日々楼(にちにちろう)

古今東西・森羅万象の幾何(いくばく)かを、苫屋の住人が勝手御免で綴ろうとする思考の粉骨砕身記です。

アリストテレスの幸福

2011年06月12日 | 日記

アリストテレス(BC384-322)に『二コマコス倫理学』と言う本があります。

その中で幸福について述べています。

彼の思索の到達点は、「人間は善であるべきで、人間の幸福はその(善を前提とした)生命活動=実践の持続にこそある」というものです。



アリストテレスはギリシャ時代の人ですからその思考には限界もあります。

アテネの市民は労働を行っていませんでした。

ですから、人間の生命活動=実践と言っても、その思考の中には働いてものを作るという考えは入ってこないのです。



彼は「制作」という言葉も展開していますが、それはあくまでもポリス市民の活動の範囲内のものです。

この思考に「労働」の考え方(概念)を取り入れたのが、ヘーゲルです。

『精神現象学』の有名な「主人と労働」の箇所で、ヘーゲルは、「いやー、この世界を作っているのは労働する奴隷ではないか」と思うのです。

これだけでもヘーゲルはすごい人です。(ひょっとすると、アダム・スミスあたりの考えが入っているのかも知れません)。

これを引き継いだのがマルクスです。彼は、ヘーゲルの弁証法も取り入れて、唯物弁証法という「理論」を組み立てます。

しかし、マルクスの考えは、現実の人間のありのままの姿から乖離した仮構の世界の上に組み立てられており、

社会は自由を失いますから、捨てなければなりません。



アリストテレスは人間の生命活動を二つに分けました。

一つは、認識だとか知性だとかの魂=精神の領域、一つは、それ以外の感覚だとか知覚だとか本能だとかの生命の領域、です。

厳密な意味では、魂=精神の領域も、理性(ロゴス)的な部分と反理性的な部分に分けています。

反ロゴス的な部分とは、私達の感覚や本能が関わり、良心が葛藤する部分と考えれば良いでしょう。



アリストテレスは、『二コマコス倫理学』の中で、「快楽は善である」と考えたエウドクソス(BC400-347頃)を引き合いに出して、

「快楽 即ち 善」ではないことを述べます。この場合の「善」を、人のモラルとしての善ではなく、「良きもの」と考えれば、人の「快楽」には

悪しきものも存在するのですから、当然、アリストテレスは正しいことを述べています。しかし、彼は「学問の快楽」も述べており、これは、

必ずしも「快楽」が人間の感覚や知覚や本性といった生命領域に限定されるものではなく、認識や知性、魂=精神の領域にまで及ぶものであることを

述べたものであり、彼が意図したであろう「幸福」と「快楽=快」の判然とした区別には、アリストテレスをもってしても成功しているとは言えません。



事実、彼は、「知性的認識とか観照のはたらき」にも快楽の存在していることを認めて、それは「よきありかたにおける主体の活動」(『二コマコス倫理学』の中の

この引用は、アリストテレスがエウドクソスの言葉から引いたものと思われます)と述べています。

ただ補足して置けば、彼は、「快楽」を、時間や運動や継続といった概念に対比させて、「瞬間的な『今』において行われうるところのもの」と規定しています。



このブログで何故、「幸福」と「快楽」にこだわるかといえば、アリストテレスの後にエピクロス(BC341-270)が出て、「静謐な快」を説くのですが、

後世、エピキュリアンなどと言われて分が悪いからです。



そろそろ結論に移ります。

アリストテレスの「幸福」は、古代ギリシャ哲学者の特性として、智慧や知性の生涯にわたる活動に人間の究極的な幸福を見出し、

「幸福」が万人に及ぶものではないという限界を有しています。しかし、その「幸福観」は、人間の生命活動の善き「快」も含意したものとなっています。

そして彼はその実践と継続を説きます。彼の実践観は、人のモラルとしての善を前提としており、社会は法律の下で、公共の教育と家父による個別的な教育が

行われることで、その社会は画一的ではなく多様性をもって発展する可能性を秘めたものとなっています。



そしてアリストテレスを継承する現代の課題は、

人間は善であるべきで、一人一人の人間の幸福は、人のモラルとしての善が前提とされた、一人一人の生命活動=実践の持続が

万人に保障される万人幸福の社会を、如何に作って行くかにあるように思えます。





参考文献: アリストテレス『二コマコス倫理学』 岩波文庫上・下

 

 

 

 

 

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