスープ、おつゆはご飯をいただく上で欠かせない汁物であると言う。
父上の闘病を支えた8年間は彼女を強くもし、深く考えさせた年月だった。永遠に続く長い看護と考えないで、命を永らえさせようと、作り続けて到達した命のスープだった。
彼女を写す映像の後ろには常に母の写真が飾られている。母の生き方あり方が彼女を育てたという証でもある。
80歳を過ぎた彼女が語る野菜の炒め方にも、母から体を洗ってもらった記憶と、野菜を混ぜるシャモジが重なるのである。
綿々と伝わる家庭での伝承を取り戻して欲しいという強い願いでもある。母と子は娘でも息子でも、義理の親子でも同じである。血も性も越えて欲しいと私は思う。
日本人の70%以上は子供と同居していない。こういう中での伝承は難しい。
和食がユネスコ無形文化遺産に登録されても、これからは意識的に伝承しないと不安になる。
映画の最後はお正月のおせち料理に集約されていく。辰巳芳子家のおせち料理である。すなわち彼女の母が完成したものである。
各家庭にはそれぞれの地域の風土に合ったお節料理があると思う。どちらかというと時代の違いが見える辰巳家のお節だ。
私自身も今年のお節は思うことが多かった。
30年ぶりに土井勝さんのお節の一品である、黒豆を作った。
私は大阪の生まれで、お節は味噌仕立てで丸もちが入ったので育った。私はこれが嫌いだった。
ところが母親を事故でなくし、中学の途中で姉のいる東京へ転居して、そこで食べたお雑煮が関東味である。澄ましに小松菜、切り餅を軽く焼いて海苔と流し卵にかまぼこや筍が入って、薄く切ったゆずを浮かべる。これは美味かった。
ひどい娘で、母親の作る大根や煮物の匂いが、特に大根の匂いが嫌いで、それが家の中に漂っているとただいまと帰ってきても、臭いと言って外へ飛び出す娘だった。
野菜が嫌いになり、手足にひどいしもやけができ、体も骨も異常な状態になっていたとおもう。毎日ではないが、小学校で注射をさせられ、ある日母親は学校から呼び出されていた。
そんなある朝、階段の下から母親が優しい声で私の名前を呼ぶではないか、あまりの怪しさに何かまずいことしたかと考えるが思い当たらない。
恐る恐る下へ降りると、朝日の当たる小さなテーブルにマスカットに千切りのキャベツとバターたっぷりのパンとミルクコーヒー。ニコニコしている母親の前で朝ごはんである。普段食べない娘も、母親付きの朝食は食べました。これがしばらく続いて、両手の甲や指に出来ていた吹き出物、イボのようなものが、綺麗に取れていった。卵焼きや果物に野菜を毎日である。安いものではなかったと思う。体が元気になっていった。
そして、5月の夕方、台所に鍋があって蓋をとると、ホワイトシチューが入っていた。母親は「はよ、食べ」と言い残して小さな犬を連れて出かけた。「犬つれていったらあかん」と言う、娘の声を残して。そのまま母は道路に犬もろとも投げ出されていた。
母親の料理が嫌いで食べない娘に困っていた母は、店のお客さんから聞いたと言ってホワイトシチューを作ってくれた。これは私が食べたので、よくこしらえてくれた。
事故の後、葬式の準備で私を除いて周りの大人が動き回る中、もう時間の概念も失っていた私は、ふと思い出して、台所の鍋の蓋を取った。それはもう腐臭がしていた。大阪の5月は、火を入れないと2日で腐るのだ。
40年以上前からNHKの今日の料理は、多くの主婦の手引きであった。
私は3年に渡って雑誌をとり続け、ファイルをして材料ごとに分類をしていた。
その中で伝承されなかったお正月料理を土井勝さんと決めて、作り続けた。
母親も作っていたが、当時の子供の私の口には合わなかった。
美容院を経営していた母親は、オムツをしていた私を何年か日中、市場の近くの夫婦に預けていた。
その夫婦は奈良の出身らしく、私に茶粥を食べさせていた。私が嫌がるものは食べさせないように大事に育ててくれたと思う。
大きくなっても行きたがって母親をなん度も悲しませたと思える。すっかり野菜嫌いに育っていたということである。
甘やかされていたのである。肉も魚も嫌い。食べるものが少ない状態では、母親は学校から呼び出されたわけである。給食の問題もあったと思う。
母親が作っていたお節は思い出せる。辰巳芳子さんのお節とよく似ている。
クワイがないのと鯖の押し寿司がないぐらいである。
バッテラは経木に包まれて木箱に入っていた。その少し古くなったすし飯の冷たく固いのを、噛み締め食べた味がわすれられない。私のキッチン道具には押し寿司の型があるぐらいだ。
暮れになると繰り広げられるお節の注文の写真を見ると、そこまで作るものだろうかといつも思う。
喫茶店を辞めてから本格的に楽しみに作り始めたお節だが、今年はどうも一つの流れが見えて来た。
お雑煮に尽きるということである。
本格的に作っていた時は作るタイミングに合わせて表まで作って、3日前は黒豆やサツマイモと流れに合わせて作り上げたが、私の子供の時と一緒で子供はあまり食べてくれない。一人食べ続ける羽目になり、すぐに辞めた。そして喫茶店の仕事ではお節より雪かきの仕事が大変だった。
店を辞めて一番に作り始めたのは本格的な和食料理だった。煮物、漬物と作るが、やはり濃い味は飽きる。煮詰めて味を浸透させても少ししか食べられない。味に飽きるのだ。
もう一度土井勝さんのお節に戻ることになった。その中でも煮物はあまり好きではなく、からりと、煮切る煮物の方が口に合う。
大事に取った1番出汁で、
最初はほんわり鰹風味の醤油一滴、柚子香のお吸い物で関東風お雑煮。
2回目は1番出汁に2番出汁を合わせ、前日親鳥で取った鳥だしを加え、柚子焼きの鶏肉を切って椀に入れ、ごぼうとセリいっぱいにして、秋田風雑煮。筍も人参も煮物を使う。
3回目は2回目に使った残り出汁に、貝柱の戻し汁を隠し味に使い、ほとんどのお節の野菜の材料や鶏肉を切って入れ、だし巻き卵も入れ、玄米餅と手作りの餅を軽く焼いて椀に入れた。醤油と塩を足し、日本酒も入れる。お節もどんどんなくなる。
最後は生鮭を焼いて柚子醤油に漬けたのを、椀に入れてネギ仕立てにする。これらで、黒豆と栗金時と酢蓮にたたきごぼうが残るだけになった。
とめ汁は辰巳芳子さんの命のスープ玄米を無農薬で作って、お仕舞いとする。
今回のお節の圧巻はやはり生協クラブの食材を使い切ったところにある。
貰い物以外はすべて無添加かそれに準じた食材だ。
特に初めて北海道産の鰊で、同じく北海道産の昆布で作った昆布巻きである。こんなに味がすっきりとした昆布巻きは初めてだった。今まではアメリカ産を使っていた。練り物もかまぼこも国産の優れものである。決して安い値段ではない。醤油も味醂も酒も全て国産の添加物なしである。水飴を使ったようなスーパーお節は一つもないし高いエビもカニもない。
産みたての卵とはんぺんを使った伊達巻に、出汁巻き卵。少し醤油を垂らすだけで味が鮮烈に変わる。
最初から甘くてベタベタはしない。のどが渇く思いを少しもしない、ささやかな材料できりりっと仕上がった、上出来のお節でした。


ぐち入りの無添加のかまぼこと手作りの伊達巻と久しぶりに丹念に作った土井勝さんの黒豆。アメリカ産の鉄鍋で煮てからステンレス鍋で作ったので
黒々としてふっくらとシワひとつありません。私好みの豆の固さをキープしています。