日々楼(にちにちろう)

古今東西・森羅万象の幾何(いくばく)かを、苫屋の住人が勝手御免で綴ろうとする思考の粉骨砕身記です。

ポパー博士のヘーゲル弁証法に対する評価について

2013年07月28日 | 日記

A.『推測と反駁』 におけるヘーゲル弁証法 

 

α.最初に、雑々としたこと

 

1.ポパー博士において、ヘーゲルはカントと対比して分が悪い位置を占めます。分が悪いというより正

反対の評価です。カントは明晰に記載され、カントの批判的態度は読む者をして納得せしめます。一方、

ヘーゲルの論点は不明瞭というより、批判者としての博士の明晰さが曇っているのではないかとしばしば

思ってしまいます。

 

2.この原因を考えるに、カントの行ったものは批判哲学であり、ヘーゲルのそれはいわば自己完結(自

完成)哲学であったという所に在るのかも知れません。ドイツからは、マルクスとヒトラーが出ました。

マルクスはヘーゲル学徒であり、ヒトラーについては、ヘーゲルの自己完結型絶対者の概念が彼をして狂

信的にとらえさせたのかも知れません。ただしこれは、私はヒトラーを読んでいませんのであくまでも推

測の領域を出ません。

 

3.常々、思っているのですが、ヒトラー(1889~1945)の前の時代には、哲学者のマックスウェ

(1864~1920)がいました。キラ星のような哲学者が、ヨーロッパには存命中でした。しかし、ヒトラ

ーの登場を阻止できませんでした。これが何故だろうとよく考えます。ナポレオンをヘーゲルは世界精神

と呼びました。ヴェートーベンは交響曲第3番を書きました。ヒトラーは演説がうまく、演説の前にはワ

ーグナー(1813~1883)の曲を流して、その場の聴衆をおそらく熱狂へと誘う、雰囲気を作ったと言わ

れます。しかし、ナチスの行ったことは、現代において、それをなお政治と呼ぶならば、それは人間を否

定する政治であり、ヒトラーのような人物の登場を、私達は絶対に許してはなりません。それは全力で臨

まなければならない戦いの対象です。哲学者は、かかる事態に対して何故無力であったのでしょうか?

(注: この項の表現を、英語版に合あわせて一部変更し、また、誤解を避けるため、前の表現の最後の

語句を削除致しました。2013.8.23 )

  

4.ポパー博士(1902~1994)も存命中でした。著作は、『科学的発見の論理』が1934年に書かれ、

『自由社会の哲学とその論敵』が1945年に出版されました。彼のヘーゲルに対する明晰さを欠くのも、

ユダヤ人を強制収容するナチスドイツの哲学者という緊張した思いがあったことも否めないのではないか

とも思えます。また、ロシア10月革命には多くのユダヤの人々が関わりました。その代表者には、レオ

ン・トロッキーという人をあげることができます。彼は、スターリンの刺客によってメキシコで暗殺され

てしまいました(1940年)。また当時は、共産主義が哲学者たちに幻想をふり撒いていました。( 注:

英語版に合わせて、この項の最後の語句を追加致しました。2013.8.23 )

 

5.ポパー博士は、ヘーゲルよりもマルクスに好意的であります。私は、マルクスの世界は仮構の世界で

あると考えています。後で書きますが、博士にもカントを通して人が仮構の世界を描くことを容認する記

述があります。これが、私達の日常世界に対して、マルクスのような仮構世界を描くことであるならば、

私達はそれを拒否しなければなりません。オウム真理教のテロ行為に、高学歴の科学者の卵の人々が多く

関与したのも、その原因はこんなところにあるかも知れません。重ねて、こういった宗教を仮構した虚構

世界も容認できないことは明らかです。

 

 β.ヘーゲル弁証法

 

1.弁証法については、2011年12月31日の記事「法と正義 6」、「A.弁証法について」も参

照にしてください。

 

2.博士が述べられている、「弁証法(近代的意味での、つまり、特にヘーゲルが用いた意味での弁証法)

は、あるもの――とりわけ人間の思考――がテーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼという弁証法的三幅対と

呼ばれるものによって特徴づけられる仕方で発展すると主張する理論である」という説明は、誤りです。

これは、むしろマルクスの時代の、とりわけエンゲルスによって規定された「弁証法的発展」を述べられ

たものです。

 

3.ヘーゲルの哲学は、自己確証の哲学です。自己は他者、他の物、他の世界に対峙し自己を確立して

きます。この方法を彼は古代のギリシャ哲学の対話法を継承する弁証法としました。それはソクラテスの

方法でもあり、ポパー博士の“仮説と反証”の方法でもあります。こうして自己(ヘーゲルの場合、精神で

もあるのですが、人の行為はその者の精神作用ですから、自己=精神=自然と理解して良いと思います。

私は、そうしています)は、自己と世界を理解し、両者を調和的に発展させてゆきます。これがヘーゲル

の哲学の体系です。

 

4.しかし、ヘーゲルは、「絶対者は精神である」(『エンチュクロペディー(384)』と言います。

「絶対的精神」(同 385)とも言います。すこし分かりにくい言葉が並びますが、ヘーゲルがいうそ

状態を、紹介しておきます。

 

「精神の客観態とその観念態すなわちその概念との統一、絶対的に(自体対自的に)存在し、永久に自

己を生み出している統一においてあるとき、精神がその絶対的真実態にあるとき、これが絶対的精神で

ある」(同 385 出典:河出書房新社 世界の大思想 15)。

 

これが、自己完結型ヘーゲル哲学の到達点です。この「絶対者」・「絶対的精神」を、私は理解できない

でいます。

 

5.そこで、もう一つヘーゲルを引用します。


「精神は自らの個別的直接性の否定に、無限の苦痛に堪(た)えうる。つまり、この否定性において肯定

的に自らを支え、自らに対して同一でありうる。この可能性は精神の自らにおいて向(こう)―自(じ)

―有(ゆう)的な普遍性である」(前掲書 382)。

 

自己=精神であるとき、この世界は、かつての日本でも、すぐれた武芸者の修業の心構えとして、また、

禅の悟りの究極の境地として説かれてきた世界であることを私達は知っています。しかし、自己=自然で

あるとき、自己=自然=絶対者という等式は成立し得ないことを知ります。そこで私は、この「絶対者」

を、思惟の不遜・思考の傲慢と呼ぶことにしました。また、ヘーゲルが使っている絶対という考え方は、

彼の自己認識の始まりである弁証法から言っても否定されるのです。このことを彼は知っていたのでし

ょうか?それは分かりませんが、気付いていたと思うと面白いですね。こういう課題を彼は後世の私達

に残しました。しかし、立ち止まらないで前へ進みましょう。( 注: 英語版に合わせて、この項の最

後の語句を追加致しました。2013.8.23 )

  

6.ヘーゲルの功績は、彼は、労働を哲学に取り入れることを意識した人だという点にあります。アダム

・スミスの『諸国民の富』は、1776年に出版されました。これに触発されたのだと思います。

古代ギリシャのヘシオドスは、『仕事と日々』において勤勉であることを説いています。聖書にも労働は

語られています。古来、労働はその成果物をもって人に富をもたらすものであると理解されて来たように

思います。ヘーゲルはこの労働――その成果物をもって富を生み出す源泉でもあるのですが――を、世界

を生み出す源泉として、哲学の体系の中に取り込みました。

 

7.以降、哲学の扱う対象は世界となりました。それまで、哲学者は思惟をもって自分の存在を確かめて

来ました。その典型は、デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉を思い出せば済みます。同じよう

に、芸術家はその作品に自分の人格を吹き込みます。政治家は人々が生甲斐をもって暮らす社会を自分の

仕事の目標とします。学者は学問上の成果と有効な政策提言を、自分の存在の証しとします。これと同じ

ように、江戸時代の飾り職人は自分のかんざしの出来栄えを自分の証しとし、現代の鉄筋工は完成したビ

ルに自分の仕事の証しを見ることができます。この世界を可能にしたのが、ヘーゲルです。この功績は、

彼がどんなにけなされようと、忘れれてはならない点です。( 注: 英語版に合わせて、この項の語句を

修正致しました。2013.8.23 )

 

 γ.ポパー博士の方法

 

1.ポパー博士は、カントの方法を継承されました。博士はこれを、「知性は、その法則を自然から導き

出すのではなくて、その法則を自然に課すのである」(『推測と反駁』・「カントのコペルニクス的転回

」)と記され、カントによる定式化だと述べられています。これも思惟の不遜ともいうべき記述で、正確

には正しくありません。自然の振る舞いが法則、或いは、仮説として記述できるのは、自然がそのように

振る舞っているか、或いは、振る舞うことが推論できるときのみです。カントはこれを、「生起する一切

のものは仮言的に必然的である」(『純粋理性批判』・「観念論に対する論駁」 岩波文庫 上巻)と述

べています。仮説や仮構はすべて受け入れられるものではないのです。

 

 δ.マルクスの誤り

 

1.マルクスの世界は仮構の世界です。その社会は、労働の等質性と社会の同質性を仮構して組み立てら

れています。

 

2.労働の等質性とは、例えば、ここに一万人の人がA・B・C・D‐‐‐‐‐といるとします。この人たちが

仕事をすること、即ち、労働(マルククスはこの労働を「生理学的意味での人間的労働力の支出」と呼び

ます)は、同じ価格の単位Aに等置されます。これがマルクス経済理論の基礎です。この上に単位Aを労

働時間に換算した交換理論が築かれます。

 

3.簡単に述べただけでも、マルクスは人間が多様に生きる意義を切り捨て、理論を組み立てていること

が分かります。そして、彼はこうした切り捨てを、確か『学位論文』の草稿だったと思いますが、自分で

も容認しています。こうして組み立てられた社会が自由である訳がありません。( 注: 英語版に合わせ

て、この項の語句の一部を修正致しました。2013.8.23 )

 

4.マルクス主義は何故自由を失うのか、詳しくは私(前田子六)の『マルクス批判 マルクスにおけ

人間の個と類の概念 ――その批判的考察』(近代文芸社)を御参考ください。検索してみましたら

アマゾンで扱って頂いています。下記アイコンを、御紹介致します。( 注: この項の表現を修正致し

ました。2013.8.23 )

 

 

マルクス批判―マルクスにおける人間の個と類の概念 その批判的考察 (近代文芸社新書)
前田 子六
近代文芸社

 

精神現象学
G.W.F ヘーゲル
作品社

 

 

                             空

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