ハワイ島 (1)

2009年09月07日 | 風の旅人日乗
ナイノア・トンプソンは、太平洋に拡散した民族が遥か数千年前から伝承してきた航海術を現代に引き継ぐナビゲーターである。

ナイノアは、太平洋の島々に住む民族が、祖先から伝わる航海能力と文化を誇りに思い、それを未来に伝えていくことを強く願っている。
ナイノアは航海セーリングカヌーのナビゲーターとして太平洋を自由自在に航海する。
ナイノアは、ポリネシア人と同じように太平洋に浮かぶ島国に住むわれわれ日本人もまた、祖先を同じくする太平洋民族の一員であると強く信じている。

ぼくが、ナイノア・トンプソンというハワイ人の名前を初めて知ったのは、もう10年近く前のことになる。彼のことを書いた本や、彼をテーマの一つとして作られた映画を通じて、ナイノア・トンプソンという人物が、太平洋を舞台に非常に意義深い航海や活動を成し遂げてきたことを知るようになった。

その後、実際にナイノア・トンプソンに会うことになり、ハワイの海を走る航海カヌーに乗って一緒にセーリングしたり、沖縄の海でパドリングを共にするようになると、彼の存在と生き様は、ぼく自身の考え方や生き方そのものに、深い影響を及ぼすようになった。
・・・海で生きる人間として、こういう男に自分はなりたかったのではなかったか・・・。
彼のような姿勢で海とセーリングに関わりたくて、現在に至る自分の生き方を選んだのではなかったか・・・。

ナイノア・トンプソンという人物に触れて以来、自分が日本人であることの意味や、ぼくたち日本人が海に出ることの意味、そしてセーリングという文化に自分が関わっている意味について、真剣に考える時間が増えた。

そうなってくると、セーリングの技に長けることやヨットレースで勝とうとすることだけに人生の意義を見出そうとしていたそれまでに比べて、海の上で過ごす時間やセーリングそのものに、一層の愛着を感じるようになった。
そしてさらに、自分が日本人として生まれたことや、海で生きる人生を選んだことの誇らしさが、我ながら驚くほど、強く湧いてくるようになった。

ノルウエーの故トール・ヘイエルダール博士は、太平洋の島々に生活するポリネシア人たちが南米大陸から海流に乗って太平洋に拡散したという仮説を実証するためにバルサ筏・コンティキ号での実験航海を行なった。
だが、ヘイエルダール博士の立てた仮説はいかにも西洋人らしい固定観念に縛りつけられていた。彼は、他のほとんどの西洋知識人と同様、古代太平洋民族が西欧の航海術を上回る航海能力や知的水準を持っていたはずがないと考えた。したがって、ポリネシア人たちが海流と貿易風を遡って西から東へ拡散していった可能性を検討することなど、彼には思いもよらないことであった。

しかしヘイエルダールの実験航海後しばらくすると、動かしがたい考古学上の発見や科学的調査分析を通じて、彼の仮説が間違っていたことが明らかになる。

現在では、太平洋の民族と文化圏は西から東へ、つまり現在のミクロネシア、メラネシアを経てポリネシアに拡散していったこと、そしてその一部が南米まで到達したこと、などが明らかになっている。
相変わらずの固定観念から抜け出せない多くの西洋人考古学者たちも、この学説については渋々認めざるを得なくなっている。

しかしこの学説の大部分は、実は今から200年以上も前に、皮肉なことに、西洋人の英雄であるキャプテン・ジェームス・クックがすでに看破していた。

クックは複数回に渡る太平洋への遠征航海を通じて、広大な太平洋に広がる、ポリネシアからメラネシアに至る島々で使われている言葉や文化が同じ系列であることに気付いた。
そして、彼らが操る全長30メートルを越すセーリング航海カヌーが高速で走るのを目の当たりにする。また、彼の西洋型帆船に水先案内として同乗したタヒチの長老が示した驚くべき航海能力から、彼らが太平洋についての深い知識と高度な航海術を持っていることを知った。
それらのことから、太平洋の民族が非常に古い時代から太平洋の島々を自在に行き来してきたことを、クックは驚きを持って確信せざるをえなかったのだ。

キャプテン・クックはさらに、太平洋民族の航海術の詳細について知り得たことを報告している。
すなわち、西洋航海術では不可欠な、時計をはじめとする天測用具を一切必要としないらしいことと、彼らがそれぞれの島への方位、距離を正確に把握しているらしいこと…。
しかしクックは、太平洋の民族の航海術についてそれ以上具体的に知ることはできなかった。

その後、比較的最近になって、ミクロネシアの島々にかろうじて残っている伝承や、数少ない航海士の末裔の記憶から、その航海術の実際が世に知られるようになった。

その伝統航海術は、それぞれの島の、航海士として特殊な能力を備えた子孫だけに伝承されていく。
その航海術は、すべて、数千年の昔から脈々と受け継がれてきた”記憶”だけで成り立っている。
その航海術は、どんな道具も使わなければ、データを記録する筆記用具の類も必要としない。
その航海術は、歌として記憶した星や太陽の位置、脳に記憶した航海時間とスピード、カヌーを通して体に伝わる海のうねりなどの情報を元に、目的地へと向かうのだ。

次世代の航海士と定められた者は、生れた直後からそのための教育を受け始めるが、それは、膨大なデータを記憶し海での感覚を研ぎ澄ますために、みずみずしい状態の脳細胞が必要とされるからだ。

ナイノア・トンプソンは、この航海術を自らの意思で学ぶことを決心したが、そのとき彼はすでに20歳を越えていた。伝統航海士としては、遅すぎるスタートだった。
しかし、祖先がかつて持っていた航海能力を自分が蘇らせ、自分が後生に伝えなければならない、という信念が、彼を衝き動かし、不可能への挑戦を奮い立たせた。

ナイノアはミクロネシアのサタワル島を代表する航海士、マウ・ピアイルグから伝統航法を学んだが、それと同時に、現代の天文学と自然科学を猛勉強した。
天文学を勉強したのは自分独自の星測航法を取り入れるためだった。
自然科学を勉強したのは観天望気を近代科学で補強するためだった。
航海士はカヌーのコースを決めるだけでなく、天候の変化を予測し、カヌーと乗員の安全にも責任を持つ。
ナイノアはこれらの工夫と努力によって、成人してから伝統航法を学ぶというハンディキャップを克服しようと考えたのだ。

1980年。27歳のとき、ナイノアは全長62フィートの双胴セーリングカヌーホクレア号のナビゲーターとしてハワイ-タヒチ間、片道それぞれ約30日に及ぶ往復航海を成功させる。
安全の目的で伴走船が随行したが、針路はもちろんホクレア号の航海士であるナイノアが決定した。
伴走艇はその後ろを、後日の研究のためにホクレア号の実測コースを記録しながら走ったに過ぎない。

航海後に照らし合わせてみると、ナイノアの推測コースと電波航法で伴走艇が測定した実測コースは、誰もが驚くほど接近していた。それはその後のいかなる航海の際にも同様だった。

1985年には、ナイノアが率いるホクレア号は、2年間をかけてタヒチ、ニュージーランド、トンガを巡ってハワイに戻るという大航海に出かける。そして、それらのコースのすべてを伝統の航海術で走ることに成功した。

タヒチからニュージーランドに至る航海は、ハワイキ(現在のタヒチ西側の島だと想定されている)から指導者パイケアに率いられて祖先がやってきたというマオリ神話を実証する形になり、マオリの人々に深い感銘を与えた。
神話を目の当たりにしたマオリの人々は自分たちの民族に対する誇りを思い出した。それはその十数年後製作され日本でも大評判になったニュージーランド映画『クジラの島の少女』を生み出すキッカケにもなった。

ニュージーランドに限らず、伝統航法によるホクレア号の太平洋周航は、太平洋の民族に大いなる勇気を与えることになり、
各島でホクレアと同じような航海カヌーが相次いで造られ、
それぞれが伝統航法を使って太平洋へと乗り出すようになった。

ホクレア号に乗せてもらった日のことを思い出す。
一晩をかけてオアフ島からマウイ島までをセーリングした。
左右両舷の後ろ側、航海中ナイノアが常に座る場所の手摺には、幾筋かの切り込みが彫り付けられていた。ナイノアが考案したスターコンパスの目盛りだ。

真夜中。
波の大きなモロカイ・チャンネルの真ん中だというのに、伴走艇のドライバーと運転を交代して休ませるために、Tシャツを脱いだナイノアは小さなトーチだけを手に海に入り、伴走艇へと泳いでいった。
月のない夜。
ホクレア号とその周囲の海は、なんだか不思議な空間と時間に包まれていた。短いけれど、素晴らしい航海であった。

2003年の6月、ナイノアはサバニに乗るために沖縄にやってきた。サバニは、現在ではほとんど実用に使われることはなくなっている、沖縄に古くから伝わる優秀な性能を備えた帆装小舟だ。
慶良間諸島の座間味島から那覇までの航海に乗り出す朝、ナイノアに率いられた日本ハワイの合同クルーが、それぞれの手を繋いで円陣になって航海の安全を祈る。ハワイで、ホクレア号の出港前にも同じ儀式を行なったことを思い出した。目を閉じてナイノアがつぶやく静かな祈りの声を聞いていると、自分にも航海民である先祖の血が流れているのだという、不可解だけれど幸せで、雄々しい気持ちが満ち満ちてくる。

それから4年後の2007年、ナイノア・トンプソンは長い間暖めていた計画を、ついに実行に移した。ホクレア号による、ハワイからミクロネシアを経由して日本を目指すという、ホクレア号による大航海計画である。
(続く)

「続く」、のですが、今夜からしばらく日本を留守にします。
ここに書いてきたホクレアでのトレーニングに参加するためです。しばらくはこのブログは更新できません。
10月から燃油サーチャージが復活するためか、9月の飛行機の席はいっぱいいっぱいになっていて、ハワイからの帰り便は空席待ちです。ですので、帰国日は一応2週間くらい先ですが、未定です。
なので、「続かない」かもしれません。
スミマセン。